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第7話

 カレンダーは捲れて、憂鬱さと少しの期待感を抱えた月曜日の朝はやってきた。寝癖のついた髪を乱雑に掻いて、朝の身支度を済ませる。


 扉を開いた先には太陽が燦然と空に立ちのぼる雄大な通学路。いつもよりも晴れ晴れとした気分は、爽快に足を学校へと進めさせる。教科書で重くなった鞄も、窮屈な制服も、どこか心地の良いもので、髪を切った日のようだった。


 忙しくなく車が往来する横断歩道で信号が青になるのを待っていると、向こうから走ってくる人影が僕の瞳に映る。まだ遠くにいて、輪郭はぼんやりとしていて、なのに僕はその人影が誰なのかすぐに分かっていた。


 信号が青に変わって、交差する真ん中の地点。そこで、僕たちは二日ぶりに顔を合わせた。


「風邪治ったみたいだね」

「凄い元気だよ、パワーが漲ってるよ」


 腕を曲げて、力強いアピールを君はする。


「君はただでさえパワーが凄いのにこれ以上強くなるの?」

「ちょっと、レディーに向かってそれは失礼じゃない?」

「ごめんごめん。あ、待って、今日はヨダレの跡付いてないね」

「それは忘れてって言ったでしょ!」


 バシンと強く腕を叩かれて、じんわりと痛みが全体に走っていく。痛みも、笑いに変わって温もりになって、触れ合っては消えていく笑い声は酸素に。


 学校に着けば、言葉を交わすことは減るけど秘密の共有場所に行けば僕たちはまた言葉を交わし合う。


「私さ風邪引いてる時にさ、未来の事を考えてみたんだよね」


 お弁当をつつきながら、やけに深刻そうに君は僕に言った。あまりにも突然的に哲学的なことを投げかけられて、思考が一瞬だけ停止する。


「未来のこと?」

「うん。ほらさ、私たちはもう中学三年生で進学という大きな転換期を迎えてるじゃん。でも、その先はどうなんだろって」


 真剣なビードロの瞳が淡く光っている天井を見上げながら呟く。食べていたお弁当を横に置いて、僕は一呼吸おいてから喋る。


「その先の未来か……。大人になるのは絶対で、多分分からないっていうのが答えなんじゃないかな」

「分からないかあ……答えばかりを今は貰っているけどこれからは自分たちで考えなくちゃいけないもんね」

「ていうか、どうして急にそんなことを?」

「いやあ、なんていうんだろうね。ふと、そんなことを思って」

「まあ、僕もそういうこと考えることあるし分かるよ」


 未来。言葉にして言うのは簡単な言葉で、その先を想像するのはとても難しい言葉。なのに、僕たちは先を想像していかなきゃならない。


 例え、大人になりたくない成長が転がっていたしとても受け入れて、呑み込んで、咀嚼して、一つ一つと大事なことを見失った振りをしていく。でも、僕はその意識の芽生えを受け入れる覚悟はいつまでも持てない。


 だって、人としてカッコ悪いから。弱くても、人と違くても、受け入れて笑いあっていきたい。それが僕の中の成長と未来なんだ。


「難しいねえ」

「君から哲学的なことが出てきて驚いたよ」

「失礼な、私だってねそういうこと考えますよ」

「でも、きっと君ならどうにかはなるんじゃない」

「どうして?」

「さあ、どうしてだろ」


 根拠を持てなかったけど、君ならどんな困難が待ち受けていても平気な顔して真正面から蹴り飛ばして行ってしまいそうな。そんな気がしていた。


 ビードロの瞳が優しく揺れて、栗色の髪は「君が分からないなら誰が分かるの」ってコロコロと音を鳴らす。胸の奥が静かに跳ねて、僕の中に宿っていた小さな感情の波が大きくなる。何気ない会話が海馬に刻まれて、また一つ、もう一つと君の顔が生まれていく。


「そろそろ梅雨が来るね」

「そろそろっていうか、あと二日後にはもう六月だよ」

「早いよね」

「全くもって」


 梅雨の背中が二日後に迫って、晴天の空を見れるのは少なくなる。雨音が葉に落ちて、滴る水が作る水溜りに反射する曇天の空を見上げる六月。一年の折り返し地点は、様々な思惑を渦巻かせる。


 君という異分子が初夏の香りと共にやってきて、全てを引っくり返した五月。気付いたら、今はこうやって隣にいることが当たり前になってしまった。まだ友達になって日は浅いけど、ずっと昔からそこに居たような。変な感覚が常に傍に付き纏っている。


 全くもって自意識過剰でおかしな話。


 どうして、君の瞳がこんなにも美しく見え、初夏の空気と匂いが満ち足りて、釘付けになっていく。


 僕の隣でサイダーのように弾ける笑い声は耳を通して体に溶け込む。


「あ、今日欲しい本の発売日だ! ねえ、帰りに本屋寄ろうよ」

「なんで僕まで行かなきゃならないんだ」

「いいじゃん、楽しい楽しい寄り道だよ」


 寄り道して楽しいという要素はよく分からなかったけど、君はきっと僕が嫌だと言っても強引に連れていくだろうな。半ば諦める形で僕は「仕方ない」と着いていく事にする。


 委員会の仕事が終わって、僕たちは街へ繰り出した。

 君は欲しい本が手に入るからスキップと鼻歌を混じえて、軽快に踵を鳴らす。


 夏への衣替えを終えて新緑の香りを散らす木々の影に僕たちが重なって、すれ違う車の排気ガスはオゾン層を壊していく。放課後にこうして遊びに行くというのは滅多にないことで、僕もどこか浮き足立っていた。


 本屋に着くと店員さんの「いらっしゃいませ」が僕たちを迎えてくれる。


「それで欲しい本ってなんなの?」

「教えて欲しい?」

「教えて欲しいというか、どうせ会計で分かるよ」

「君、そんな答えじゃモテないよ」

「……それは禁止ワードだよ」

「禁止ワードを使わせた君が悪い」


 ビシッと指を刺されて、僕はそれ以上は何も言えなかった。僕は君の後ろをついて回って、特に何を買う訳でもなくキョロキョロと店内を見ていた。


 ふと、目に気になっていた小説が入って足はふらりとそっちに向かう。


「これ、発売してたんだ」


 手に取って、裏面の値段を見るけど到底買える値段じゃなくて、そっと見なかったことにして棚に戻す。


 君の元に戻ろうと思って、いた場所に視線をやるけどそこに姿はなくてはぐれてしまったことに気付く。仕方ないから、本屋の外で待つことにして、僕はボケっと店内を見渡していた。


 時間も時間で、店内は夕飯の買い物で忙しそうな主婦で溢れていた。手に持つエコバックがパンパンに膨れ上がっていて、どんな食事にするのかなと想像力をかきたてる。

 少しすると君が横からひょっこりと顔を覗かせる。手には青い色のビニール袋が握られていて、お目当ての本は買えたみたいだった。


「ここに居たんだ」

「うん。欲しいものは買えたみたいだね」

「バッチリだよ。じゃあ、帰ろ」


 本屋を後にして帰路に着くと、街はすっかり宵に染まりつつあった。街灯がポツポツとアスファルトを照らして、光の水溜まりを作る。空には真ん丸の月が昇っていて、静かに僕らを照らしていた。横には満足そうに本を抱えて、すっかりと元気になった君がいる。


「あ〜、帰ったら宿題しなきゃ」

「しなくてもいいんじゃない?」

「ダメだよ」

「あら、真面目」

「君は私をなんだと思っているのさ!」


 車のハイビームに照らされながら、キリッと目を鋭くして僕を睨みつける。


「ごめん、ごめん」と笑いながら歩いていたら前から歩いて来ている人に、僕は気付けずに肩をぶつけてしまった。


「あ、すみません」


 ぶつかった人は軽く会釈をして、言葉を交わすことはなかった。


 僕は申し訳ないことをしたな、と思いながらその人の背中を見送った。


 (暗くてよく分からなかったけど、あの制服は隣町の学校のやつだよな)


 少し先の街まで繰り出したからいるのは当然かと思い、君の方に視線をやると瞳孔を酷く開いて、呼吸が少し荒くなっていた。体調不良、だと最初は思ったけど、この反応はそうじゃないと本能は訴えている。


「どうした? 大丈夫?」


 心配になって軽く触れると君はハッとして、何もないと言いたげに明るく歪に振る舞う。


「……あっ、全然大丈夫だよ! ほら、人にぶつかるとさこう驚くじゃん?」

「君はぶつかってないのに?」

「まあ、細かいことは気にせずに。大丈夫だから」


 触れないで、言葉にして紡がれてはいないけど明らかな拒絶が襲う。


 君の下手な嘘が胸を貫いて、微かに残る恐怖の残滓と震えている手。


 僕はそれに気付いていたのに、もう一度大丈夫って言えなくて、震えている手を抑えてあげることが出来ないまま、ただ君の隣を歩く。心に言えない感情を抱えて、足跡には蟠りがそっと置いていかれていく。


「じゃあね」と笑う君の顔の奥にある感情を見過ごして、僕は「じゃあね」と返してしまった。


 選択を間違えたような感覚がずっと付き纏って、家に着いても、ずっと、ずっと、あの時の感情がこびりついて離れてくれない。落ち着かせるために日記を開く。


 『僕が肩をぶつけた時、君の見せたあの表情。見えない何かに怯えて、思い出したくなかったものを思い出してしまったような。でも、僕は君の心に踏み込めなかった。いや、踏み込んで良かったのか分からなかった。分からないな飛び込む勇気を持てばよかった。情けない。こんな僕が情けない』


 ペンを走らせて、感情を紙に吐いていく。

 あの時の僕はきっと踏み込まなくていい理由を探していた。まだ友達になって日が浅いから、君は強いから杞憂かもって。杞憂だったら、恥ずかしい思いをするから。


 けど、そんなことはどうでもいいって本当は分かっていた。理由なんて、日が浅くても、杞憂でも、どんな事でもいいって。


 もう一度言えなかった「大丈夫?」の三文字が胸中を掻き乱していく。募る後悔が今更どうにもならないことをさめざめと教えて、走らせていたペンは止まる。

 椅子の背もたれに体重を乗せて、ギィっと部屋に響く。


「どうすればよかったんだろ……」


 虚しい独り言が部屋にとけて、答えの無い正解に頭を悩ませて僕は静かにその日を終えた。


 雀が華麗に鳴く朝。スッキリとしない感情は自問自答を強いてくる。昨日のことが尾を引きながら、僕は制服を腕を通す。


 今日は生憎の曇天。梅雨が到来したからニュースは雨予報に力を入れ始めて、昼頃から降り始めるかもしれないと言っていた。傘立てから一本傘を取って、家を出る。今にも降りそうな空は不安定で、香らないはずのぺトリコールが鼻をくすぐる。


 手に傘を握りしめて横断歩道を待っていたら、君が向こうからやってくるけど、僕たちは毎日ここで待ち合わせをしているわけじゃない。毎日の「じゃあね」の延長線上がここなんだ。偶然の連続が続いて僕と君は今日も二人で登校する。昨日の今日で、君の顔色を伺うけど、いつも通りの明るさは失ってはいなかった。


 (やっぱり僕の杞憂だった?)


 違う。杞憂であって欲しいんだ。何も無ければ安心出来るから。


 だから、底では「杞憂であってくれ」と願って、情けない自分の殻にヒビを入れようとしない。安全で、確かな選択。そう、それで良かったはず。ずっとそうしてきたはずなのに、今は苦しい。もがけばもがくほど水底に沈んで、君の笑顔が太陽を反射する水面のように揺らめき動く。


 君は学校に着いてもいつも通りで、昨日の面影なんて一切見せなかった。まるで、最初から無かったかのように。時間は過ぎて昼休みの時間になっても君は変わらずだった。


「でさ、そしたらお母さんなんて言ったと思う?」

「さあ……」

「さあって、全くちゃんと聞いてた?」

「……ねえ、昨日さ」

「ん? 昨日?」

「あ、いや……やっぱりなんでもない」

「何さ、気になるじゃん。そんなところでやめられたら」

「気にしないで」


 真っ直ぐに怒る瞳の奥には恐怖なんて微塵もなかった。切り出した勇気は蜃気楼になって、僕は何も言えずに蟠りだけが底に沈殿していく。


「じゃあね、また明日」

「うん、また明日」


 夕景に染った街を一人で歩く。砂利を踏みしめる感覚が足の裏から伝わる。どうしようもない感情を蹴散らすように、空を蹴り飛ばす。


 君はいつも通りで、ニュースで言っていた雨も降らなくて。何もかもが上手くいかない感覚がそこらじゅうに転がって、情けない自分だけが全てを憎んでいる。


 僕はちっぽけで、君という世界がとてつもなく大きくて、このちっぽけな手と心じゃ到底足りない。伸ばしても、伸ばしても、何も掴めない。空を往く鳥のように気ままに飛べたら、僕は君の腕を掴めるのだろうか。


 殻を破って、守るものがないまっさらな状態で、君の心臓に僕は飛び込めるかな。この勇気すら持てない身一つで、無責任に「大丈夫だよ」と唇を染めていけるか。


「僕は……僕でありたい」


 雛鳥で文字の世界を知ったみたいに、僕は君を知って誰かといることの楽しさを思い出した。それが僕が僕であるための理由で、全て。


 後悔も、憎しみも、情けなさも、全部引っ括めて僕なら踏み出せなかった勇気すらも僕なんだ。愛しさなんていらない、君の手を握るために、揺らめき動く心臓を糧にひたすらに手を伸ばそう。例え、掴めなくても。雛が殻を破ったみたいに、僕も世界に愛を。


 大人や子供、そんな括りの前に僕は一人の人間のだからカッコよく生きよう。あるべき姿に、なりたい姿に。いま、なるんだ。


 『情けさなんて些細なもので、僕は自分の弱さから目を背けていただけだったんだ。気付くまでに時間がかかりすぎたかもしれないけど、気付けて良かった。今は大人になりたいとかじゃない、君のあの表情を見なかったことにした後悔を持って歩くべきなんだ。君の手を握るために』


 僕は日記を閉じる。思いの丈を吐き出して、ちっぽけな成長が胸に。


 (明日、君に聞こう。逃げないで真正面からぶつかろう)

ではまた。

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