第二話 王宮の門
王都ヴァルディアに着いたのは、出発から三日目の午後。
母の言った通り、宿場町を二つ越え、街道を北へまっすぐ歩いていけば、迷うことはなかった。
道は広く、荷馬車の轍が幾重にも刻まれていて、人の流れも絶えない。
こんなに大きな道を、ベルはこれまで見たことがなかった。
途中、幌馬車の御者が声をかけてくれて、半日ほど乗せてもらえたのも大きかった。
御者は人のいい中年の男で、日に焼けた手綱さばきは手慣れていて、馬もおとなしかった。
ベルが「王都へ行く」と言うと、「珍しい娘さんだ」と目を丸くし、それでもそれ以上は詮索せず、王宮周辺の道を詳しく教えてくれた。
西門から入った方が人混みが少ないこと。王宮へ近づくほど検問が厳しくなること。
夕方前なら衛兵の交代に重ならないこと。
そんな話を、馬車の揺れに合わせるみたいに、ぽつぽつと聞かせてくれた。
王都は、ベルが想像していたより、遥かに大きかった。
森の端の小さな村しか知らないベルには、石畳の大通りも、軒を連ねる商店も、途切れなく行き交う人の群れも、すべてが圧倒的。
焼きたてのパンの匂い。干した香草の青い香り。馬の汗の匂い。荷車のきしむ音。物売りの張り上げる声。子どもの笑い声。どこかで鳴る鐘の音。
あらゆるものが一度に押し寄せてきて、頭の中が飽和しそうになる。
足を止めれば、そのまま人波に飲まれてしまいそうで、ベルは息を浅くしたまま歩き続けた。
それでも、方向感覚だけは失わなかった。
王宮は北の丘の上にある。どこにいても見える。
灰白の石で築かれた巨大な建物は、街のどこからでも空を背負ってそびえていて、まるで町そのものを見下ろしているようだった。見失いようがない。見失えるはずもない。
ベルは懐の封筒を押さえた。
薄い紙の感触はたしかなのに、胸の内では別の何かが脈を打っている気がした。
足が震える。怖かったわけではない。逃げ出したいとも思わない。
ただ、自分の知らないところで何か大きなものが動いていて、その流れの中へ今まさに踏み込もうとしている。そんな抗いようのない感覚。
——行かなきゃ。
小さく息を吐いて、ベルはまた歩き出す。
王宮の正門は、想像していたよりもずっと威圧的だった。
高さ十メートルはあろうかという鉄の門扉。人一人どころか、馬車ごと呑み込めそうな重々しさ。
両脇に並ぶ衛兵は完全武装で、鎧の継ぎ目一つまで隙がない。
槍の穂先が午後の日差しを鋭く反射し、近づくだけで肌を刺されるような気がした。
門の上には、王家の紋章が刻まれた石板が掲げられている。
その紋章を見た瞬間、ベルは息を呑む。
封筒の封蝋と、同じ紋章。
やっぱり。
母は、嘘をついていなかった。
「止まれ!」
近づいた途端、衛兵の一人が声を張り上げた。
空気がぴんと張る。
槍が横向きに構えられ、ベルの行く手をぴたりと遮った。
「何者だ。今日は一般人の入場は禁止されている」
「分かっています」
ベルは努めて落ち着いた声で答えた。
喉が少しだけ乾いていたけれど、声は震えなかった。
「ただ、届けなければならないものがあって」
「何を届けるんだ」
「執事長に直接お渡しするよう言われています。これを」
懐から封筒を取り出す。
白い封筒は旅の間ずっと守ってきたせいで少しだけ温んでいて、そのぬくもりが妙に心細かった。
衛兵たちが目を細める。
もう一人の衛兵が一歩近づき、封筒を見た瞬間、表情を変えた。
「……これは」
「ご存知ですか?」
「少し待て」
低く言い捨てると、衛兵は仲間に何かを耳打ちした。
片方がすぐに踵を返し、小走りで内側へ消えていく。
ベルは残った衛兵と無言で向き合った。
門の前を渡る風が、旅で少し硬くなった髪を揺らす。
緊張はあった。でも、逃げようとは思わなかった。
母がここへ行けと言った。それだけで十分。
理由はまだ分からない。分からないままでも、行くしかない。
たぶん、最初からそう決まっていた。
五分ほど待つと、内側から人が来た。
衛兵ではない。黒い燕尾服に白い手袋をした、齢六十過ぎとおぼしき男性。
白髪は一本の乱れもなく撫でつけられ、背筋はまっすぐ伸びている。
眼鏡の奥の瞳は鋭かったが、その奥には、長いあいだ眠れていない人のような深い疲労も滲んでいた。
ただ立っているだけなのに、周囲の空気がすっと静まる。
この人は、ただの使用人ではない。ベルはそう思った。
男性はまずベルを見た。次に、封筒を見た。
その順番が、妙に印象に残った。
「……見せなさい」
静かな声だった。
命令の形をしているのに、怒鳴るでも威圧するでもない。
ただ従わせるだけの重みがある。
ベルは黙って封筒を差し出した。
男性は白い手袋をはめたまま封筒を受け取り、封蝋を確認した。
その瞬間、わずかに表情が動く。
驚きとも、安堵とも取れる複雑な変化。
けれど、それだけではない。
懐かしさのようなものまで一瞬よぎった気がして、ベルは思わず相手の顔を見上げた。
「封は開けていないのですね」
「はい」
「あなたの名前は?」
「ベル、です」
「……ベル」
男性は小さく繰り返した。
その二文字を確かめるように、何かを噛みしめるように。
「お母上は?」
「昨日からいなくなりました。王宮へ行けと言われて、これを渡されました」
「そう、ですか」
ごく短い返答だったのに、その声はかすかに沈んだ。
男性はしばらく黙り込んだ。何かを考えているようだった。
衛兵たちはベルと男性を交互に見ていたが、誰も口を挟まない。
さっきまで門前を満たしていた威圧感が、今は別の種類の緊張に変わっていた。
やがて、男性は静かに息をついた。
「……分かりました」
顔を上げたその人の表情は、もう整っていた。
迷いも動揺も、ひとまず胸の奥へ押し戻した顔。
「私はこの王宮の執事長ヨハン・フォン・リッテンベルクです。お付き合いください、ベル様」
「様?」
「入りなさい」
そう言って、ヨハンは衛兵に目配せした。
すぐに鉄の門扉が内側から重々しく開かれる。
軋む音は低く、まるでここから先は別の世界だと告げているみたい。
ベルは一つ深呼吸をした。
そして、もう振り返らずに、王宮の門をくぐる。
王宮の中は、外の喧騒とは別世界。
広い石畳の中庭。刈り込まれた庭木。左右対称に整えられた花壇。
噴水の水が静かに流れる音だけが、やけに澄んで聞こえる。
門の外ではあれほど人と音が溢れていたのに、ここでは足音まで磨かれているみたいだった。
それでも人の気配がないわけではない。
何人もの侍女や従者が足早に行き交い、誰もが口を閉ざしたまま、自分の役目だけを抱えて動いている。
執事長の後を追いながら、ベルは必死に周囲を観察した。
こんな場所へ来ることは、たぶん一生ないと思っていた。
だからこそ、見えるものすべてが現実味を持たない。
廊下の壁には肖像画が並ぶ。
威厳ある顔をした歴代の王。
豪奢な額縁に収められたその姿は、ただ飾られているのではなく、この王宮そのものを見張っているように見える。
その最新のものと思われる肖像画の前を通ったとき、ベルは思わず足を止めた。
それは、一人の男性の絵。
五十代くらいだろうか。黒髪には灰色が混じり、顔には深い皺が刻まれている。
優しげというより、厳しさを知った人の顔。
けれど、その目は——灰色がかった、緑の瞳。
ベルは自分の目を思い浮かべた。
鏡を見るたびに、母と同じだと思っていた目。
森の暮らしには似つかわしくない色だと、子どものころ村の大人に言われたこともある。
それでも母は、きれいな色だとしか言わなかった。
——同じ。
喉の奥が、ひゅっと細くなる。
呼び止められなければ、ベルはもう少しその絵を見上げていたかもしれない。
「ベル様」
執事長の声に、はっとして足を動かした。
連れてこられたのは、王宮の奥まった場所にある、重厚な両開きの扉の前。
扉には王家の紋章が深く彫られており、両脇には衛兵が二人、微動だにせず立っている。
ここまでの廊下にも警備の気配はあったが、この扉の前だけは空気の張りつめ方が違った。
「少々お待ちください」
執事長は扉の前で立ち止まり、静かにベルへ向き直った。
その瞳は真剣で、けれどただ厳しいだけではない。
どこかに、申し訳なさのようなものまで滲んでいた。
「これからお入りいただく部屋には、すでに王子殿下方がお集まりです。お覚悟のほどを」
「王子が……」
「はい」
短い返答だった。
それだけで、ここがもう引き返せる場所ではないと分かる。
「それと、ベル様」
執事長は手元の封筒を取り出し、ベルへ戻した。
「これは、お自身でお持ちください。中でお開けになることになります」
「……私が?」
「ええ。そうあるべきだと判断しました」
その言い方は曖昧だったが、逆にごまかしではない気もした。
ベルは封筒を受け取る。
思ったより重かった。紙の重さではない。
中に入っている言葉の重さだ。
まだ読んでもいないのに、手のひらに沈んでくるような気がする。
知らないままではいられない。
でも、知ってしまえば、もう昨日までの自分には戻れないのかもしれなかった。
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