第二十六話 第六王子の秘密
翌朝。
ベルは廊下を歩きながら、足音に敏感になっている自分に気づいた。
角の向こう。階段の下。扉の内側。誰かが近づくたび、無意識に肩が強張る。
カシミールの言葉が、まだ刺さったまま。
——君を『決める』やつが出てくる。
静かな王宮ほど、その言葉は嫌に響く。
誰もいない廊下でさえ、見えない手がどこかから伸びてきそうな気がした。
角を曲がった先で、レオンハルトと鉢合わせた。
布手袋。疲れの影。けれど目だけは鋭い。
昨夜も眠っていないのだろうと、見た瞬間に分かる顔。
「ベル」
「……殿下」
「顔色が悪い」
即断だった。
迷いも遠慮もない言い方に、ベルは一瞬だけ答えを失う。
「眠れなかっただけです」
「嘘だな。お前は嘘が下手だ」
レオンハルトが淡々と言う。
ベルは口を噤んだ。
『真名』のことは言えない。誰にも言わない。自分で決める。
そう決めたばかりなのに、この人の前に立つと、隠しているものが薄くなる気がした。
「何があった」
「……古い話を思い出しただけ」
「カシミールか」
「……」
ベルは驚きで目を見開いた。
レオンハルトは、その反応で確信したように、視線を逸らさず続ける。
「お前の視線が一度だけ、書庫の方へ行った。……嫌な癖だな、俺も」
「相変わらず、過保護ですね」
「弟たちには過保護かもしれない」
レオンハルトは淡々と返し、それから少しだけ声を落とす。
「ただ、お前に対しては説明できない」
ベルは胸の奥が騒ぐのを感じて、視線を逸らした。
言えない。決められない。まだ。
それでもレオンハルトは、いつもの一言で空気を変える。
「ベル。用がないと来てはダメなのか」
「……はぁ?」
「用はある。お前が無事か確認する用だ」
短いのに、妙にまっすぐな言葉。
ベルは返事を探し、結局、仕事に逃げた。
「……私は無事です。たぶん」
「たぶん、は要らない」
「殿下こそ、寝てください」
「寝る」
「嘘ですね」
「失礼だな」
「顔に書いてあります」
レオンハルトの口元が、ほんのわずかに動く。
笑いかけて、やめた顔。
嘘だ、とベルは思った。
でも、その嘘に乗ってやるのが、今はまだ一番安全だとも分かっている。
ベルは一礼して、その場を離れた。
背中に、レオンハルトの視線が残る。
『真名』は、まだ誰にも渡さない。
決めるのは自分。
——それなのに。
カシミールの言葉だけが、しつこく耳に残る。
『候補はもういるってことだよね』
ベルは月の葉の匂いが染みた指先を握りしめ、歩幅を少しだけ速めた。
秘喪の王宮は静かだ。
静かなほど、鍵の音がよく響く。
そして今、ベルの中では、誰にも聞かせていないその音だけが、いちばん大きかった。
喪布のかかった窓から差す光は、祈りの場の光に似ていた。
強くない。眩しくない。けれど、逃げ道を作らない明るさ。
東棟の回廊を歩いていたベルを、石壁の影から現れたヨアヒムが呼び止めた。
黒に近い濃紺の上着。首元まできちんと留められた襟。何より、目が真面目だった。
「ベル。少し時間をもらえるか」
「……何ですか」
案内されたのは、礼拝堂脇の小さな控え室。
椅子が二つと小卓だけの、香の匂いが薄い部屋。
扉が閉まると、ヨアヒムは小さな白い布袋を取り出す。
「君に渡したいものがある。贈り物ではない。護りだ」
「護り?」
「結び紐の護符だ。母が聖職者だった。よく言っていた。言葉が通じない相手には、結び目が必要だと」
ベルは布袋を見た。
細い紐で、きつく結ばれている。その結び方自体に意味がありそうに見える。
「これ、重い意味がありますよね」
「ある。だが、今の王宮には軽いものでは足りない」
「誰に渡すものなんですか」
「血縁か、守ると誓った者。母は『誓いは言葉ではなく、結び目に残る』と言っていた」
ヨアヒムの声が少しだけ低くなる。
ベルは小さく息を吐いた。
「私は、そんな誓いを受け取る立場じゃない」
「受け取ってほしい。縛るためじゃない。護るためだ」
「縛るつもりがない人ほど、結び目を渡します」
そう言うと、ヨアヒムはほんの少しだけ苦い顔をした。
でも否定はしない。
「……身に着けるかどうかは、君が決めていい」
「分かりました。受け取るだけなら」
控え室を出た瞬間から、空気が変わった。
廊下の端で侍女が二人、ベルとヨアヒムを見て、すぐに目を逸らす。
言葉にしないぶんだけ、噂は早い。
昼を過ぎた頃には、噂はもう形になっていた。
『第六王子がベルへ護りを渡した』
そんなふうに、事実と解釈が気持ちよく混ざった形で。
「ヨアヒム殿下が、ベル様に『結び紐』を……」
「それって、あの……」
「ええ、あの……」
『あの』で済ませるのが、王宮の噂の怖さだ。
言葉にしないぶん、都合のいい想像だけが勝手に膨らむ。
ベルはそういう視線を背中で感じながら、東棟の自室へ戻った。
部屋に入ると、レオンハルトが机の前にいた。
視線がすぐにベルが持つ布袋へ落ちる。
「……それは」
「ヨアヒム殿下からです。護衛の補助として」
「補助、か」
声が短い。
短いほど温度が下がる。
「過保護ですね」
「弟たちには理由がある」
「またそれですか」
「……お前に対しては説明できない」
ベルはため息をつき、布袋を机に置く。
「護符の確認、します?確認するなら、先に私が開けます」
「分かった」
結び目は固い。
丁寧すぎるくらい丁寧に結ばれていて、ほどくのに少し時間がかかる。
ようやく開いた袋の中から出てきたのは、木札ではなく薄い紙片。
紙片の端に、黄金色の欠片が貼りついている。
封蝋の欠片に見える。
その時点で、ベルの指先が冷えた。
「……嫌なやつ」
「偽封蝋か」
「匂いを嗅げば分かります」
紙片を鼻先に近づける。
甘い。だが蜂蜜の澄んだ甘さじゃない。香料の甘さ。
油の匂いも混じる。焦げの早い、あの煙臭さ。
「偽物です。コンスタンティンの偽蜜蝋と同じ系統」
「……」
紙片に書かれていたのは短い文。
『ベルを隔離せよ』
『『真名』を確認せよ』
『合議の妨げとなる』
レオンハルトの目が細くなる。
「……『真名』とはなんだ?」
ベルは即座に言った。
「罠です。ヨアヒム殿下を捏造犯にして、私を隔離して、合議を割るための」
「ヨアヒムを呼ぶ」
「ここで呼ぶと噂が確定します」
ベルは首を振った。
「礼拝堂で呼びましょう。渡した場所に近い方が、動線も追えます」
「……分かった」
ほどなくして礼拝堂の控え室に来たヨアヒムは、紙片を見た瞬間に顔色を変えた。
「……これは」
「殿下が入れたんじゃないんですか?」
「違う。誓って違う」
「誓いを軽く使わないでください」
ベルが言うと、ヨアヒムは躊躇いながら口を開く。
「僕の護符が、悪用された」
「渡す前に袋は開けましたか」
「開けていない。結び目は母の作法だ。ほどかない」
「なら、混入したのは保管中です」
ベルは紙片の端を指す。
「匂いが新しい。封蝋の切り口も新しい。今日か昨日です。この甘さ、香料庫の基材と同じです」
「……書記局の改竄と同じ棚か」
「はい。同じ棚です」
ヨアヒムはしばらく黙っていたが、やがてベルを見た。
「君を縛るつもりはなかった」
「分かってます」
「でも結果的に、君の自由を奪う形になった。……すまない」
「私は何も奪われてないです。決めるのは私なので」
ベルの淡々としたその言葉に、ヨアヒムの表情が少しだけほどけた。
横からレオンハルトが言う。
「二度と、こういうものをベルに渡すな」
「兄上」
「渡すなら、俺を通せ」
ヨアヒムが困ったように眉を寄せる。
ベルは呆れたように言った。
「過保護ですね」
「なんとでも言え」
「……兄上、分かりやすすぎる」
「黙れ」
そこでようやく、ヨアヒムが小さく笑った。
ベルはその響きを聞いて、一拍だけ言葉を失う。
過保護、という言葉で片づけるには、少し温度が違う。
もっと近くて、もっと説明しにくいものの匂いがした。
「護符はいいとして、噂は——」
「俺が切る」
レオンハルトが即答すると、ベルは眉を上げた。
「どうやって」
「噂は『怖い方』に流れる。『偽封蝋が混入した』という事実だけを、必要な者にだけ落とす。そうすれば噂は『陰謀』へ流れる」
「……雑すぎません?」
「雑でいい。相手は雑に刺してきている」
レオンハルトの冷たい声に、ベルは少しだけ唇を尖らせた。
正しい。たぶん正しい。
正しいのに、納得してしまうのが悔しい。
「殿下、たまに荒っぽい」
「お前がいると荒っぽくなる」
レオンハルトがぽつりと言った。
言ってから、自分でも余計だったと思ったのか、ほんのわずかに視線を逸らした。
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