第8話
目を閉じて、日付は巡る。朝日は変わらず昇って、僕の一日もまた変わらず始まっていく。寝癖のついた髪も、たるんだ頬も。外に出れば、あの風景が広がっている。澄んだ空気が満ちて、胸の中をいっぱいにする。
草木が揺れて、朝露が煌めく。信号を待っていると、君がいつもののようにやって来る。
腕を振って、天然水のように透き通った声が優しく街に舞う姿には、憂いも、悲しみも存在しない。あるがままの単純な感情。
僕はいつ聞けば自然だろうか、とそればかりを考えていた。時間の秒針は進む。
結局、切り出せないまま昼休みの時間になってしまう。
僕はいつものようにあそこへ行こうと机から立ち上がって、廊下を歩く。溢れんばかりの活気が校舎を照らし出す。色とりどりの話題が耳を通過していく。
「ねえ、なんかあの転校生ウザくない?」
その一つの話題が鮮明に鋭く耳を通過して、僕は足を止めてしまった。
転校生、時期的に君を指す言葉。声のする方へ顔を向けると、そこに居たのは君の転校初日に、嫌な視線を送っていたクラスメイトだった。
今までは怒りなんてなかったのに、僕は心底腹がたつ。
一言だけ言ってやろうと、ソイツの元へ行こうと足を動かした時、視界の隅に入ってしまった栗色の髪の毛。視線を向けると、そこに居たのは一昨日の君だった。震える手が、恐怖に怯えた瞳が、僕を見ている。
「やば、いるじゃん」
ソイツはそれだけを残して、そそくさとその場から消えてしまった。
僕が君のもとへ駆け寄ろうとしたとき、拒否するかのように君は走り出してしまう。慌てて、追いかけるけど足の速さが違いすぎて、背中はみるみる離れていく。息も絶え絶えに、君を追い掛けて行き着いた先は僕らの秘密の共有場所で、扉の前で君は蹲っていた。階段を昇って、君の横に座る。
「大丈夫?」
「……大丈夫」
「本当は?」
「……大丈夫じゃない」
君は鼻水混じりの声で答える。
「一昨日もあんな感じだったよね。 教えて欲しい、君のことを」
君がゆっくりと顔を上げて、ビードロの瞳は潤んでいた。
ひと呼吸おいて、ゆっくりと君は語り出す。
「実はね、私前の学校で虐められていたんだ」
いまの君からは想像が難しい真実に、僕は驚く。震えながら言葉をひとつ吐き出す度にポロ、ポロ、と涙が頬を伝って落ちていく。君の苦しみが、痛いほど伝わってきて、そっと手を握る。
「なんもしてないのにさ、男たらしとか言われてさ。身に覚えのないことを言われて。でも、言い返せなかった。もっと酷くなるかもって」
「うん」
息が詰まりながらも残酷な言葉は紡がれて、僕はただ言葉を受け止めていく。君はスカートを握り締めて、嗚咽が混じる。
「でもね……負けたくなかったの。だから、転校しても明るいままでいよう、私は私だからって。でも、違う学校の制服を見ると怖いし、人が多いと少しだけあの時を思い出しちゃうんだ。弱いよね」
ボロボロと涙を零して、君は全てを語ってくれた。
僕はずっと君は強いと勝手に思っていた。でも、そうじゃなかった。それは、勝手に抱いていた嘘の君で、本当の君は痛みを抱えながらも、強く生きようとしている等身大の少女でしかなかった。
あの時、君は傷付き助けを求めていたのに。僕は見逃してしまった。手を伸ばすべき時に伸ばせるように。僕の想いを、君へ。
「君は弱くなんかないよ」
僕は、君の心の苦しみは計り知れないし、分かってあげれない。悲鳴をどれだけあげているかも、想像で補うしかない。
でも、それでも、僕は君を受け止めたかった。未熟で、弱くて、脆いかもしれないけど全身全霊をかけよう。ビードロの瞳が揺れる限り、君の一歩を僕の一歩で二歩に。小さな歩幅でも、手を取り合えばきっとうまくやれる。
「君が弱いなら僕はどうなるんだい。君は強いよ、過去に立ち向かって、今を精一杯生きている。そんな人を弱いというなら、こんな世界壊した方がいいよ」
「なにそれ」
「これから先、君がまた悪意に晒されて悲しい思いをするなら僕も立ち向かうよ。一緒に悪意なんて蹴り飛ばそうよ」
「一緒に?」
「うん、一緒に」
僕は君の手を掴めなかった。だから、泣いている君の手を今掴まなくなちゃいけないんだ。義務でも、正義でもない、単純に僕と君は友達だから。友達が泣いている時は、側にいて心の闇を半分こしよう。人は支えられ、支え合うもの。酸いも甘いも、この世界から僕らの中に。
悪意という大きすぎて立ち向かうには勇気が必要なら、僕の二十一グラムを君の二十一グラムに足して四十二グラムにして、一生一緒に。拙いナイフと、脆い勇気で、孤独感は消えてくれる。
同じ暑さを感じて、同じ寒さを感じて、喜びを分かち合い触れ合うことを恐れずに生きよう。この青くて、未熟な世界を。
「それに、君は僕のファン一号なんだ。作家としてファンは大切しなくちゃね」
「……何それ」
扉から漏れる光に照らされる涙はへにゃりと糸を切らす。
沈黙が流れて、静寂の中に沈むは僕らの呼吸。おもむろに君が口を開く。
「最初さ、君を追い掛けて話しかけに行ったって言ったの覚えてる?」
まだ僕と君が今のような関係ではなかった頃の話。転校初日の人気ぶり、言葉の応酬は今でも鮮明に思い出せる。
「うん、覚えてるよ」
「あの時ね、実は君を追いかけていたんじゃなくて、言葉の多さに怖くなって逃げてただけなんだよね」
あっけらかんと笑いながら君は言って、僕はどこか納得していた。
あの時の君が僕を追いかけてくる意味なんて、今考えてもこれぽっちもなかった。
だけど、和気あいあいとした空気が嫌で逃げた僕に、言葉が怖くなって逃げた君。奪われる物が無い僕に、奪われた者がいる君。
こうやって見れば、どこか似ていて、でも違っていて、背中の羽根を剥いで、剥がれて飛ぶ術を忘れようとしていた。
でも、今は分かる。君の手を握れば、背中にある羽根がまた大きく白く羽ばたくことを。青く憂いのない広大な自由な世界へと。
「でもね、あの時逃げて良かったかな」
「どうして?」
「君と仲良くなれたから」
恥ずかしげもなく純真な声色で、真っ直ぐなビードロの瞳は潤んでいない。
僕を見つめて、栗色の髪は肩で踊っている。頬を膝に乗せ、微笑む姿に体は熱を帯びて得体の知らない感情が心の底から湧き出ててくる。
「……まあ、そうだね」
歯切れの悪い返答。でも、精一杯の言葉。
得体の知れない感情で溢れかえりそうな心のバケツは軋んで、今にも壊れてしまいそうだ。胸が裂けそうになって、君の顔をうまく見れない。
「この場所で君とご飯を食べて、どうでもいい話をするのが私は好きなんだ」
「最初は脅してここに居座っていたけどね」
「なに、文句?」
「いや……」
前までの僕なら文句だったかもしれないけど、今は違う。この、場所に君が来てくれて良かったって思っている。君がここに来てくれなかったら、僕はいまだに世界と自分を愛せていない。
毎日に色がついて、むしろ。
「感謝してるぐらいだよ」
「か、感謝? もうなにそれ……あっ、お弁当食べないと昼休み終わっちゃうよ」
長い睫毛が雫をまとって、お弁当は薫る。
「そろそろ昼休み終わるけど、教室に帰れる?」
チャイムがなりそうな雰囲気がして、僕は君に問いかける。
教室には影口を叩いていたアイツがいる。
悪意を剥き出しにした相手を目の前に、人は弱い。どんなに言葉を繋いでも、すぐには強くはなれないから、僕は心配だった。でも、返ってきた君の言葉は強く芯があって、そして甘かった。
「君がいるから大丈夫。悪意なんて一緒に蹴り飛ばしてくれるんでしょ?」
天使のような笑みを浮かべ僕の中にある「揺らめき」は強く燃え上がる。
「うん。約束したからね」
「なら、怖いものなんてないよ」
別々に教室に帰っていた足取りが解けた糸のように束となって、僕らは二人で扉をくぐる。
視線や、言葉なんてものもう怖くない。ステータスやカーストより大切なものを見つけたから。僕は、叶わない夢を叶う前に捨ててしまうみたいに、大切なものを大切なものと認識する前に捨ててしまっていた。透明だった存在に色君がまた足される。
隅に追いやられても、景色が変わっても、自由を抱きしめて、僕らはどこだって行ける、怖くなんかない。未来が並走してこなくても、過去を振り返って今を生きるだけ。
普遍、不変、不便、便利、対象的な言葉が溢れるように、憎しみ、嬉しさ、悲しみ、喜び、これらもまた明日へと溢れている。僕らの背中を叩いて笑う感情を、追い風にして、君の隣を歩く。
ではまた。




