終わらない電話
一人暮らしの老婦人の元に届いた、一本の不審な電話。「オレだけど」——テレビで見聞きするお決まりの詐欺の手口に、老婦人は騙された振りをして犯人を捕まえようと試みます。
しかし、受話器の向こうから聞こえる言葉は、予想もしない方向へと進んでいき……。
プルルル、プルルル。
静まり返ったリビングに、場違いなほど高い電子音が響き渡る。
一人暮らしの老婦人、志津は、眼鏡の位置を直しながら受話器を取った。いつもは滅多に鳴らない固定電話だ。
『もしもし、オレだけど。オレ。久しぶりだね、母さん。実は……ちょっと大事な話があるんだけどさ』
受話器の向こうから聞こえる男の声。志津は一瞬でピンときた。
(ああ、なるほど。これがテレビのニュースでよく見る『オレオレ詐欺』というやつかい)
志津は年金暮らしとはいえ、町内会の役員を現役で務めるほど頭ははっきりしている。そう簡単に騙される老女ではない。どうやって調べたのか、確かに志津には息子が一人いる。しかし、あの不届き者は十年前、父親の葬儀の直後に家を飛び出したきり、連絡一つ寄こさない親不孝者だ。
「オレって一体どちら様ですか? 何のご用件でしょう」
志津はわざと冷淡に、突き放すような声を出す。
ここは一芝居打って、騙された振りをしながら警察に突き出してやろう。老人の大切な財産を貪る悪党どもに、一矢報いてやるのだ。
『オレだってば。ちょっと風邪気味で声がいつもと違うかもしれないけど、忘れちゃったのかい? それより、突然で悪いんだけど、母さんにどうしても伝えておかなきゃいけないことがあってさ』
「久しぶりの電話かと思えば、一体何だい。用事があるならこっちに顔を出せばいいじゃない。あれから何年経っていると思っているのさ」
志津の嫌みにも、電話の主は怯まない。
『そ、そりゃあ、オレにだって色々と事情があってさ。悪いとは思っているよ。でも、オレなりに必死に頑張って、ようやく一人前になって……それで、その……』
「それで、私にどうしろって言うんだい。言いたいことがあるなら、はっきり言ったらどうだい」
(どうせこの後、会社で大きなミスをしたとか、ヤミ金に追われているとか言って、大金を要求してくるんだろう)
志津は心の中で鼻で笑った。
『どうしろってわけじゃないんだ。ただ、ちょっと言いにくくて。オレも、もう二十八になったわけだし……』
「そうだろうねえ。高校を出てすぐに家を出たんだから。……父さんだって、いや、父さんのことはもういいのかい?」
最近の詐欺グループは、息子の年齢まで調べているらしい。志津はカマをかけてみた。夫が亡くなったあの時、息子は泣き言一つ言わずに家を出て行ったのだ。さあ、どう切り抜ける?
『父さんは……もう、いいんだ。きっと分かってくれていたと思う。いつかちゃんと、墓前に報告に行かなきゃって思ってるよ』
(ふん、上手くかわしたつもりかい)
「で、お前は結局何が言いたいんだい。本当に昔から物事の結論を伝えるのが下手くそな子だね」
『……実は、子供ができたんだ。まだ籍は入れていないんだけど、近いうちに結婚したいと思ってる』
(ほら、お決まりのパターンだ)
子供ができた、責任を取るために示談金や結婚資金が必要だ——そうやって金を要求する詐欺の手口を、志津は何度もテレビで見ている。
「子供って、結婚もしていないのにかい? 向こうの親御さんにはちゃんと話を通したのかい。……それでお金の方は、どうするつもりなんだい」
『まだ、向こうのご両親には挨拶に行けてなくてさ。近いうちに行くつもり。お金の方は……実は転職したばかりで収入も少なくて、正直、困ってはいるんだけど……』
(さあ、尻尾を出したよ)
志津は内心で勝ち誇った。騙された振りを続け、直接手渡しする約束を取り付けて、警察に現行犯で捕まえさせてやる。
「そうかい、そうかい。どのくらい必要なんだい? 私だって年金暮らしとはいえ、コツコツ貯めてきた大事な蓄えがある。かわいい初孫のためなら、出し惜しみはしないさ。さあ、いくら欲しいんだい?」
志津の言葉に、受話器の向こうで短い沈黙が流れた。
やがて、男は困ったような、ひどく優しい声で笑った。
『い、いや、そうじゃないんだ。別にお金が欲しくて電話したわけじゃないんだよ、母さん』
「え……?」
『今日電話したのはね……オレがこうやって好きな人ができて、子供ができて、まだ半人前だけど、なんとか社会人としてやっていけているのは……その、母さんのおかげだなって、思ったからなんだ』
予期せぬ言葉に、志津の胸がドクンと跳ねた。
お金はいらない? では、個人情報を引き出すための別の罠なのか。志津は動揺を隠すように声を鋭くする。
「今日はそれを言うためだけに電話してきたって言うのかい? 本当は別な用件があるんじゃないのかい」
『……実はね、母さんにお礼が言いたかったんだ。今まで迷惑ばかりかけて、一度も親孝行らしいことなんてしてこなかったから。最後に、一言だけ、どうしても』
「今更お礼だなんて、何だい。それに、最後ってどういう意味さ……!」
何かがおかしい。胸の奥から湧き上がる嫌な予感が、志津の声を震わせる。
『母さん、今までありがとう。……そして、ごめんなさい』
ツッ、ツッ、ツッ……。
冷たい電子音を残して、電話は切れた。
「もしもし? ちょっと、待ちなお前! もしもし!」
受話器を握りしめた志津の指先が、ガタガタと震えていた。あの不器用な話し方、照れ隠しの笑い声。記憶の底にある、十年前の息子の面影が鮮烈に蘇る。あれは、詐欺なんかじゃない。本物の——。
それから一時間と経たないうちに、静まり返った部屋に再び電話が鳴り響いた。
志津は祈るような気持ちで受話器をひったくる。
「もしもし!」
『あ、もしもし。警察ですが、こちらに〇〇(息子の名前)さんのご家族はいらっしゃいますか? 昨夜、〇〇さんが交通事故に遭われまして、現在、市内の病院に搬送されています。至急、来ていただけますか』
受話器が、志津の手から滑り落ちた。
あれから、ちょうど一年の月日が流れた。
志津は相変わらず病気一つせず、以前と変わらない毎日を送っている。
ただ、変わったことと言えば、毎朝仏壇の前に座り、静かに手を合わせる時間が長くなったことくらいだ。遺影の中で、息子は十年前の幼さの残る顔で笑っている。
「そうだ、明日はお前のお嫁さんが、あの子を連れてここに遊びに来てくれる日だよ」
一歳になったばかりの、お前にそっくりな男の子。
お前が命を懸けて遺してくれた、志津の宝物だ。
「お前も、息子に会うのは一年振りだろう? 気が向いたら、またいつでも電話しておくれ」
志津は静かに目を閉じ、あの日、最後に聞いた息子の声を思い出す。
「今度こそ、怒鳴ったり疑ったりしないから。お前の声なら、いつまでも、何度でも、ちゃんと覚えているからね」
風もないのに、仏壇の線香の煙がふわりと揺れた。
志津の耳の奥に、あの愛おしい、少し掠れた声が響いた気がした。
『もしもし、オレだよ、オレ。久しぶりだね、母さん。実はさ……』




