第二十一話 割れる合議②
冗談みたいな口調。
でも、今この場に必要なのは、逃げ道のない形式だった。
言葉だけで応酬していると、空気の強い方が勝ってしまう。だから一度、見える形へ落とす。
カシミールはふざけているようで、時々いちばん残酷な近道を選ぶ。
レオンハルトが「やめろ」と言う前に、ヨアヒムが静かに言った。
「やるべきだ」
「ヨアヒム?」
フロリアンが驚く。
ヨアヒムは淡々と続けた。
「一度、言葉を形にしないと、空気に殺される。賛否を出すことで、空気の刃が鈍る」
「……空気の刃、ね」
「今のままでは、誰も本音を言えません」
ベルは思った。
聖職者の子の言葉だ。正しさを形式に落とす人の言葉。
見えないものほど、まず形にしなければ裁けないと知っている人の言葉。
カシミールが笑う。
「決まり。じゃ、挙げて」
ジークムントが先に手を挙げた。
迷いがない。自分の論理の中で、もう答えは決まっている人の手。
ヨアヒムが、ゆっくり手を挙げる。
驚きが走る。だが、彼の顔は静かだ。
『廃止が正しい』ではなく、『今の王宮では割れる』と判断した顔。
理想ではなく、現状への絶望を選んだ顔。
ルーペルトも、逡巡の末に手を挙げた。
書記局の改竄を経験した男は、『制度の穴』の怖さを知っている。
一枚の紙、一つの印、一つの鍵で全部が歪む現実を、誰よりも近くで見た人間の手。
フロリアンは挙げない。
コンスタンティンも挙げない。小さな拳を膝の上で握りしめる。
その拳は、恐怖に耐えるみたいに固かった。
レオンハルトも挙げない。
ただし、その目は冷たく冴えていた。
怒りでも焦りでもなく、計算している目。
そしてベルは、挙げなかった。
自分が挙げたら、自分の存在を自分で否定することになる。
王の血も、魔女の血も、『真名』も、例外も、全部いらないと言う側に、自分が立つことになる。
それは違うと思った。違うとしか、まだ言えなかった。
カシミールは手を挙げず、笑った。
「三対三。僕は棄権。ベルも棄権、でいいのかな?——つまり、今日ここでは決められないね」
「……」
会議室がざわつく。
『決められない』という結果が、最悪のようで、でも必要なクッションにもなった。
今ここでどちらかが押し切れば、押し切られた側の遺恨だけが残る。そうならなかったことに、ベルは密かに息をつく。
ジークムントが静かに言った。
「見ただろう。割れる。これがあと十三日続く。合議は成立しない。王政は廃止になる。——それが一番合理的だ」
「合理的、って……それでいいの?」
「いい」
フロリアンが震える声で言うと、ジークムントは即答した。
「少なくとも、誰かが死ぬよりは」
「……」
ベルは喉が詰まった。
この瞬間、ジークムントは『被害者』であり『救世主』に見える。
耳を失いかけた人間が、争いを終わらせるために制度そのものを手放そうとしている。
そう見えるから、強い。
そう見えるからこそ、危うい。
レオンハルトが立ち上がった。
「今日はここまでだ」
「逃げるのか」
「逃げない」
レオンハルトは淡々と言い切った。
「割れるなら、割れない仕組みを作る。——それが俺たちの合議だ」
「仕組み?」
「監査と記録と、相互の拘束だ。王を決める前に、王を縛る仕組みを決める」
「……」
ジークムントが黙る。
完全に封じられたわけではない。だが、次の議題を先に置かれたことで、一歩だけ押し返されたのは確かだった。
ベルは胸の奥で息を整えた。
今日、ジークムントの理屈は一度通った。
それが必要だった。
一度きちんと通ったものの方が、次に崩す時も納得が生まれる。
なかったことにするより、受け止めた上でひっくり返す方が強い。
会議室を出る直前、ジークムントがベルにだけ聞こえるくらいの声で言った。
「ベル。君は優しい。だから君は、最後に一番痛い選択をする」
「……」
「君は、守るためなら自分が嫌われる方を選べる」
ベルは答えなかった。
答えないまま、前を向いた。
痛い選択を、痛いままやるために。
誰かの犠牲を『仕方ない』で流さないために。
ベルは『仕組み』を作らなければならない。
人が善人か悪人かに賭けなくても、壊れにくい形を。そうしなければ、きっとまた燃える。
ベルが医師から報告を受けたのは、喪布越しの弱い光の中。
朝だというのに部屋は薄暗く、夜の続きをそのまま引きずっているみたいだった。
王宮の朝は、何かが終わるより先に、何かが決まってしまう。
「……左耳の聴力が、完全には戻っておりません」
「どれくらい」
「高い音域が特に。耳鳴りも残る見込みです」
医師の声は抑えられていた。
抑えられているぶん、その内容だけがはっきり耳に残る。
ベルは一瞬だけ目を閉じた。
間に合わせた。それでも残った。
あの夜、すぐに動いた。処置も遅らせなかった。できることはした。
それでも残る時は残る。
突発は残ることがある。残るからこそ怖い。
その日の会合で、ジークムントは何事もなかったように座っていた。
背筋は伸び、顔色も整えられている。声も滑らかで、表面だけ見れば昨夜の異変などなかったみたいに。
だが、聞こえる側の耳を無意識に相手へ向ける癖が出ていた。
視線の前に、耳が先に向く。
その小さな傾きが、一度気づくとひどく目につく。
そして、その癖にいちばん早く気づいたのは——ジークムント自身だった。
ベルが視線を上げると、ジークムントがこちらを見ていた。
冷たい目。
感謝ではない。
借りの目でもない。『恨み』の目。
ベルは理解した。
助けたから終わりではない。
助けたから、始まる。
弱みを見られた相手にとって、救われた事実そのものが新しい火種になることがある。
秘喪の一か月は、また一つ、形を変えて転がり始めた。
会議室の机の上に置かれた紙束は、昨夜よりも厚く見えた。
厚いのは紙のせいではない。そこに積もった疑いのせいだ。
誰かが何かを足し、誰かが何かを隠し、そうして紙はいつも実際より重くなる。
「——合議書の草案だ」
レオンハルトが言った。
布手袋のまま、束を二度、指先で叩く。
その仕草に無駄はない。だが静かな苛立ちだけは隠れていなかった。
秘喪の一か月。
八人で次の王を決めるために、話し合いの内容を文書にまとめ、全員が同意したものに署名して封をする。
言葉を記録に落とし、後から捻じ曲げられないようにする。
そのための草案。
それが、崩れた。
「昨夜、俺が確認した時はこうだった。今朝、確認したら変わっていた」
紙の端に、線が引かれている。
細い線。だが、その線の先にある文言は、細くない。
——「ベルは合議に加わる資格を欠く」
——「ベルの書簡は真偽不明のため、再検証まで隔離とする」
ベルは目を細めた。
やり口が雑になってきた。
偽蜜蝋の件で失敗した。火事未遂も未遂に終わった。
次は言葉で崩す。
手が届きやすくて、しかも人が疑い合うやつ。
刃物より安く、毒より痕が残りにくい方法。
「……誰が書いたんだよ、これ」
ルーペルトが机を叩いた。
怒りの矛先は紙に向いている。昨日の厨房よりはずっとましだ。
少なくとも、今は人ではなく証拠に拳が向いている。
フロリアンは顔を青くしてベルを見る。
「ベルを外すって……そんな、父上の書簡には——」
「書簡が本物だと決まったわけじゃない」
ジークムントが淡々と言った。
片耳をわずかに相手へ向ける癖が、もう隠せていない。
それでも声は滑らかく、弱った気配を見せないよう、丁寧に整えられている。
その整え方が、かえって昨夜の後遺を感じさせた。
「……昨夜の草案は、誰が保管していた?」
レオンハルトの視線が滑る。
最後に触れた者を探す目、人ではなく、順番を追う目だった。
そこで、ルーペルトが口を開いた。
「俺だ」
低い声。硬い声。
ルーペルト。書記局と帳簿の管理を任されている男。
真面目で、几帳面で、だからこそ今、顔色が悪い。
几帳面な人間ほど、自分の手元で起きた改竄に弱い。
「合議の記録は俺が保管してる。封はしていない。草案だから、修正が入る前提だった。……でも、俺はこの文言を加えていない」
「じゃあ誰が加えた。お前の机の上で勝手に生えたのか」
「……俺を疑うのは当然だ。だが、やってない」
「やってない、で済むか」
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