第七話 第一王子の秘密①
翌朝、ベルが目を覚ましたのは、王宮の鐘が一度も鳴らない時刻だった。
天蓋の内側はまだ薄暗く、厚いカーテンが朝の気配を遠ざけている。
森の家なら、鳥の声と竈の匂いで『今日』が始まる。
まだ眠い目をこすっていても、火のはぜる音と、母が鍋を動かす気配で体の方が先に朝を理解した。
けれどここでは違う。
石壁の冷たさと、どこか甘い木蝋の匂いで目が覚める。
静かすぎるくせに、何もかもが人の手で整えられている気配だけは濃い。王宮の朝は、自然ではなく管理された静けさの中にあった。
父の書簡。七人の視線。秘喪の一か月。
全員一致で王を決めろ。決まらなければ、王政は廃止。
頭の中で言葉だけが何度も巡る。
考えすぎると胃が縮む。ベルは息を吐いて寝台を降り、窓辺へ向かった。
喪布の隙間から庭園を覗くと、噴水が薄い朝の光を受けて白く揺れている。
空はまだ完全には明るくないのに、王宮はもう動いていた。遠くで靴音が響き、扉の開閉が慎ましく重なる。人の声はほとんどしない。ただ、見えないところで大きな屋敷全体がゆっくり息をし始めているようだった。
コンコン、と控えめなノックがした。
「ベル様。お目覚めでいらっしゃいますか」
侍女の声だった。
ベルが「はい」と返すと扉が開き、二人の侍女が湯と布を運び込んだ。
顔を洗い、髪を整えられながら、ベルは鏡の中の自分を見つめる。
森の端で薬草を刻んでいた自分が、王宮の鏡台に座っている。
現実味が薄い。けれど、懐にしまった書簡の感触は確かだ。
昨日までの自分と、今の自分は同じ顔をしているのに、立っている場所だけがあまりにも違う。
鏡の中のベルは落ち着いて見えたが、胸の内側ではまだ何一つ整理できていなかった。
その時、まだ薄暗い廊下側が急に騒がしくなった。
早足の足音が通り過ぎる。低い声で短い指示が飛び、侍女の返事が重なる。
何かを落としたような、小さく硬い音まで聞こえた。
二人の侍女が同時に顔を上げる。
そして、扉が今度は少し強く叩かれた。
「ベル様。第一王子殿下がお呼びです」
入ってきた侍女の顔が一瞬で青くなっていた。
その色を見ただけで、ベルの胸もすっと冷える。
「何で?」
「書類への署名と聞いております」
侍女は外套を差し出した。
けれどベルは外套より先に、革鞄へ手を伸ばす。
薬草の袋、小瓶、軟膏。旅の間ずっと手放さなかったものだ。
外套を羽織り、侍女とともに部屋を出る。
廊下は長く、曲がり角が多い。
昨日は豪奢さに目を奪われたが、今は違う。
ベルは周囲を見ながら、音と匂いだけを拾った。
磨かれた石床の冷え。
すれ違う従者の緊張。
漂う香油——甘いが、どこか重い。
そこへ、微かに混じる乾いた匂い。血ではない。もっと薄く、けれど体調を崩した部屋に特有の、空気の乱れに似ていた。
執事長は会議室の前に立っていた。
白髪はきちんと撫で付けられているのに、眼鏡の奥の目には隠しきれない疲労が滲んでいる。
ただでさえ眠れていなさそうな人なのに、今朝はその影がさらに深かった。
「ベル様。こちらへ」
短い言葉の端にまで、切迫が滲んでいた。
扉が開いた瞬間、部屋の空気が押し寄せた。
喪布の暗さ。整えられた静けさ。
そして——息苦しいほどの沈黙。
テーブルの上座、複数の書類を前にレオンハルトが座っていた。
背筋はまっすぐ。だが肩の力が不自然に固い。右手が膝の上で小さく震えている。
目の下には薄く影が落ち、唇の色も昨日より悪かった。
それでも姿勢だけは崩していないあたりが、かえって無理をしているように見える。
周囲には他の王子たちがいた。
フロリアンは落ち着かない様子で兄を見ている。いつもの軽さは影もない。
ルーペルトは苛立ちを隠そうともせず腕を組み、靴先で床を鳴らしかけては止めていた。
ジークムントは表情を動かさず、冷たい目だけを向けている。その静けさが余計に張りつめて見える。
カシミールだけは、すべてが他人事のような顔で、焦げ茶色の髪の毛先をいじっていた。
ヨアヒムは青い顔のまま息を潜め、コンスタンティンは椅子の端で縮こまっていた。
誰も大声を出してはいないのに、部屋全体が不安で軋んでいるみたいだった。
ベルは、まずレオンハルトの手を見た。
震えはほんの小さなものなのに、目を離せないほどはっきりしていた。
寒さの震えではない。力で抑え込もうとしても抑えきれない、内側からくる細かな揺れだ。
「ベル」
レオンハルトが呼んだ。
声は低いが、昨日よりわずかに掠れている。
ベルが一礼して近づくと、彼は拳で口元を覆って短く咳をした。
乾いた咳。胸の奥に絡む音ではないが、呼吸は浅い。
額に汗はない。けれど顔色は悪い。指先の震えだけが妙に目立つ。
「殿下。その手はいつからですか?」
「大したことではない」
言い切る前に、右手の震えが強くなる。
ペンを取ろうとした指が、机の上で空を掴んだ。
その動きを見た瞬間、ベルの中で何かが切り替わった。
相手が第一王子だとか、この場に他の王子たちがいるとか、そういうことがいったん脇へ退く。
目の前にいるのは、具合の悪い人だ。
ベルは視線を上げた。
「その震え方は、大したことです」
空気が一瞬止まった。
ルーペルトが眉を上げ、フロリアンが口を開きかけて閉じる。
レオンハルトの眉も、わずかに動いた。苛立ちではなく、驚きに近い揺れだった。
「……お前は口が回るな」
「薬草師なので。口が回らないと仕事になりません」
ルーペルトが鼻で笑った。
乾いた、感じの悪い音だった。
けれどベルはそちらを見なかった。
見たところで、今必要なものは手に入らない。
ベルはレオンハルトの顔だけを見る。
目の下に薄い影。
唇の乾き。
瞳の焦点が、ほんのわずかに揺れている。
熱に浮かされた目ではない。けれど、眠れている人間の目でもなかった。
疲労だけではない。
何かが、身体の奥で継続的に削っている。
少しずつ、でも確実に。
「昨夜、眠れましたか」
「……眠れた」
一拍の間があった。
嘘ではないのだろう。まったく眠れていないわけではない。
でも、充分ではない。
眠った、という事実だけで、休めたとは限らない。
ベルは間を置かずに続けた。
「飲んだものは?夕食の後、酒、薬、滋養剤」
「何も」
「本当に?」
「必要ない」
言葉は短い。
強がりというより、問われ慣れていない人の返し方だった。
ベルはそこで反論せず、今度は手元へ視線を落とした。
レオンハルトの右手は、止まることなく膝の上で震えている。
細かな震えだ。けれど、自分で抑え込める種類のものではない。
指先が少し赤い。
深い黒の革手袋の縁が見えた。喪の装束に合わせたものだろう。きちんとしているのに、その縁だけが妙に目につく。
その手袋のあたりから、ほんのわずかに油の匂いが立っていた。
王宮で使う革の手入れ油の匂い。
ただし——普通の油とは違う。
甘さの裏に、微かな苦みが混じっている。
鼻を近づけなくても分かる程度には薄い。
けれど、薬草と油を日々扱ってきたベルには十分だった。
ベルは小さく眉を寄せた。
「殿下。手袋、外せますか」
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