第九話 第一王子の秘密③
ベルは手袋を持ち上げた。
内側。掌の当たる部分に、油が均一に塗られている。
王宮の革手袋は乾燥防止のために油を塗る。
そこへ混ぜれば——誰も気づかない。
手袋をはめるたび、少量ずつ皮膚へ移る。
しかも喪の装束なら、使う頻度も高い。
ベルは布の端で内側を拭い、匂いを確かめた。
苦い。
わずかに、舌の根が痺れるような匂いだった。
昔、母が「薬と毒は遠くから見れば似ている」と言った時のことを、不意に思い出す。
「執事長。手袋を管理している者の名簿を出してください」
「……はい」
執事長の顔が引き締まった。
動揺はもう消えている。今は王宮を守る人間の顔だった。
「仕立て係、侍従、洗濯係……関わる者は多い」
「多いからこそ、絞れます」
「なぜそう言える」
「全員が触れられるものほど、逆に手順が限られるからです」
ベルは手袋を見下ろしたまま答える。
「油を差す者。保管する者。着替えの時に渡す者。そのどこかです。途中で偶然混ざる量じゃない」
「つまり、意図的だと」
「はい。殿下に触れるものは、今日から全部見直してください。手袋だけじゃ足りません」
その一言で、部屋の静けさがさらに深くなった。
もう疑いようがない。
これは体調不良ではなく、誰かの手によるものだ。
ベルは布を畳み、静かに顔を上げた。
「この油は『新しい』。塗り直しが必要なほど新しい。昨日か今日、塗られています」
ルーペルトが机を叩いた。
乾いた衝撃音が、張りつめた空気をさらに尖らせる。
「昨日だと?ここにいたのは俺たちだけだぞ」
「だからこそ、城内の人間です」
ベルがそう言った瞬間、部屋の空気が凍った。
誰もすぐには言葉を返さない。
この場にいる全員が、同じことを思ったのだ。
外から紛れ込んだ敵ではない。王宮の中に、レオンハルトへ手を伸ばせる誰かがいる。
レオンハルトが顔を上げた。
その視線にはもう迷いがなかった。さっきまであった逡巡が、どこかへ消えている。
「解散」
短く、命令だった。
「今日の会合はここまでだ。各自、部屋に戻れ。外部との接触は禁止。手袋係、仕立て係、洗濯係、医師——全員の名簿と当直表を提出させろ」
「兄上」
フロリアンが身を乗り出した。
軽口ではない。確認の声だった。
「医師も?」
「当然だ。俺の手の荒れを『ただの手荒れ』で済ませた者がいるなら、共犯か無能だ」
「……っ」
冷たい声だった。
怒鳴っていないのに、室温が一気に下がった気がする。
ルーペルトが口を開きかけ、止めた。
この声には、今は逆らえない。そう悟った顔だった。
「ジークムント。帳簿だ。仕立てと洗濯の出入りも含めろ」
「承知した」
「執事長。ベルの部屋の出入りを当面制限する。必要な者以外は近づけるな」
「私の部屋?」
「お前が原因を見抜いた。つまり、お前は『邪魔』だ」
ベルは目を瞬いた。
レオンハルトは端的に言う。
「邪魔な者は消される」
言葉だけを拾えば、ぞっとするほど冷たい。
けれど、その中身は護りだった。
真っ先にベルを囲い込む判断をするあたり、この人は弱っていても第一王子なのだと分かる。
人が散っていく。
椅子が引かれ、靴音が遠ざかり、扉が一つずつ閉じていく。
喪布の陰が濃くなり、外の世界が遠のいた。
最後に残ったのは、ベルとレオンハルト、そして机の上の黒い手袋だけだった。
「ベル」
レオンハルトが呼んだ。
声が少しだけ低い。人がいる時より、わずかに地の響きに近い。
「俺の症状を、他の者に言うな」
「言いません」
「信じる理由は?」
「薬草師は患者の秘密を守ります」
「それだけか」
ベルは少しだけ迷った。
きれいな答えを返すこともできる。
でも、この王子にそれはたぶん響かない。
ここで試されているのは忠誠ではなく、どこまで本当のことを言うかだ。
「……それと、殿下が倒れたら困るからです」
レオンハルトの眉が動く。
侮辱ではない。興味の動きだった。
「困る?」
「この一か月が終わる。王政が終わる。私は森へ帰れなくなる。だから守りたい。自分の居場所を」
「自分のために?」
「はい。まずは」
わずかに間を置いてから、ベルは続けた。
「でも、今は殿下自身にも倒れてほしくないと思っています」
言い終えたあとで、少しだけ喉が乾いた。
言いすぎたかもしれないと一瞬思ったが、レオンハルトは笑わなかった。
ベルがそう言うと、レオンハルトは一瞬だけ目を伏せた。
何かを測るような沈黙のあと、静かに顔を上げる。
「利己的だな」
「そうです」
「だが、誠実だ」
その評価が、妙に重かった。
王子が誰かを褒める時は、甘さではなく責任が乗る。
軽く受け取ってはいけない類の言葉だと、ベルにも分かった。
「俺も、お前を守る。居場所ごと」
淡々とした声だったのに、ベルの喉が小さく鳴った。
守る、という言葉が、ここまで具体的に感じられたことはない。
森の家で母に守られていた時とも違う。これは庇護ではなく、同じ場に立つ相手へ向ける言葉だった。
「……殿下」
「香りではなく、手袋だと気づいたのはなぜだ」
問われて、ベルは正直に答えた。
「匂いです。革の油は、普通は甘いだけ。でも殿下の手袋は、苦味が混じっていました。それと——皮膚の荒れ方。擦れじゃない。中から出てる」
「中から、か」
「はい。表面だけ傷んだ手じゃない。内側に入ったものが、皮膚に先に出ています」
レオンハルトの視線が、机の上の黒い手袋へ落ちた。
その沈黙は短かったが、静かな怒りを含んでいた。
レオンハルトは小さく息を吐いた。
張りつめていた糸が、ほんの一瞬だけ緩むみたいな吐息だった。
「今まで、誰にも言わなかった」
「気づかなかったんですか」
「気づいていた」
低い声だった。
淡々としているのに、その奥には少しだけ苦いものが沈んでいる。
「だが、気づかないふりをした」
その一言が、ベルの胸に刺さった。
王子でいるために、痛みを無視する。
弱さを見せないために、身体を壊す。
そうしなければ立っていられない場所に、この人はずっといたのだ。
ベルは机の上の手袋を見た。
黒い革。上品な縫い目。喪の装束にふさわしい、隙のない仕立て。
そこに、静かな悪意が染みている。
こんな形で人を蝕むものがあることに、腹の奥がじわりと冷えた。
「殿下。今日から、手袋は私が確認します」
「……命令か」
「提案です。殿下が拒否するなら、私はできることが減ります」
「言い方は命令に近いな」
「そう聞こえたなら、きっと急ぐ話なんです」
レオンハルトの目が、ベルの顔に固定された。
試すようでも、威圧するようでもない。
まるで初めて、『対等に言い返してくる相手』を見つけたみたいな目だった。
「ベル。お前は怖くないのか」
ベルは少し考えた。
怖い、という感情がないわけではない。王子は権力だ。機嫌一つで、部屋の空気も人の運命も変えられる立場にいる。
でも今、目の前にいるのは権力そのものではなかった。
震える手を隠して、誰にも見せずに立ってきた、一人の人間だ。
「怖いより、面倒だと思ってます」
「面倒?」
「殿下は隠すのが上手すぎる。隠しすぎると、助けてもらえなくなります」
「それを俺に言うか」
「言わないと、また隠すでしょう」
レオンハルトは、一瞬だけ唇の端を上げた。
笑った、に近い。
けれどそれは、誰にも見せない種類の緩みだった。
この人もちゃんと笑えるのだと、そんなことをベルは場違いに思う。
「……変わっているな」
「村では普通です。王宮が変なんです」
「ずいぶんな言い草だ」
「だって本当に変です。具合が悪いのに黙っている人が多すぎます」
レオンハルトは短く息を吐いた。
呆れたのか、少しだけ可笑しかったのか、そのどちらとも取れない息だった。
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