第十九話 第三王子の秘密①
ベルは続ける。
「殿下。今すぐ治療を始めないと、戻りにくくなります」
「脅しか」
「事実です」
「どれくらい急ぐ」
「今です。今夜のうちに」
「……」
ジークムントの顎がわずかに固くなる。
認めたくない。でも、無視もできない。そういう沈黙だった。
ベルは声を落とした。
「聞こえにくいだけで済むとは限りません。早く手を打つ方がいいです。今なら、まだ戻せる可能性がある」
「可能性、か」
「はい。だから急ぎます」
ベルは淡々と言った。
淡々と言うしかない。感情で説得する相手ではないからだ。
相手が冷たくなるほど、こちらは熱を引かせなければならない。そうしないと、この場では言葉が負ける。
レオンハルトはそのやり取りを黙って聞いていたが、ここで短く命じる。
「医師、必要な処置をすぐ始めろ。記録も残せ。ベル、お前も残れ」
「はい」
「医師は何と言っている」
「耳の炎症か、疲労かと」
宮廷医師が答えた。
言い方が曖昧だ。
断定を避け、責任も避ける言い方だった。
いちばん危ない時に、いちばん役に立たない種類の慎重さ。
ベルは医師を見る。
「『突発性難聴』の可能性は?」
「それは……」
医師が言い淀む。
その瞬間、ジークムントが冷たく言った。
「ベル。お前の『薬草師の勘』で騒ぎを大きくするな」
「勘じゃない。症状です」
「症状で政治は止まらない」
「止めるのは政治じゃなくて、悪化です」
ベルは息を吸った。
ここで引いたら、彼はこのまま悪化する。
悪化すれば、彼はそれすら武器にするかもしれない。
聞こえないままでも平然と座り、合議の場で自分を削る。そういう人に見えた。
それが最悪だ。
ベルは一歩だけ近づいた。
詰め寄るのではなく、逃がさない距離まで。
「政治が止まらなくても、殿下の耳は止まります」
「……」
ジークムントの目が細くなる。
怒りではない。刺された目だった。
一番触れられたくない場所を、正確に突かれた人の目だ。
ベルは続けた。
「殿下が今、聞こえない側の席に誰かが座ったら——あなたは会話の半分を落とします。聞き返すか、聞こえたふりをするか、その二つしかなくなる」
「……」
「どちらを選んでも、合議では不利です。判断が遅れる。反応がずれる。合議をする資格が削れます。だからこそ、今治療です」
ジークムントの喉が動いた。
言い返したいのに、言い返せない。
事実だからだ。
そして、彼自身ももう気づいているのだろう。左から入る音が薄く、世界の片側がぼやけていることに。
レオンハルトが低く命じた。
「ジークムント。治療を受けろ。これは命令だ」
「兄上」
「命令だ」
短い。
王子の命令。
逃げ道を塞ぐための、最短の言葉だった。
ジークムントは一拍だけ固まり、次に薄く笑った。
「……命令で治るなら苦労はない」
「命令で『治療を開始させる』」
レオンハルトは淡々と言い返す。
その淡々が、強い。
感情で押していないから、押し返せない強さだ。
ベルは医師へ向き直った。
「今すぐできることを。まず安静。音を遮断。次に、急性期の治療を開始してください。できないなら、できる者を呼んで」
「……承知しました」
医師が頭を下げる。
ベルはさらに付け足した。
「耳の血流を落とさない。冷やしすぎない。余計な刺激は避ける。薬はすぐ。できれば今夜のうちに投与を始めて」
「分かっております」
医師は言ったが、目が泳ぐ。
ベルは内心で舌打ちした。
王宮の医師は『責任』を避ける。失敗した時に首が飛ぶからだ。
だから判断が遅れる。遅れてから、誰にも責任がない顔をする。
ジークムントが低い声で言う。
「ベル。お前は、そんなふうに命令する立場じゃない」
「命令してません。治療の手順を言ってるだけです」
「同じだ」
「違います。命令は責任を伴う。私は責任を取ります。耳が戻らなければ、私は恨まれていい」
ベルは言い切った。
言い切った瞬間、自分の声が少し震えたことに気づく。
怖いのは、ジークムントではない。
『間に合わない』ことだ。
ここで見誤って、あとから『あの時すぐ動けば』になることの方が、ずっと怖い。
ジークムントは一瞬だけ、言葉を失った。
そして、冷たく視線を逸らす。
「……好きにしろ」
負けた時の言い方だ。
負けを認めない負け方。
だが、拒み続けるほどの余力はもうない。そういう響きでもあった。
レオンハルトが医師に命じる。
「必要な薬と処置を。今日の会合は延期。ジークムントは安静。異論は認めない」
「兄上」
ジークムントが言いかける。
レオンハルトは遮った。
「耳を失うな。失ったら、取り返しがつかない。政治は取り返せる」
「……」
ジークムントの顎が固くなる。
屈辱だ。彼にとっては。
優先順位を他人に決められること自体が、もう屈辱なのだとベルにも分かった。
ベルはソファの横の小机に湯を用意させ、月の葉ではなく、刺激の少ない鎮静の茶葉を取り出した。
匂いを確かめる。香りは柔らかい。眠りを助けるが、頭は鈍らせない。
今のジークムントに必要なのは、意識を落とすことではなく、神経の張りを少しだけ緩めることだった。
「殿下。飲めますか」
「……要らない」
ジークムントが拒む。
ベルは頷いた。
「要る要らないじゃなくて、飲め」
「言い方が変わったな」
「早く効かせたいので」
「随分と強気だ」
「間に合わないよりいいです」
ベルが水差しを差し出すと、ジークムントは渋々受け取った。
指先が少しだけ震えている。
怒りか、耳鳴りの不快か、どちらもだろう。
それでも受け取った。
その事実だけで、今夜はまだ間に合うかもしれないと、ベルは思った。
医師が薬を用意し始めた。
瓶の蓋が開く音。紙が擦れる音。水差しが小机の上でかすかに鳴る音。
その一つ一つの小さな音すら、今のジークムントには刺さっているかもしれない。
ベルはそっと言った。
「音、辛いなら布を」
「……黙れ」
ジークムントの声は鋭い。
でも、怒りの鋭さではない。
弱みを見せたくない鋭さだ。
聞こえないことも、辛いことも、全部『少し』で済ませたい人の声だった。
ベルは黙った。
黙って、カーテンを少しだけ閉め、部屋の音を減らした。
人の声は低く。足音は消す。水の音も控える。
椅子を引く音さえ立てないよう、侍従へ手で合図する。
薬草師ができる最初の治療は、環境だ。
薬の前に、神経をこれ以上逆撫でしない空間を作ること。それだけで救われる身体もある。
レオンハルトがベルの横へ来た。
二人きりの声で言う。
「……間に合うか」
「間に合わせます」
ベルは即答した。
即答したが、胸の奥は冷たい。
突発は、間に合っても残ることがある。
戻る人もいる。戻りきらない人もいる。
それを口にするのは、まだ早い。
今ここで必要なのは可能性の話ではなく、手を止めないことだ。
レオンハルトの目がわずかに細くなる。
「残る可能性は」
「……あります」
ベルは正直に言った。
誤魔化しても、この人には意味がない。
レオンハルトが一瞬だけ目を閉じ、すぐに開く。
その一瞬に、兄としての感情を押し込めたのだとベルにも分かった。
「ジークムントに言うな」
「言いません。今は治療の邪魔になる」
「そうだ」
レオンハルトが頷いた。
そして、ジークムントへ向き直る。
「ジークムント。今日は終わりだ。眠れ」
「眠れるか」
「眠れ」
命令の形。
でもそれは、兄の祈りに近かった。
眠ってしまえば少しは楽になるかもしれないと、言葉にできないまま押しつける声だった。
ジークムントは返事をしなかった。
ただ、聞こえる側の耳をレオンハルトへ向けるように、顔をわずかに傾けた。
それが屈辱であり、現実の証拠でもある。
片側へ世界を寄せないと、人の声が届かない。その事実だけで、この人には十分屈辱なのだろう。
ベルはその仕草を見て、胸の奥が痛んだ。
ジークムントは、この屈辱を忘れない。
忘れないから、強くなる。
強くなる方向が、よいとは限らない。
今日の痛みを、いつか冷たい刃に変える人かもしれない、とベルは思った。
処置が始まり、時間が流れる。
ベルは医師の手元を見ながら、必要な指示だけを短く挟んだ。
過剰に口を出さない。
でも外さない。
薬の量。水の温度。灯りの位置。横にならせる角度。
小さなことばかりなのに、小さなことほど今は外せなかった。
夜が更け、ジークムントの顔色が少し落ち着いた頃、レオンハルトがベルへ目配せした。
部屋を出る合図だ。
廊下へ出た瞬間、ベルはようやく息を吐いた。
石壁の冷たさが、背中へ貼りつく。
部屋の中で張りつめていたものが、外へ出た途端にどっと重くなる。
レオンハルトが低い声で言う。
「……よくやった」
「仕事です」
「仕事でも、助かった」
ベルは返事をしなかった。
返事をすると、心が揺れる。
助かった、と言われると、少しだけ救われた気になるから危ない。
レオンハルトは続ける。
「ジークムントは、これを武器にする」
「ええ」
「弱みとして隠すだけじゃない。使える形に変える」
「そう思います」
「だから、お前は狙われる」
「分かってます」
ベルは頷いた。
分かっている。
分かっていても、止められない。
見た以上、嗅いだ以上、分かったことを言わずにはいられない。
それが面倒の種だとしても、今さら変えられなかった。
ベルが廊下の角を曲がろうとした時、背後からジークムントの声が聞こえた気がした。
幻聴ではない。
彼の声は、まだ耳の奥に残っている。
——好きにしろ。
好きにする。
あの言い方は、引いたようでいて引いていない。
受け入れたようでいて、受け入れた借りを忘れない声だ。
その言葉を、ジークムントはいつか別の形で返してくる。
恩か、刃か、それはまだ分からない。
分からないまま、ベルは冷えた廊下を歩き出した。
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