第二十七話 誰に鍵を渡すか
秘喪の王宮は、今日も静かだ。
静かなほど、噂はよく響く。結び目も、よく響く。
誰が何を渡したか。誰が誰のそばを歩いたか。そんなことで、意味はいくらでも増えてしまう。
だからベルは改めて思う。
『真名』は、まだ誰にも渡さない。
渡す相手は、自分で決める。
その決意だけが、胸の奥で小さく、でも確かに結び目になっていた。
廊下へ出た瞬間、噂の視線がまた背中に刺さった。
礼拝堂の控え室を出る前より、むしろ増えている気さえする。
けれどレオンハルトは、その刺さる場所を当然のように自分の方へずらす。
ベルの半歩前に出て、視線を受ける角度を変える。こちらへ向くはずの好奇も悪意も、先に自分で受け止めるみたいに。
そういうところが過保護で、腹が立って、……妙に安心するから困る。
礼拝堂の角を曲がったところで、レオンハルトが急に足を止めると、ベルも反射的に止まる。
後ろを歩いていた侍女が、慌てて距離を取った。
ほんの数歩ぶんだけ、回廊の空気が『二人きり』になる。
レオンハルトはベルを見た。
いつもの命令の目ではない。
判断の目でもない。
何かを決めて、もう逃げないと決めた人の目。
「ベル」
短く呼んだ後、珍しくそのまま続ける。
「……俺は、お前が他の誰かに『結び目』を渡されるのが嫌だ」
ベルの胸が小さく跳ねた。
さっきの『触らせたくない』が、もう一段深い言葉で戻ってきたのだと分かる。
冗談で流そうとして、喉が空回りした。
うまく笑えない。軽く返せない。
「殿下、それは——」
「言い訳はしない」
レオンハルトは静かに遮った。
「弟たちの責任、とか。王宮が危ない、とか。便利な言い方はいくらでもある。だが……お前に対しては説明できないと言った」
「……」
「説明できないままでも、伝える。俺は——」
一拍、言葉が沈む。
その沈み方が、決意だった。
迷っている沈黙ではない。口にしたら戻れないと分かっている人の沈黙。
「俺はお前が好きだ」
廊下の空気が止まった。
喪布の影が濃くなる。噴水の音が急に遠い。
自分の呼吸だけが、やけに大きい。
ベルは視線を逸らせなかった。
レオンハルトの目が、逸らさせない。
「……」
返事が出ない。
出るはずの言葉が、どれも重すぎた。
『はい』も、『いいえ』も。
どちらを言っても、今のベルの選択じゃない。
『真名』を思い出したばかりの自分には、あまりに重くて、あまりに近い。
ベルが迷っているのを、レオンハルトは責めずに、ただ、淡々と言った。
「今すぐ答えろとは言わない。まだ俺とお前が兄妹である可能性もゼロとは言い切れない」
「それは……」
レオンハルトがベルに思いを伝える。
それはレオンハルトの中で既に兄妹ではないと、確信してるということに他ならない。
「だが、お前が決めるまで、俺はお前を守る。責任でも、義務でもなく」
その言葉は、告白より危険だった。
守ると言われると、世界が狭まる。
狭まるのに、温かい。
温かいのに、足場が揺れる。
ベルはやっと言葉を見つけた。
「……殿下、私は」
「今は決められない、だろう」
レオンハルトが先に言った。
責める声じゃない。理解している声。
それが余計に胸を締めつける。
「……はい」
「それでいい」
ベルは小さく頷くと、レオンハルトは短く息を吐く。
その吐息に、張りつめていたものが少しだけ混じっていた。
「お前が決める。——だから俺は、邪魔をする奴を切る」
その言葉が落ちた瞬間、ベルの頭の中で一本の線がつながった。
邪魔をする奴。
偽蜜蝋。
改竄。
護符への混入。
全部、同じ棚から出ている。
胸のざわつきが、一気に別の熱へ変わる。
感情に呑まれる前に、思考の方が走るように、ベルは反射的に言った。
「殿下。……偽蜜蝋、今日で『線』を掴めます」
「何だ」
「ヨアヒムの護符に混入した紙片。切り口が新しい。香料の甘さが強い。油の匂いも残ってる。コンスタンティンの封蝋と同系統です」
「……」
「同じ手が、同じ場所で作っています。なら、今夜のうちに香料庫と封蝋の保管動線を洗えば、重なる人間が出ます」
レオンハルトの目が、告白の熱を一瞬で押し込み、仕事の色へ戻る。
「分かった。すぐ動く」
「ええ。私も、逃がしません」
その切り替えが、この人らしかった。
ベルは胸の奥の騒がしさを押さえ込みながら、静かに頷く。
レオンハルトの目が一段冷える。
けれど、その冷えはさっきと違った。感情を押し殺した冷えではない。仕事の冷えだ。王子の冷え。
熱を内側へ押し込み、刃だけを外へ出す時の目。
「場所は」
「香料庫と養蜂場、それから手紙用インクの棚。三つのうち、偽蜜蝋の『甘さ』が一番濃いのは香料庫です。蜂蜜じゃなく、香料で甘さを作ってる」
「確証は」
「匂いが違う。蜂蜜の甘さは澄んでる。香料の甘さは、残る。喉に残るんです」
ベルは言い切った。
薬師の確信は、証拠になり得る。少なくとも、動く理由にはなる。
目に見えるものだけが証拠じゃない。匂いも、乾きも、混ざり方も、全部が線になる。
レオンハルトは短く頷いた。
「今から行く」
「はい」
ベルは一歩踏み出して、ふと止まった。
告白の返事を置き去りにしたまま、仕事へ逃げている。
その自覚があって、胸の奥が少し苦い。
それでも、逃げるしかないと思った。
『真名』も、番も、王位も、全部が絡んでいる。
ベルが誰に『鍵』を渡すかは、ベルが決める。
誰にも奪わせないし、急かされても決めない。
だからこそ今は、盤面を整える必要がある。感情より先に、足元を固めなければならない。
レオンハルトが、ベルの歩幅に合わせて言う。
「ベル」
「はい」
「返事は、急がなくていい」
ベルは頷いた。
それだけで少し救われるのが、悔しい。
「でも、忘れないでください。私は……決めるのが遅いです」
「知っている」
「知ってるのに言うんですか」
「言いたかった」
レオンハルトはそれだけ言った。
言い訳も、飾りもない。
それだけで、胸の奥が少しだけ温かくなるのが悔しい。
香料庫の前で、レオンハルトが衛兵に命じる。
「封鎖は解除するな。だが中に入る。管理者を呼べ」
「はっ」
香料庫の管理者が来るまでの短い間、ベルは扉の前で深呼吸した。
ここは『棚』の中心。
偽蜜蝋の甘さが一番濃い場所。
もし線が繋がるなら、ここで繋がる。
レオンハルトがベルの横で低く言う。
「怖いか」
「……少し」
「なら、俺の後ろにいろ」
「過保護ですね」
「今は、そうさせろ」
それは命令じゃない。お願いに近い。
管理者が来て鍵が回り、香料庫の扉が開く。
中は香りが濃かった。甘い。樹脂。花。油。乾いた木箱の匂い。古い布の匂い。
一歩入っただけで、鼻が一気に情報を拾いすぎて、頭の奥が少し痛くなる。
でも、その中に、あの偽蜜蝋の甘さがある。
喉に残る甘さ。作り物の甘さ。
自然の甘さじゃない。何かを『似せるために足した』甘さだ。
ベルはレオンハルトの袖を軽く引き、囁いた。
「……この棚です」
指差したのは、香料の基材油と蜜蝋の混合材が置かれた区画。
蜂蜜そのものではなく、『香りを乗せるための甘い基材』。
本物を作る棚ではない。何かを本物らしく見せるための棚。
レオンハルトが低く命じる。
「この棚に触れた者の記録を出せ。昨日と今日、そしてコンスタンティンの件が起きた夜」
管理者が顔を青くし、帳簿へ手を伸ばす。
ベルは棚の端に置かれた小さな木箱を見つけた。
蓋の隙間から、甘さが漏れている。
同じ匂い。
ベルが手を伸ばしかけた瞬間、レオンハルトが先に言った。
「触るな。ベル」
「……はい」
レオンハルトが白手袋をはめ直し、木箱を取り上げ、蓋を開ける。
中には、黄金色の塊がいくつか並んでいた。
一見すればそれらしい。けれど近くで嗅げば分かる。
本物と偽物の境目が、香りではっきりと。
ベルは確信した。
「あります。偽蜜蝋の原料」
「これで線が繋がるか」
「繋がります。紙片の欠片と、コンスタンティンの封蝋と、同じ匂いです。甘さの残り方も、油の重さも同じ」
レオンハルトは頷き、帳簿を見たその瞬間、ベルは思った。
やっと、ここまで来た。
偽蜜蝋は、ようやく『噂』や『違和感』じゃなく、物として目の前に出てきた。
ここから先は、誰かの手元へ辿れる。
「……名前がある」
レオンハルトが帳簿の一行を指で押さえ、低く言った。
ベルは一瞬だけ、胸が冷えるのを感じた。
犯人の名前が出るのは、物語が次へ進む音。
進めば終わりに近づく。でも同時に、もう戻れない。
「ベル。お前が決めろ。ここで読むか、戻ってから読むか」
「……戻ってから」
「分かった」
レオンハルトは短く頷いた。
今ここで読んだら、告白の返事まで全部が崩れてしまう。
この香りの中で、その名前まで受け取ったら、息ができなくなる気がした。
扉が閉まり、香りが薄まった廊下で、ベルはようやく息を吐いた。
レオンハルトが隣にいることが、今はありがたい。
偽蜜蝋の解決は、もうすぐだ。
そしてその先に、ベルが『誰に鍵を渡すか』を自分で決めるための、静かな時間が必要になる。
急かされず、脅されず、奪われずに、自分の意志で選ぶための時間が。
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