第2話
「藤近、今日から花川も図書委員になることになったから」
簡潔にサラッと先生が言う。
「え、どうしてですか」
「どうしてって、空いていた委員会がここしかなかったからな」
図書委員は本来二人一組でやるのが通例だったけど、僕のクラスは人が少ないから一人で図書委員をやることが許されていた。
だから、好きなことが出来て自由で良かった。
でも、それはもう出来そうにない。君が図書委員になってしまったから。
僕は少しだけ不服だったけど、先生に異議を申し立てることも出来ないから、受け入れるしか無かった。
「まあ、そういうことだから頼んだぞ」
「はあ……」
そう言って、先生は教室を出て行ってしまう。
取り残された僕は君を見て、溜息を一つ吐く。
「なんで溜息つくのさ」
「いや、なんでもないよ。図書室に行こうか」
溜息をつかれたことが許せない君が、僕の横を歩く。
雲が少しだけ晴れて、漏れ出す陽光。廊下に木霊する部活動生の声。それは青い春を感じさせる。
一言も喋ることないまま図書室に着いて、扉を開けると紙の優しい匂いと静寂が僕らを包む。
「あれ、誰もいない」
伽藍堂とした静かな図書室はいつも通り。
静かな世界には、学校のあらゆる音が反射して、放課後のオーケストラが音を奏でる。
「放課後に解放されていることを知ってる人がそもそも少ないからね」
「みんな本を読まないの?」
「それは知らないさ」
僕は机に鞄を置きながら、君にも置くように促して一通りの仕事を説明する。
「仕事って言っても、そんなに難しくないから安心して」
「どんなことするの?」
「借りに来た人がいたら、そこのパソコンで入力して、返却日時を伝えて終わり」
机の上に置かれているふるぼけたパソコンを指差して説明する。
君は頷いて、理解したようだった。
「簡単だね。やったことはある?」
「ない」
図書委員になって三ヶ月が経ったけど、僕は一度も情報を入力したことがなかった。それに、人が放課後にここへ来る姿も見た事がない。放課後にわざわざ図書室に来るのは、相当な物好きぐらいだと思う。
僕は君に仕事を教えてすることがなくなり、鞄から小説を取り出す。
「本好きなの?」
「ん、好きだよ」
「へえ、本の虫ってやつ?」
「あ、いや、べつにそこまでじゃないけどね」
「本かあ……」
「君は読んだりしないの?」
「私? うーん、私は読まないかなあ。字を見てると眠くなっちゃう」
「読んでみたら?」
「え〜。あっ、じゃあ、オススメある?」
そう聞かれた僕は持っていた本を閉じて席を立つ。
オススメか。君は本を読まないタイプらしいから、あまり難しくない方がいいよな。なら、あれがいいか。
僕は奥の本棚から「雛鳥」と書かれた小説を手に取って君の元へ持っていく。
「はい、これ。面白いよ」
「雛鳥?」
「初めて読むなら一番いいと思うよ。借りて、家でゆっくりと読みなよ」
「じゃあ、借りようかな。あ、ねえ君がしてよ」
「ええ、面倒臭いから自分でしてよ」
「いいから、ほら」
背中を押されて、無理矢理パソコンの前に座らさせられる。面倒臭いけど、パソコンに必要な情報をタイピングしていく。一通り処理が終えて、君の方に向き直す。
「はい、一週間後までに返してね」
「初めての仕事だね」
「そうだね、まさか最初が君なんてね」
「何、不服?」
ギロリと威圧的な瞳。あどけなさが怖さを打ち消して、僕は両手を上げながら「まっさか」と笑いながら言う。
「ほんとに?」
「ほんとだよ」
「なら、許してあげる」
「多分だけど、誰も来ないと思うから好きにしてていいよ」
「じゃあ、これ読もうかな」
君は表紙を優しくひと撫でして、パラリと細い指先でページを捲る。
図書室に溢れる二人だけの呼吸音。
パラ、パラ、紙が捲れ、呼吸が混じり宙に舞っていく。視線を小説から君にチラッと移す。ビードロの瞳は活字を必死に追っていた。
栗色の髪が太陽に映えて、肩で揺れて、僕はそっと視線を小説に戻す。
文字だけの世界は美しく、雑音が無い。流麗で洗練された言葉が連なり、一つの世界となる。僕はそれがたまらなく好きだった。些細な表現一つ取っても、そこには作者の苦悩が見え隠れして。誰かの苦労が洗練された世界には、汚いものも綺麗なものも全てが愛おしく思わせる。
小説の世界に浸っていたら、横からバリボリバリボリと何かを噛み砕く音がする。なんの音だろうと思い、横を見てみると、君が美味しそうにお菓子を頬張り込んでいた。嘘みたいな光景に驚いて目が飛び出してしまいそうになってしまう。
「何してんの!?」
「ん、おやつ食べてる」
「……ここ学校だよ? 分かっているよね?」
「美味しいよ、食べる?」
「せめて会話はして……」
平然とおやつを食べていると言い放って、ケロリとした顔で鈴のような笑い声を響かせる。バリバリとお菓子を食べて、小説は机の上に放置されてしまって、悲しそうに天井を仰いでいた。
僕が何も言えずにいると「あ、やっぱりたべたいんでしょ?」と言ってきてお菓子をぐいっと顔の前に。
「食べたいわけないでしょ、校則でダメって言われてるんだよ?」
「入ったら行けない場所に入ってるのに、今更そんなこと言うの?」
なんとも言い返せない正論で顔面を殴られて、それ以上の言葉は喉から出てこなかった。
美味しそうに食べている君の顔を見ていると、僕のお腹も食べたいと言い始めてしまう。
でも、ここで負けてしまったらダメだ。
そう、言い聞かせていたのに僕は君からお菓子を貰ってしまった。
「美味しいでしょ?」
「認めたくないけど、美味しい」
「素直になりなよ〜。でもさ、これで君と私は共犯者だね」
空は気付けば晴れて、射し込む橙色の陽光に照らされる、君の顔が僕の瞳を貫き、身体中を駆け巡る。
にしし、と口角を悪戯げに上げて、ビードロの瞳はコロリと光る。
君は、小説の世界から飛び出してきたかのようで。でも、そんなわけない。有り得ない錯覚すら覚えてしまうほどに美しく可憐で、優しく脳裏に焼きつく。
僕らは罪の意識を持ちながら共犯者となり、十七時まで委員会の仕事をこなした。先生に図書室の鍵を渡して、僕らは学校を後にする。
すっかりと空は夕暮れに染まって、白かった雲は橙色になりカラスが解けてゆく。
「いやあ〜、疲れたねえ」
「疲れたってお菓子バリバリ食べてただけでしょ」
「君だって食べてたくせに」
「ご馳走様でした」
人気が少なくなった星が降る前の町。街灯がポツポツと僕らの足取りを作っていく。
「あ、言い忘れていたけど図書委員は火曜日と金曜日だけだから覚えておいて」
「りょうかい〜」
横を君が歩いて、僕らは他愛をない会話を街に溶かす。
交差点の赤信号が、僕らの別れの合図。ここからは、違う道を行く。
「じゃあね〜。また明日」
君が手を振って、僕に背中を見せる。
僕は背中に 「バイバイ」とかけた。
ふぅっと息を吐いて、張り詰めていた糸を解く。人といると知らず知らずのうちに気が張りつめてしまって、精神は摩耗してしまう。
けど、君といる時はあまり精神が摩耗したような気がしていなかった。顔を上げて空を仰ぐ。ゆったりと流れる雲に目をやりながら、僕は静かにまた歩き出す。
家に帰ると母さんが出迎えてくれる。適当に返事をして自分の部屋に行く。制服をベットに脱ぎ捨て、ダル着に着替えてから日課の日記を付ける。
『今日は転校生がやってきた。とても可憐で西洋人形のような子だった。性格も溌剌としていて、気持ちがいい。あれは色々な人に好かれるタイプだ。僕とは、違うタイプだ。それに、一日だけだけど一緒に居て楽しかった』
ペンを置いて、天井を見上げる。
気が付けば日記の冊数は増えて、本棚に置かれた小説といい勝負をしていた。
僕がこうして一日の出来事を書いているのは、今が過去になって、記憶から朧気てしまうことが怖いからだ。忘れてしまっても思い出せるように、と書くことを欠かさない。
パタリと日記を閉じて、僕は勉強に切替える。
時間も忘れて向き合っていると、すっかりと外の模様は墨汁をひっくり返してしまったかのように真っ暗になっていた。凝り固まった体をグイッと伸ばす。筋が伸びて、疲れた目は眠気を誘わせる。
少しだけ休憩をしていると母さんから「夜ご飯よ」と呼ばれて、僕はそのまま夜ご飯を食べて、また勉強して次の日に備えて眠る。




