第五話 眠れぬ夜
その夜、ベルに与えられた部屋は、ベルがこれまで見た中で最も豪奢な空間だった。
王宮の東棟、三階の角部屋。
広さは実家の家全体に匹敵するほどあって、天蓋付きのベッドに、暖炉に、鏡台に、書き物机に、厚い絨毯まで敷かれている。
壁には落ち着いた青の布が張られ、金の装飾が控えめに光っていた。窓の外には庭園が見え、月明かりの中で噴水が静かに白く光っている。
あまりに整いすぎていて、うっかりすると自分だけが場違いに思えた。
ここで眠るのは、自分ではなく別の誰かのようだった。
侍女がベルの旅支度を解き、服を整えてくれた。
革鞄からのぞいた薬草の束を見て「まあ」と小さく驚いた顔をしたが、余計なことは何も言わない。ただ手際よく皺を伸ばし、水差しの位置を整え、夜着を用意する。
その無駄のない動きが、かえってベルを落ち着かなくさせた。
「何かご不便なことがあればお申し付けください」
そう言い残して出ていった侍女の後ろ姿を見送り、ベルはようやく一人になった。
そのままベッドの端に腰を下ろす。
沈み込みすぎない、けれど柔らかな寝台だった。村の家の寝台とはまるで違う。違いすぎて、体が休まりそうなのに、心は少しもほどけない。
疲れた。
体ではなく、頭と心が。
三日間の旅の疲労よりも、今日一日で起きたことの方がずっと重かった。
王宮の門。七人の王子。父の書簡。遺言。
一つずつならまだしも、それらが何の猶予もなく一気にのしかかってきて、ベルはしばらくただそこに座り込んだ。
暖炉には火が入っているのに、指先だけが妙に冷たい。
——父が死んだ。
実感はない。
会ったこともない人なのだから、当然だ。
ベルが知るその人の顔は、さっき廊下で見た肖像画しかない。
それでも、あの目の色だけは頭から離れなかった。
灰色がかった緑。
母と同じだと思っていた色。自分の中でずっと母にだけつながっていたものが、急に別の意味を持ち始めている。
——わたしは王女なのか。
おかしな話だった。
森の端の小さな家で、薬草を刻み、乾かし、煎じて育ってきた自分が、王の娘だというのか。
王女と呼ばれるような人間が、靴底をすり減らして王都まで歩いてくるものだろうか。
考えれば考えるほど、どこか誰か別の娘の話のように思えた。
——そして、七人の王子の妹であり、姉。
いや、妹というのも違う気がした。
兄たち、というにはあまりにも知らなすぎるし、自分だけが後から現れた異物みたいでもある。
しかも、ただ血がつながっていたというだけでは終わらない。
全員で王を決めなければならないと、遺言にはあった。
全員一致で。
自分もその『全員』に含まれる。
一か月の間に。
「……何から考えればいいんだろ」
呟きは、ひどく頼りない音になって部屋へ落ちた。
答える者はいない。あたりまえだ。
そう思った直後、コンコンコン、と控えめなノックが響いた。
「どうぞ」
扉が開く。
入ってきたのは、一番端の席に座っていた十四歳の少年——コンスタンティンだった。
眠れないのか、寝衣の上に上着を羽織り、手には小さなランプを持っている。揺れる灯りに照らされた大きな目が、少し心配そうにベルを見た。
「……起きてた?」
「起きてた」
「良かった。じゃあ、邪魔じゃない?」
「邪魔ではないけど、こんな夜中に一人で歩き回っていいの?」
「いいよ。ここ、ずっと来てるから」
言いながら、コンスタンティンは遠慮なく部屋に入り、近くの椅子に腰を下ろした。
昼間の控えめさが嘘みたいな馴れ方だった。
たぶん、緊張していないわけではない。ただこの子なりに、部屋へ入る前から何を話すか決めてきたのだろう。
そう思うと、ベルは少しだけ笑いたくなった。
「何しに来たの?」
「話したくて」
「何を?」
コンスタンティンはランプをテーブルに置き、少しだけ身を乗り出した。
「……今日の『唯一』って、どういう意味だと思う?」
思ったよりまっすぐな問いだった。
ベルは少し考える。
正直に言うべきか迷ったが、ここで誤魔化しても仕方がない。
「わたしにも、よく分からない……みんなの方が詳しいんじゃないの?」
「兄さんたちも、たぶんちゃんとは知らないと思う」
コンスタンティンは足をぶらぶらさせながら、天井を見上げた。
「僕、父上のことをあまりよく知らないんだよね。王様だから当然なんだけど。でも……僕の目、父上と全然違う色だし、兄さんたちも全員ばらばらで」
「目の色は、必ずしも親子で同じじゃないでしょ」
「そう?でも僕は、ずっと気になってて」
その言い方に、ベルは胸の奥で小さく何かがひっかかるのを感じた。
この子はたぶん、今日だけで疑い始めたわけじゃない。
前からずっと、心のどこかに置いていたのだ。
でも今それを深く掘り返す必要はないと、直感が告げていた。
「一か月あるから。答えはきっと、その間に出てくるよ」
「そうかな。……で、お姉さんのお母さんって、本当に西の魔女なの?」
唐突な話題の飛び方に、ベルは少しだけ目を瞬いた。
あまりにも子どもらしい切り替えなのに、訊いている内容だけは軽くない。
「執事長が夕飯の前に言ってた。ベル様のお母上は、かつて西の魔女と呼ばれていたって。本当にあの西の魔女なの?」
「わたしも、今日初めて知ったことだから」
「え、知らなかったの!?」
「知らなかった」
コンスタンティンは目を丸くした。
本気で驚いている顔だった。
「お母さんのこと、何も知らなかったの?」
「魔法を使えるとは、なんとなく気づいてたけど。でも、はっきり聞いたことはなかった。そういうことを話したがらない人だったから」
「そうなんだ。僕も生まれる前の話だけど、当時はけっこう騒ぎになったみたいだよ?」
「……知ってるの、母のことを」
「歴史の本に載ってる。二十年前の話。魔法使いの中でも特に強い力を持った西の魔女が、突然姿を消したって」
「なぜ姿を消したか、書いてあった?」
「真偽不明だけど……国と対立したとか、逆に深く関わりすぎたとか、そういう説があるって」
ベルは黙った。
初めて知る事実だった。
ベルの記憶の中の母は、いつも穏やかで、少し薬草に詳しくて、あまり自分のことを語らない人だ。
それだけだった。
火を起こす手つきが妙に慣れていることも、傷の治りを早める薬を当たり前みたいに作ることも、今になれば思い当たることはいくつもある。
それでもベルにとっては、秘密を抱えた魔女ではなく、母だった。
「秘密が多い人だったんだね、お母さん」
「そうかもしれない」
「父上も、秘密が多かったのかな」
ベルはコンスタンティンを見た。
その問いは、子どもらしくないほど静かだった。
誰かを責める言い方ではない。ただ、本当にそうなのだろうかと考えている声だった。
「……そうかもしれないね」
「眠れなかったら、また来てもいい?」
少しためらってから、コンスタンティンは続けた。
「僕、夜に考えすぎて眠れないことが多いから」
「……まあ、いいけど」
「ありがとう」
ぱっと明るくなるほどではない。
けれど、ほんの少しだけ表情がやわらいだ。
コンスタンティンは席を立ち、ランプを持ち直した。
帰り際に笑った。でも、その笑顔には薄い翳りが残っている。
「お休み、お姉さん」
「お休み、コンスタンティン」
扉が閉まる。
足音が遠ざかったあとも、しばらく部屋はさっきより静かだった。
ベルはベッドに横になる前に、もう一度天井を見上げた。
——唯一、という言葉が頭から離れない。
父の書いた書簡には『正当な子女である』とあった。
遺言には『余の子は八名』とあった。
けれど『唯一の認知』という言葉は、それとは少し違う意味を持つ。
ただ血がつながっている、という話ではないのかもしれない。
なぜ自分だけが。
なぜ母は、今まで何も言わなかったのか。
——この一か月で、分かるかもしれない。
正確な意味は、時間が教えてくれるだろう。
そう思い直して目を閉じても、眠りはすぐには来なかった。
月明かりの白さと、コンスタンティンの『お姉さん』という呼び方だけが、いつまでも胸のどこかに残っていた。
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