第二十五話 第五王子の秘密②
ベルは無意識に一歩引いた。
距離を取らないと、息ができない。
ただの言葉なのに、その音が妙に近かった。
知らないはずのことなのに、身体の方が先に怖がっている。
「……あなた、どこで知った?」
「だから本で」
「本だけで、そこまで言い切るの」
「言い切ってないよ。繋げてるだけ」
カシミールは軽く本を揺らした。
それから、わざとらしく肩を落とす。
「あーあ。ばれちゃった」
「ばれちゃった、って何」
「僕がこの知識を手に入れたってこと」
「それがどうして『ばれた』になるの」
「こういうの、知らないままの方が扱いやすいんだよ。知ってる側だって分かると、みんな急に警戒する」
ベルは眉をひそめる。
カシミールの笑みが戻り、そして、子どもみたいに言う。
「ばれちゃったら、僕には教えてくれないよね?」
「……教えるって何を」
「君の『真名』」
ベルの心臓が跳ねた。
『真名』
さっきまで知らない言葉だったはずなのに、その音だけが、胸の奥のどこかを叩く。
初めて聞いたはずなのに、初めてじゃないみたいに嫌な音がする。
「私にそんなものがあるって、決めつけないで」
「決めつけてない。確認してる」
「確認の仕方が雑です」
「急がないと、君、すぐ逃げるでしょ」
「逃げるに決まってる」
カシミールは言った。
「君が知らない顔をするのも、あり得る。君の母親は伝説の西の魔女だ。記憶改竄くらいできても不思議じゃない」
「母は……」
「君を守るために、ってやつかもね」
「軽く言わないで」
ベルは唇を噛んだ。
その瞬間、胸の奥がひゅっと冷えた。
思い出せない。
その可能性を言葉にされた瞬間、何かが少しだけ噛み合ってしまった。
母は、何かを隠した。ベルを守るために。
隠しただけじゃない。触れられないように、最初から遠ざけたのかもしれない。
ベルは本をカシミールから奪うように取り、頁を一つだけ読んだ。
文字が目に入った瞬間、視界が一度揺れた気がした。
——『真名』は、鍵。
——鍵は、渡すまで眠る。
短い文なのに、妙に嫌だった。
知識として書かれているのに、誰かの未来を決める呪いみたいに見える。
ベルは本を閉じ、返した。
「……もういい」
「よくない」
カシミールがすっと笑みを消す。
その消し方が、初めて見せた本気だった。
軽さを脱いだ顔は、思ったより若くなくて、思ったより怖かった。
「君が『真名』を持ってるなら、君は狙われる。誰が『ただ一人』になるかで、それで王位が決まるなら、力づくに出る人間もいる」
その言葉を消化する前に、カシミールが距離を詰める。
気づいた時にはもう遅く、ベルの両手は頭上へ押し上げられ、背中が書架へ触れていた。
乱暴ではない。けれど、逃がさないための力だと分かる程度には強い。
持っていた本が落ちる音が、やけに大きく響く。
「例えばこんな風に。ね?」
「……」
「だから僕は先に知りたい。君が誰を選ぶのか。君が誰に鍵を渡すのか」
囁くみたいな声。
近いのに、熱はない、それが余計に怖い。
ベルは冷たく言った。
「あなたは、私の『ただ一人』じゃない」
「知ってる」
カシミールは即答した。
望みがないことを承知で、なお聞いている。
諦めた人の声じゃない。
「だから、教えてくれないよね?」
「当然です」
「じゃあ誰?」
カシミールの顔がさらに近くなる。
ベルは動かなかった。
動いたら、奪われる気がした。
力で負けるとか、押し切られるとか、そういうことじゃない。
ここで一歩でも引いたら、相手の問いの中へ呑まれる。
そんな感覚があった。
「……それは、今は教えない」
ベルが言うと、カシミールの目が細くなる。
「今は、ってことは、候補はもういるってことだよね」
「……」
「ねえベル。君が決める前に、君を『決める』やつが出てくるよ」
その言葉が、刃みたいに静かに刺さった。
脅しではなく、脅しの形をした予告に近い。
ベルは息を吸い、ゆっくり吐いた。
怒りではなく、冷静さで返す。
「それでも、私は教えない」
カシミールはふっと笑った。
諦めの笑いではない、面白いものを見つけた子どもの笑い。
まだ壊していない玩具を前にしたみたいな、無邪気で嫌な笑い。
「いいね。そういうの。君ってさ、優しいけど甘くない」
「褒めてないでしょう」
「褒めてるよ。かなり」
カシミールは手を離し、本を拾うと胸に抱えた。
圧が消えた瞬間、ベルはようやく浅く息をつく。
でも、すぐには動かなかった。背中に残る緊張が、まだ抜けない。
「じゃあ、僕は僕で動く。君を守るために……って言ったら、信じる?」
「信じません」
「だよね」
カシミールは軽く手を振り、棚の影へ消えた。
足音まで軽い。
まるで重い話なんて何もしていないみたいに。
ベルはその場に立ち尽くした。
紙の匂いがまだ鼻に残っている。
古い革と、乾いたインクと、知らない知識の冷たさ。
それら全部が、さっきまでよりずっと現実味を帯びていた。
——『真名』。鍵。番。
——ただ一人。
部屋へ戻った夜、ベルは眠れなかった。
月の葉を飲んでも、頭の奥のざわつきが消えない。
自分の知らない自分が、どこかで目を覚まそうとしている。
そんな嫌な感覚だけが、胸の底に残り続ける。
ようやく、うとうとした時——
夢を見た。
森の家。
小さな暖炉。
火のはぜる音。
母の手。薬草の匂い。
幼い自分が膝を抱え、母の指先をじっと見つめている。
「いい?ベル」
母が言う。
その声は今より若く、でも今と同じくらい強い。
柔らかいのに、決して曖昧にはならない声だ。
「名前には、二種類あるの。誰にでも呼ばれる名前と——呼ばせる相手を選ぶ名前」
「えらぶ?」
「そう」
幼いベルの声はあどけない。
それに答える母の目は、優しいのにどこか遠い。
もうその先の未来まで見えている人の目。
母は微笑んで、小さな布袋をベルの手に握らせた。
その布袋は空っぽのはずなのに、なぜか重い。
中身があるんじゃない。
意味だけが先に詰まっているみたいに、持った指へ沈んだ。
「これはね。あなたがいつか選んだ人にだけ、教える名前よ」
「なんで?」
「相手も巻き込むから」
母の目が、少しだけ暗くなる。
暖炉の火が揺れて、その影が頬を細く横切る。
「教えた瞬間から、その人はベルの『ただ一人』になる。だから軽々しく口にしちゃいけない」
「……じゃあ、いまは?」
「今は、忘れなさい」
母はベルの額に指先を当てた。
温かい指。
薬草の匂い。
懐かしいはずなのに、胸の奥がひやりとする。
「忘れていい。必要な時、あなたの『ただ一人』が現れたら、必ず思い出す」
そこで夢が切れると、ベルは飛び起きた。
胸が苦しい。喉が乾いている。夢から抜けたはずなのに、まだ額に置かれた母の指先の温度が残っている気がした。
(思い出した)
名前が、口の奥にある。
形がある。音がある。
たった一度、舌の先へ転がせば出てしまう場所まで来ているのに、ベルはそれを押し戻した。
今ここで口にしたら、何かが決まってしまう。
戻れない形で、自分の人生が一つ先へ進んでしまう。
ベルは枕を抱え、目を閉じ、ゆっくり息を整えた。
その名前を誰にも渡す気はない。少なくとも、今は。
けれど胸の奥の『鍵』は、たしかに目を覚ましていた。
知らないままでいた昨日までには、もう戻れない。
ブックマーク、★★★★★、リアクション
よろしくお願いします( *・ㅅ・)*_ _))ペコ




