第二十二話 割れる合議③
空気がざわつく。
合議が、音を立てて軋む。
ベルは机の上の紙束を見つめた。
文字。線。余白。
そこに『薬草師の目』で触れられるものがある。
薬は飲めば消えるが、紙に残った癖は意外に消えない。
「見てもいいですか」
「いい」
レオンハルトが即答した。
その早さが、ベルにだけ向けられる信頼だと分かって、少しだけ胸の奥が熱くなる。
今はその熱を顔に出せない。出したら、それすら別の文脈で使われる。
ベルは紙束の一枚をそっと引き抜き、光にかざした。
喪布越しの弱い光。
それでもインクの濃淡は見える。
書いた時の迷い。筆圧。乾きの差。
夜のうちに足されたものは、朝になっても紙の上で浮く。
「……これ、昨夜の筆跡と違う」
「筆跡で分かるの?」
「筆跡じゃなくて、筆圧とインクの乾き方です」
ベルが言うと、フロリアンが目を丸くした。
ベルは紙を指で示した。視線だけでなく、指先で差をなぞる。
「ここだけ、インクが紙の繊維に沈みすぎてる。筆が止まったところに溜まりがある。急いで書いた人の癖です。昨夜の記録はもっと整ってる」
「だから何だよ。違うって言っても、誰がやったか分からないだろ」
「分かります。少なくとも『いつ』は」
ベルは首を振った。
その横で、ルーペルトが短く舌打ちする。
ベルは紙の端を軽く撫でる。インクが完全に乾ききっていない部分がある。
指先がわずかに引っかかる。乾いた紙の滑り方じゃない。
「……今朝です。たぶん、夜明け前。昨夜のうちなら、もう少し乾いてる。王宮の空気は乾燥してるから」
「夜明け前……その時間、俺は書記局で帳簿の確認をしてた。侍従が一人、書類を取りに来た」
「誰」
「……執事長補佐の者だ。名前は——」
ルーペルトがベルを見た。
そこでレオンハルトが制した。
「名前はまだ言うな。先に確認する」
「ですが、兄上」
「確認が先だ。疑いを投げた瞬間、相手は隠れる」
レオンハルトは立ち上がり、机の端に置かれた封印用の小箱を指差した。
「封蝋は?」
「草案には封蝋はしない。正式な合意書にだけ」
ルーペルトが答える。
ベルはそこに引っかかった。
封蝋を使わない。つまり、書き換え放題だ。
狙われるのは当然だし、犯人から見ればもっとも手を入れやすい段階でもある。
「紙の種類も、ここだけ違います」
「え?」
「こっちは少し黄味が強い。保管が長い紙。こっちは白い。新しい紙。書記局の紙は揃ってるはずです。差し替えてる」
「そこまで見て分かるのか」
「紙は年齢で匂いも手触りも変わります」
フロリアンが声を漏らすと、ベルは紙の端を二枚並べた。
弱い光でも、色の差は分かる。端の毛羽立ち方も違う。
古い方は繊維が寝ていて、新しい方はまだ張りがある。
ルーペルトの目が揺れた。
自分の管理の穴を突かれた目だ。
でも、それは犯人の穴でもある。
レオンハルトが低く言う。
「つまり、書き換えた者は『新しい紙』を用意できた。書記局か、執務棟の管理に触れられる人間」
「そして夜明け前に机へ近づけた」
ベルが補足する。
ジークムントが口を挟む。
「なら、書記局の者だろう。ルーペルト、お前の管轄だ」
「俺の管轄だからって、俺がやったとは限らない」
「だが最初に疑われるのはお前だ」
「分かってる」
ルーペルトが珍しく言い返した。
声が少し震えている。怒りではなく、必死さだ。
几帳面な人間ほど、自分の手元で起きた穴に弱い。
ベルはルーペルトの手元を見る。
指先が汚れていない。インクがついていない。
この男は、今朝の改竄を知らない。少なくとも直接は。
今この場で咄嗟に取り繕っている手にも見えなかった。
「ルーペルト殿下。昨夜、草案を保管した場所。鍵は?」
「書記局の金庫。鍵は俺と、執事長補佐が一本ずつ」
「補佐が動けば、開く」
「……そうなる」
ベルがそこまで言うと、ルーペルトの顔がさらに硬くなる。
疑いが、執事長側へ流れる。
でもベルは、執事長を名指ししたくなかった。今はまだ『影』でいい。
露骨にすると、相手は引っ込む。引っ込めば、次はもっと見えなくなる。
ベルは別の線を拾う。
「インクは同じですか」
「同じに見えるが」
「匂いが違います」
ベルが言って、紙の端に鼻を近づける。
インクの匂い。鉄と酸。
でも改竄部分は少し甘い。香料が混じっている。
書記局の普通のインクにはない甘さだ。
「香りをつけた手で書いてる。香油か、香料庫まわりの匂いです」
「また香料庫か」
「少なくとも、そこで使うものに触れた人です。紙も新しい。鍵も動く。匂いも残る。雑ですけど、線はつながってます」
ベルは紙をそっと机へ戻した。
相手は急いでいる。だから雑になる。
雑になったところから、今ならまだ追える。
「このインク、書記局のじゃない。香料が混ぜられてる。……手紙用のインクです」
「インクに香料?なんだそれ」
「王宮では、手紙に香りをつける習慣があるでしょう。恋文じゃなくても。格式のある家ほど、香りまで含めて整える」
ルーペルトが眉をひそめる。
ベルは言い、そして気づく。
香料庫。
偽蜜蝋とも繋がる。
同じ棚に手が届く者。
封蝋、香油、香りつきの手紙用インク。
必要なものが、ずっと同じ場所に揃いすぎている。
影が、ずっと同じところに落ちている。
レオンハルトも同じ結論に至ったのか、声が少し低くなった。
「ルーペルト。今すぐ、夜明け前に書記局へ来た補佐を呼べ。俺が直接訊く」
「……わかった」
ルーペルトが立ち上がりかけた瞬間、ベルはレオンハルトの袖を軽く引いた。
布手袋越しに、彼が一瞬だけこちらを見る。
それだけで、今はベルの続きを待つと分かった。
ベルは小さな声で言う。
「殿下。ここで補佐を呼ぶと、犯人側が動きます。先に『罠』を張った方がいい」
「……どうする」
レオンハルトが同じ小さな声で返す。
その返しが、もう共犯めいている。
ベルが一を見つけ、レオンハルトが十へ伸ばす。その流れが、いつの間にか出来ていた。
ベルは机の上の紙束を指で押さえた。
「草案は一度、わざと戻します。『改竄がバレてない』と思わせる」
「危険だ」
「危険だから釣れます。釣れたら、誰が触れるか見える」
「一度で釣れなければ」
「二度目があると思わせればいいです。相手はもう、紙で揺らせると味をしめてる」
レオンハルトが一拍だけ迷い、頷いた。
「やる」
その即断が、ベルの胸の奥をもう一度熱くした。
この人は、信じると決めたら早い。
疑う時は深いのに、預けると決めた後は躊躇わない。その速さが怖くて、同時に頼もしい。
「あと、私を外す文言は残しておいてください」
「……なぜ」
「犯人が喜ぶから。油断します。『ベルを削れば効く』って、そう思わせた方が次を誘えます」
レオンハルトの目が細くなる。
そして、ほんのわずかに笑いかけて、すぐに消す。
「過保護だと言ったな」
「今それ言います?」
「弟たちに対しては理由がある」
レオンハルトは淡々と続け、ベルを見た。
「……お前に対しては、説明できない」
「……」
ベルは返せなかった。
返したら、場が壊れる。
この場はまだ、感情で揺らしていい場所じゃない。
だから、仕事に戻る。
「なら、説明できないまま、私を囮にしてください」
「囮?おい、何の話だ」
「話は後だ」
ベルが言うと、ルーペルトが眉を上げ、フロリアンも何か言いかける。
けれどレオンハルトが切り、全員に向けて言う。
「草案の改竄は『未確定』とする。今は騒ぐな。誰がやったか決めつけるな。特に、ルーペルトを犯人扱いするな」
「でも兄上——」
フロリアンが言いかける。
「黙って従え」
レオンハルトの声は低い。
ルーペルトでさえ、口を閉じた。
ジークムントも何も言わない。ただ、その沈黙ごと計算しているような顔をしていた。
会合は形だけ解散になり、王子たちはそれぞれ散った。
ルーペルトは最後まで机の上の紙束を見つめていた。自分の居場所が揺らいでいる目。
几帳面に守ってきた自分の領分が、今は疑いの入口になってしまっている。その顔に、ベルは少しだけ胸が痛んだ。
「ルーペルト殿下」
ルーペルトが顔を上げる。
いつもより、ほんの少しだけ年下に見えた。
「あなたがやったんじゃない。だから、あなたは折れないでください」
「……ベル。俺は、疑われるのに慣れてる。だが、兄弟に疑われるのは……」
「慣れなくていいです。慣れたら、終わる」
「終わる?」
「自分で自分を、犯人かもしれない側に置くようになるからです」
ベルが言うと、ルーペルトは短く息を吐いた。
否定でも肯定でもない息だった。
でも、その肩から少しだけ力が抜けたのは分かった。
「……お前、時々、優しいのか残酷なのか分からないな」
「両方だと思います」
「そうか」
それが少しだけ救いに見えた。
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