第6話
そうやって、一日を終えて、僕はまた学校へ登校していた。トボトボと歩きながら、背中を押される危険性を考えて後ろを時折振り返る。
けど、背中が押されることはなく僕は学校へ着いてしまう。隣の席は空白で、僕の脳裏には一つの予感が過ぎる。
そして、朝のホームルームを告げるチャイムが鳴っても君は結局やってこなかった。教卓に立つ先生が一呼吸おいてから「あ〜、そういえば花川は風邪で休みだ」とだけ短く言う。
やっぱりか、と誰にも聞こえない声で呟く。昨日あれほど大丈夫だと豪語していたくせに、案の定風邪を引いてしまった君は全くもって馬鹿だ。
しかし、君がいないということは今日一日は静かに過ごせるということ。それはそれで有難いし、振り回されるようなことも無くなる。
なのに、どうしてだろう。空白の席を見る回数が増えているのは。
身の入らない授業は耳を悪戯に通過して、雀は自由を謳歌している。ボケっと外の景色を見ていたら、先生から「おい!藤近聞いてるのか!」と怒られてしまう。
僕は「すみません」と軽く謝って、黒板を見る。書かれていく文字をノートに写しながら、不意に過ぎる君の顔。
天真爛漫、太陽のような微笑みがちらりと脳裏に浮かんで、ペンを机に置く。ふぅ、と浅く深呼吸をして、何しているのかなと僕は想像をしてしまう。部屋で寝込んで、唸っているかも。
それはそれで少し面白いかも。きっと、こんなことを想像をしていたとバレたら、顔を真っ赤にしてハリセンボンのように頬を膨らませて、怒りながら僕を叩いたり――って何を考えているんだろう。
今日は君がいない一日。悲しくも、なんともないはずなのに。空虚な胸の内はぽっかりと隙間風がビュービューと吹き荒む。
なんとも言えない感情の行き場はどこにもなくて、時計の針だけは進んでいく。
無遠慮でズカズカと踏み荒らされた憩いの場で、一人お弁当を食べることは慣れっこで、むしろ当たり前のことだったはず。なのに、光だけが漏れている隣を眺めて溜め息が流れ出てしまう。
そうやって、名前をつけれない感情が募っていく。
放課後になって、僕は一人で図書委員の仕事をこなしていた。開け放たれた窓から流れ込む風が草木の柔らかな匂いを運んで、カーテンを揺らす。
僕は読んでいた小説を閉じて、窓の方に視線を向ける。朗らかな天気が埃を照らして、可視化させる。光の粒子のように舞う埃を見つめて、視界はぼんやりしていく。
ガラガラ、と扉の開く音がして視線を向けると先生が立っていた。脇には何やら紙を挟んでいる。
「藤近、花川の家知ってたりしないか?」
「家ですか?」
「手紙を届けてもらいたくてな。同じ図書委員だろ、もしかしたらと思ってな」
「先生が行くという選択肢は」
「そうしたいのは山々なんだが、この後先生も用事があってな」
「なら、行きますよ。家知ってますから」
君は転校してきたばかりだから誰も家を知らないのは当然で、その中で僕だけ知っているというのは気恥しさがあった。
でも、手紙がないと君も困るだろうし。先生も助かるはず。
僕は委員会の仕事を早めに切り上げて今から行って欲しい、と言われて早めに学校を後にして君の家へ向かう。
空はまだ橙色に染まるのを拒んでいて、薄らと遠くに見えてる気配だけが漂っていた。太陽の光が目を貫いて、夏への衣替えを始めた木々は綺麗に緑づいていた。
梅雨が過ぎ、夏が到来すればあっという間に一年は終わって学校との別れになる。その前に受験やら何やらがあって。
今から考えるだけでも億劫で目を背けたくなってしまう。目を背けてはならないなんてことは知っているけど、未来は不確定で歩く道が見えない。手に持っている知識というランプはあまりにも弱くて、あまりにも未熟で僕がとても情けなく思えてしまう。
きっと、君ならこんな悩みも馬鹿らしく笑って飛ばしてみせるのだろう。強く、一本芯が背骨にズシンと入っていることが羨ましくて、あんな風に生きれたらと見る度に思ってしまう。
哲学じみた思考は絶え間なく僕を支配して、大人ぶっていたら少しだけ現実からの離脱が出来る気がしていた。
そうして、僕は君の家に着いてオートロックのインターホンを鳴らす。暫くして「はーい」と透き通った女性の声がスピーカーから聞こえる。
「あ、藤近薫と言います。先生に手紙を持っていくよう言われて」
「あら、わざわざごめんね。いま、開けるね」
短い返答の後、自動ドアが開く。
「ありがとうございます」
エレベーターに乗って五階に行く。インターホンを鳴らすと、扉が空いて中から茶髪ボブカットの女性が現れる。エプロンを身に付けてて、君と似た顔立ちをしていてすぐにお母さんだと分かった。
僕の背筋はぴしりと伸びる。
「ごめんね、あの子のためにわざわざ」
「いえ、全然大丈夫です。あ、これ手紙です」
鞄から手紙を取り出して、君のお母さんに渡す。
「じゃあ、僕はこれで」
「あ、ちょっと待って。中でケーキでも食べて行ってちょうだい」
「いや、でも……」
「遠慮しないで、あの子のせいでここまで来ることになったお詫びとして食べていってちょうだい。ねっ?」
ここまで言われたら流石の僕も「嫌」とは言えなくて。言葉に甘えてケーキを食べさせてもらう事にする。
「じゃあ、すみません。お邪魔します」
「ごめんね、ちょっと散らかってるけど」
散らかっているとは言っていたけど、家の中は綺麗に整頓されていた。玄関すら靴が綺麗に並んでいて照明に照らされた廊下は埃ひとつすら見えない。ポツンと置かれた芳香剤は家の中をいい香りで埋め尽くす。
リビングに案内された僕はどこに座っていいか分からず、無難に机の前に腰を下ろしてソワソワと体は落ち着かない。カチカチと時間を刻む針の音が心臓のように、やけにうるさく聞こえて今すぐに鼓膜を破りたくなる。
どこかに視線をやっていないと謎の圧で体が押しつぶされそうになるから、僕は壁に目をやったり天上に目をやったり、視線を右往左往させてザワつく心を落ち着かせる。
「ごめんね、お待たせ」
ショートケーキと香りのいい紅茶が僕の前に置かれる。
「あっ、紅茶飲める? ごめんね、聞けばよかったね」
「あ、いえ。大丈夫です、飲めます」
「そう、よかった。じゃあ、どうぞ」
「いただきます」
ショートケーキにフォークを入れて、ふわふわの生クリームは口の中で甘味を溢れさせる。頂点に立つ苺は溢れる甘味をいい感じに中和してくれる酸味を持っていて、二度楽しめる味が脳内に届く。手が止まらずにバクバクと食べてしまい、気付いたらお皿は空になっていた。
喉が渇いて、紅茶を一口。全ての味が一気に収束して、ほっと息をつく。
「美味しかったです、ご馳走様でした」
「お粗末さまでした」
しばしの沈黙が流れて、また気まづさが襲う。友達のお母さんと二人きりという場面は、全くもって前例のない出来事で、何を話し、何をしたらいいのか全くの未知数だった。
ソワソワと足を動かしていたら「その、凪はちゃんとやれているかしら?」と聞かれて僕はピタリと動きを止める。
「上手くですか?」
「うん。本当は娘の友人に聞くことじゃないのかもしれないけど……ほら、三年生に転校って中々じゃない?」
「まあ、そうですね。でも、上手くというか……もうクラスの中心になっていますよ」
「そうなの? 良かった。ごめんね、こんなこと聞いて」
「いえ、全然大丈夫ですよ」
「凪は薫くんに迷惑とかかけてない? あの子、押しが強いからさ」
「あ〜」
僕は一瞬の思考を挟む。確かに押しは強いし、勝手に人の領域にズカズカと入ってくるけど、でもそれはきっと――君の良さ。
「少しやかましいところはありますけど、楽しいです。僕は人と関わるのが苦手で。だから、ああやって少し強引なほうが合っているのかもしれません。会って日は浅いですけど、毎日が楽しいです」
「本当にしつこかったらガツンと言っていいからね」
「最悪の場合の手段として覚えておきます」
「薫くんはいい子ねぇ。私の息子にしたいわ」
「大変ですよ、僕を息子にするのは」
そうやって他愛のない会話をしていたら、ガチャと扉が開く、僕は視線を移すと、髪の毛があちこちに跳ねて、さっきまで寝ていたのか頬にヨダレの跡を作った君が居た。
「お母さん〜、頭に貼るやつぬるくなった……」
パチリと僕と君の視線がぶつかって、数回の瞬きの後、大きな声がリビングに響いた。
「え!? 待って、なんで君がここにいるのさ!」
「アンタが雨の中馬鹿みたいに遊んで風邪引いたから、薫くんはわざわざ手紙を届けに来てくれたのよ」
「だとしても、家の中になんでいるの!」
「そりゃ、わざわざ来てくれたのにそのまま帰すなんてねえ」
「元気そうで良かったよ」
「今、元気になったの!」
「そんなことあるの?」
顔を真っ赤にして怒って、跳ねた髪の毛が揺られて、なんだか提灯のようだな。
君のお母さんが冷蔵庫から頭に貼るやつを取り出して、君に渡す。
僕は頃合もいいぐらいだと思い、家を後にさせてもらう。
「じゃあ、僕は帰ります。ケーキご馳走様でした。君も早く治しなよ、明日は……学校ないからまた月曜日ね」
僕に風邪を移さないためにドアから顔を覗かせる君に言う。
「……今日のことは忘れてよ」
「ん〜、記憶力良いから無理かも」
「馬鹿!」
「ごめんね、薫くん。いつでも来ていいから」
「はい、ありがとうございます」
僕は君の家を後にして、空を見上げる。浅く息を吐いて、口には甘い味が微かに。仄かに宿る温かさを抱えて、歩き出すと後ろから頭上を通り越すように「おーい!」と君の声が聞こえて振り返るとベランダから顔を覗かせていた。
「言い忘れていたことがあったー! 今日はありがとうねー! また月曜日ー!」
風邪を引いているというのに目一杯に声を張上げて、子供のような純真さで手を振って。栗色の揺れる髪が水晶体に乱反射して、僕も静かに腕を上げて振り返す。
ぽっかりと空いていた胸は満たされて、梅雨前のぬるい空気が肺を膨らませる。小石を蹴りながら、一人行く帰り道。まだまだ夕焼けは見れそうにない。
梅雨もまだ来ていないのに、君を見ると夏がすぐそこにあるような錯覚が嫌ってほどに体を透過していく。煌めく夏に想いを馳せて、脳裏に蔓延る君の笑顔。心の奥で反芻する笑い声が、星の周期の早まりを願わせる。
ではまた。




