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第5話

「……重い」


 君が鞄を持ちながら恨めしそうに呟く。


「君がこんなにも借りるから。僕だって肩が壊れてしまいそうだよ」

「でも、面白くて……仕方ないじゃんね」


 鞄を何回も持ち直しながら、仕方ないとほっぺを膨らませる。パンパンに膨れ上がった鞄と頬が似ていて、僕は吹き出してしまいそうになるのをこらえる。


 栗色の髪がチラチラと肩で揺れて、湿気を纏った風が肌を撫でていく。ポツポツ、と晴れているのに空から大粒の雨が降り始める。僕らは慌てて屋根の下に入って、降りしきる雨を凌ぐ。


「晴れているのに大雨だよ、変だね」

「狐の嫁入りって呼ばれるやつだよ」

「何それ?」

「晴れているのに雨が降るのは狐に化かされている、そういった怪奇現象のことを昔の人は狐の嫁入りって呼んだって本で見た事が」

「君は物知りだね」

「かじっただけの薄い知識だよ」


 たまたま本を読んでいて得ただけの表面だけの知識。浅い思考の海の中に漂っていたのを、ひょいと掬いあげて得意げに言う。


 すぐに止むだろうと思っていた雨は降りしきって、夕陽が落ちる水に色を付けていく。耳を澄ませて、雨音を聴く。地面にできる水溜りの上を車が通っていく。跳ねる水滴がほんの少しだけ飛んできて冷たい。


 僕は止むのを今か今かと待つ。横を見ると、つま先を地面に鳴らして、今にも雨の中へ飛び込んでしまいそうな君が映る。


 この雨の中出ていくわけはないだろう。僕はそう思っていた。


 けど、君は違った。パシャリと水溜まりに躊躇もなく靴を濡らして、橙色に染められている大粒の雨に打たれる。


 腕を広げて、くるりくるりと回って、踵が弾く飛沫は制服を濡らす。夕陽に反射する雨はスポットライトのように照らして、晴れやかな空は栗色の髪の毛を映えさせる。空想を覚えさせる姿は、僕の瞳を掴んで息の仕方すらも忘れてしまいそうになる。だんだんと雨は止み、訪れるは晴れ。濡れたアスファルトがピカリと輝く。


「踊ってたら雨止んだー!奇跡だね!」


 僕のほうに振り返って、屈託のない真っ直ぐな笑顔を見せる君はどこまでも嘘のようだった。忘れていた息の仕方を思い出して、言葉を肺の中から吐き出す。


「……風邪引くよ」

「大丈夫、大丈夫。これぐらいじゃ引かないよ」


 そう言いながらくしゃみをひとつ。

 僕は呆れて「ほら、体冷えてる」とこぼす。それでも「大丈夫だって、ほら早く帰ろ」と制服から滴る水を気に留めることなく地面に置いていた鞄を持つ。

 空を見上げると、七色に輝く虹が橋をかけていた。


「ねっ、見て!虹!虹だよ!」

「ほんとだ」


 虹を指さして、ピョンピョンと君は跳ねる。七色の虹、僕の瞳にはもうひとつの色キミが足されて、湿気の混じった生ぬるい風と、微かにまとわりつくペトリコール。雨が降って雨宿りしていた鳥も自由に飛び立ち、また僕らも歩き出した。


 僕らは他愛のない会話をして、時折君は体をふるわせた。


「帰ったらすぐお風呂入りなよ、そのままじゃ風邪引くよ」

「もう、お母さんみたいなこと言って。大丈夫だっ……ハックュシ!」

「なにが大丈夫なんだろう」


 盛大なくしゃみは閑静な住宅街に響く。ぶるっと震える体は明らかに寒さを訴えていた。


 僕らは閑静な住宅街を抜けて、大通りに出る。時間も相まってか、車の往来が忙しい。少しすると立派なマンションが見えて、君が「あれが私の家だよ」って教えてくれる。


 あのマンションは確かここら辺では高い部類に属しているはず――つまり。僕はそこまで考えて、思考を放棄する。これ以上考えるのは、色々と良くない気もして肩に食い込む鞄の痛みをだけをただ感じていた。


 そうして、君に導かれるままマンションのエントランスまで行く。流石に中は綺麗で、掃除が隅々まで行き届いていた。


 君がポケットから取りだした鍵をオートロックにさすと、自動ドアが開く。エレベーターに乗って、五階へ。

 チンっと扉が開く。薄明かりの廊下には、蛍光灯がほのかに灯っていた。アスファルトの無機質な寒さを内包した廊下を一番奥まで歩くと、そこが君の家だった。


 緑色の鉄製の扉は分厚く、黄金色に彩色されたドアノブはチカチカと眩しい。


 僕は鞄から本を取りだして、君に渡す。


「わざわざありがとうね」

「これぐらいどうってことないよ」


 こうは言っているけど、肩はジンジンと痛んでて、少しだけ。いや、かなり持つと言ったことを後悔していた。けど、口に出すと情けないので僕は「どうってことない」と強がった。


 すると、君が何かを思いついたように「ちょっと、待ってて」と足早に扉を開けて家の中へ消えてしまった。直後、扉の向こうから「凪! なんでそんなに濡れてるの!」と怒号が聞こえて、肩がビクッと跳ねる。


 僕は聞こえなかったフリをして、何事もなかったかのように壁に体を預けて君を待つ。


「お待たせ、これあげる」


 戻ってきた君は僕に缶炭酸をくれる。


「いいの?」

「ここまで本を持ってきてくれたお礼だよ」

「じゃあ、お言葉に甘えて」

「うん、じゃあ、また明日ね」

「うん。また明日。風邪引かないようにね」

「だから、大丈夫だって」

「だと、いいけど」


 僕はエレベーターに乗って、君のマンションを後にする。手に握っている炭酸が冷たい。プシュ、っとプルタブを開けてゴクリとひとくち。


 二酸化炭素が喉をシュワシュワと通り過ぎて、ほんの少しの痛みが体を伝わって甘味が血液に混じる。静かになった横をチラリと見て、僕は家に帰る。


 手を洗い、置いておいた日記を開いて、今日の出来事を記していく。


 『君は朝から凄く元気で、太陽が歩いてきたような錯覚を覚えたぐらい。本にハマってくれたのは嬉しかったしバーッと話しても、笑ってくれてた。雨に濡れてびちゃびちゃになっていたけど、ちゃんと暖まっているだろうか。いや、多分あの感じは暖まっていない気がするな。明日はどんな一日になるかな』


 連ねた文字を眺めて、雨の中で濡れて踊る君が蘇る。

 あの瞬間、僕の瞳は君だけを見ていた。景色の全てがぼやけて、鮮明だったのは君だけ。揺らぐ感情の波は、小さく心のうちに宿る。


「……勉強するかあ」


 グイッと背伸びをして、日記を閉じる

ではまた。

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