第十八話 第四王子の秘密②
レオンハルトの視線がベルへ移る。
一瞬だけ、目の奥が柔らかい。すぐ消える。今は仕事の目だ。
だが、その一瞬で、ベルが前へ出たことをちゃんと見ていたのだと分かる。
「ベル。原因は?」
「油に揮発性のものが混ぜられてます。厨房の酒や酢じゃない匂い。火の足を速くするものです」
「誰が触れられる」
「厨房の者だけではないです。夜の見回り、倉庫、運搬係——」
言いかけて、ベルは止めた。
ここで言い切ると、また冤罪が生まれる。
今必要なのは、犯人探しの勢いじゃない。現場の封鎖と証拠の確保だ。
レオンハルトは、その止まり方の意味まで理解したように即座に命じる。
「厨房を封鎖。出入り記録を押さえる。油と燃料の搬入も止めろ。今日の厨房作業は最小限に。現場に触れた者の名も全部控えろ」
「かしこまりました」
執事長の声が、どこかから聞こえた。
ベルは反射的に視線を動かす。
執事長は人垣の端に立っていた。主張はしない。だが、必要な時に必ずそこにいる。
火の中へ飛び込む人ではない。けれど、火事のあとに盤面を整えるのは、きっとこういう人だ。
ベルはもう一度、床の匂いを吸った。
油。焦げ。揮発。
そしてその全部の下に、誰かの意図がある。
今夜の王宮は、まだ終わっていない。
火は消えかけているのに、別の何かが静かに広がっている。
ルーペルトが低く言う。
「火事未遂で、何がしたい」
「秘喪の王宮を揺らすためだ。混乱が起きれば合議が割れる。割れれば、誰かが得をする」
レオンハルトは淡々と言った。
その声に余計な感情はない。だが、だからこそ重い。
ルーペルトの拳が、ぎり、と握りしめられる。
「鎮火を遅らせた者を、周りはどう見ると思う」
「……俺が得をすると思われる」
「今の状況を見るとそうなるな」
「ふざけるな」
「だからこそ、お前は自分で自分を証明しろ」
レオンハルトはルーペルトをまっすぐ見据えた。
「お前は『暴れない』。暴れた瞬間、お前が犯人になる」
「っ……」
ルーペルトの喉が鳴った。
怒りがある。悔しさもある。
でも今、彼の目には理解もあった。
分かっているのだ。さっき少年に向けかけた拳を、誰かに見られていたら、それだけでどれだけ都合よく使われるかを。
「……じゃあ、どうすればいい」
「怒りを俺に預けろ」
レオンハルトの声は低い。
兄の声だった。
命令より先に、引き受ける声だ。
「お前は剣を抜くな。代わりに、現場を守れ。人を守れ。怒りは、必要な方向へ向ける」
「必要な方向って、どこだ」
「証拠と、犯人だ。思いつきで殴る相手じゃない」
ルーペルトは一瞬、言葉を失った。
そこで初めて、自分がいま何をしかけていたのか、はっきり見えたような顔になる。
そして、短く頷いた。
「……分かった」
「今だけじゃない」
「分かったって言ってるだろ」
吐き捨てるように言いながらも、ルーペルトは一歩引いた。
それだけで、さっきよりずっとましだった。
火より先に人へ向かっていた目が、ようやく現場へ戻ってくる。
ベルは息を吐いた。
火は消えた。だが、火種は残った。
床に撒かれた油も、厨房に残る焦げ臭さも、そして兄弟の中へ投げ込まれた疑いも、まだ何も片づいていない。
レオンハルトがベルへ視線を向ける。
「ベル。お前は部屋へ戻れ」
「え」
「今夜は動くな。火事の次は、人が動く。お前が動けば、また狙われる」
「でも、現場は——」
「執事長が押さえる。お前はもう十分働いた」
「十分かは、私が決めます」
「今は俺が決める」
短い応酬だった。
ベルは言い返しかけて、やめた。
コンスタンティンの偽封蝋。
今夜の火事。
どちらも『揺らす』ための手口だ。
なら次に狙われるのは、匂いを嗅ぎ分け、違和感を言葉にできる自分かもしれない。
「……はい」
ベルが頷くと、ルーペルトがベルを見た。
苛立ちではない。少しだけ、感謝に似た顔。
「さっきは……」
言いかけて、言葉を探している。
謝るのも礼を言うのも、たぶん得意じゃないのだろう。
ベルは淡々と言った。
「拳を向ける相手を、間違えないでください」
「……分かってる」
「なら次は、最初から止まってください」
「お前、いちいち刺すな」
「刺さるうちは大丈夫です」
ルーペルトが短く返し、視線を逸らした。
照れの逃げ方だ。乱暴だけど、子どもみたいだ。
さっきまでの剥き出しの怒りとは、もう少し違う。
ベルが厨房を出ようとした瞬間、遠くの廊下で甲高い音がした。
何かが落ちた音。
次いで、かすれた叫び声。
「——殿下!どうしたんですか、殿下!」
ベルの足が止まる。
レオンハルトも止まる。
ルーペルトが眉をひそめた。
「今度は何だ」
廊下の空気が、変わった。
厨房の煙と灰の匂いがまだ残っているのに、その匂いが急に遠のく。代わりに、冷たい汗の匂いが近づいてくる。
走ってきた侍女は顔が真っ青で、息が上がっていた。喉が張りつき、言葉だけが先に飛び出しているみたいだった。
「ジークムント殿下が……急に、耳が……!片方だけ聞こえないと……!」
「耳鳴りもすると……耳の奥が詰まったようだと……!」
レオンハルトの目が細くなる。
「……突発性、か」
ベルは胸の奥で小さく息を呑み、呟く。
火も毒も、分かりやすい敵だ。
目に見えるし、匂いもある。触れれば何かが分かる。
でも身体の限界は違う。敵に見えない分、ずっとやっかいだ。
しかも本人が平気な顔をしてしまうなら、なおさら。
「殿下」
ベルが言うより早く、レオンハルトが動いた。
廊下を走る。走ってはいけない王宮で、ためらいなく走る速度。
ベルも追った。革鞄が肩に当たり、紐がきしむ。
厨房の熱気がまだ背に残っているのに、走る先は別の種類の緊張で冷えていく。
「どこだ」
「西棟の——会議室の隣の小応接室です!皆様の目を避けるようにと……!」
「ベル。お前もついてこい。恐らく、お前の手が必要だ」
侍女が言う。
目を避ける。
つまりジークムントは、弱みを見せたくない。
いや、見せてはいけないと思っている。
ベルは嫌な予感を抱えたまま足を速めた。
曲がり角を越えた先、応接室の前に衛兵が二人立っている。いつもの衛兵ではない。レオンハルトが配置を変えた側の人間だ。
廊下の灯りは落とされ、喪布の影が床に濃く伸びていた。その暗さが、かえって部屋の中の異変を際立たせる。
「開けろ」
「殿下——」
衛兵が躊躇うより早く、レオンハルトが扉に手をかけた。
重い扉が開く。
中は薄暗かった。喪布のせいで昼でも夕暮れの色だ。
ソファに座るジークムントがいた。背筋は伸びている。顔色も、表面だけなら悪くない。
だが、右手が膝の上でぎゅっと握られている。顎の線が固い。肩もわずかに上がっていた。
痛みか、不快感か、それとも焦りか。いずれにせよ、楽な状態ではない。
隣には宮廷医師が一人。
手慣れた様子で水差しを整え、薬瓶を机に並べている。
けれど、その整え方が妙にきれいすぎて、まだ何もできていないことが逆にはっきり分かった。
ジークムントはレオンハルトを見て、視線だけで迎えた。
「兄上」
声は平静。
平静すぎる。
こういう時に平静を作る人ほど、限界が見えにくい。
「何でもない。少し耳が詰まっただけだ」
ベルはその言葉で確信した。
『少し』と口にする時点で、少しじゃない。
本当に少しなら、わざわざそう言い添えない。
「ジークムント」
レオンハルトが低く言う。
「今は合議より先に身体だ」
「合議は今しかない」
ジークムントの声は冷たい。
冷たいが、焦っている。
冷たさで焦りを隠している声だった。
「一か月しかない。火事未遂も起きた。今、こちらが止まれば——」
言いかけて、ジークムントが眉をひそめた。
片耳を押さえる仕草。ほんの一瞬。すぐに手を下ろす。
その短さが、痛みと不快感の強さを物語っていた。
見せたくないからこそ、動きが短い。
ベルが一歩前へ出た。
「殿下。どちらの耳ですか」
「……」
ジークムントはベルを見た。
冷たい目。拒絶の目。
『近づくな』という目だった。
けれどその奥に、うっすらと苛立ちより別のものも見える。
怖さだ。聞こえなくなることへの、生理的な怖さ。
ベルは怯まなかった。
「聞こえないのは右?左?」
「……左だ」
吐き捨てるような答え。
ベルは頷いた。
「いつから」
「さっきからだ」
「さっき、っていつ」
「……厨房が騒がしくなった頃だ。あの鐘と怒声が重なった時から」
ベルはメモを取るふりで頭の中に刻む。
発症のタイミング。誘因。音刺激。ストレス。
火事の騒ぎと重なっているのが厄介だった。
偶然で片づけてはいけないし、かといって全部を繋げて断定してもいけない。
「耳鳴りは」
「ある」
「どんな音ですか。高い?低い?」
「……高い。ずっと鳴ってる」
「めまいは」
「ない」
「吐き気は」
「少し」
「顔の痺れは」
「ない」
「頭痛は」
「……少しだけ」
ジークムントは答えながら、目を逸らした。
答えてしまっていること自体が、屈辱なのだろう。
彼は『弱みを言語化する』のが嫌いだ。
でも、嫌でも答えなければならない段階だと、本人も分かっている。
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