第十七話 第四王子の秘密①
王宮の夜は、音が少ない。
少ない分だけ、異音は鋭く刺さる。
ベルが目を覚ましたのは、遠くで何かが落ちたような乾いた音と、その直後に鼻を突く匂いのせいだった。
焦げ。
木が炭になる前の、甘くて苦い匂い。
寝台の中にいても分かる。火はまだ大きくない。けれど、小さい火ほど気づくのが遅れると厄介だ。
(……火?)
ベルは跳ね起き、寝衣の上に外套を羽織った。
革鞄を掴む。習慣だ。薬草師の習慣は、王宮でも変わらない。
何が起きるか分からない時ほど、手ぶらでは動かない。
扉を開けると、廊下の先が薄く明るい。灯りではない。揺れる橙色だった。
侍女が駆けていくのが見えた。
顔色を失い、裾をたくし上げる余裕もないまま走っている。
「火事です!厨房で——!」
ベルは息を吸い、廊下を走った。
走ってはいけない場所だと分かっているのに、足が勝手に前へ出る。
角を曲がるたび、焦げの匂いが濃くなる。熱の気配が肌に触れる。
夜の王宮は静かなぶん、騒ぎがひどく浮く。叫び声も足音も、石壁に跳ね返って不穏に響いた。
厨房へ近づくと、人の声が重なっていた。
叫び、命令、泣き声。
扉が開いていて、そこから煙が薄く流れ出している。
黒く立ちこめるほどではない。だが、油の燃える匂いははっきり濃い。
「水を運べ!」
「油が——油が燃えてる!」
「火をあおるな、布をかけろ!」
ベルは入口で立ち止まり、目を細めた。
炎は大きくない。まだ小さい。
だが、小さいほど怖い。風向き次第で一気に走る。
しかも夜だ。人が慌てて動けば、それだけで火の勢いは変わる。
厨房の中央、床に倒れた桶。散った油。
火は油の筋をなぞるように広がっていた。
(……おかしい)
油が燃えるなら、火はもっと塊になって立ち上がる。
熱に押されて、上へ上へと舌を伸ばすはずだ。
でも今の炎は違う。
床を這っている。
しかも、油の筋だけを選んで走っているように見えた。
そこへ、低い怒声が落ちた。
「退け!」
人垣が割れる。
長身の男が厨房へ踏み込んできた。肩幅が広く、動きが荒い。
ルーペルトだ。
「誰がやった」
声が、怒りで割れている。
彼の目は炎を見ていない。人を見ている。
火を止めるより先に、犯人を探している目だ。
ベルはそこで嫌な予感を覚えた。
こういう時、人は火より先に誰かを罪人にしたがる。
下働きの少年が、水桶を抱えたまま立ち尽くしていた。
顔が青い。手が震えている。
まだ年端もいかない。火より、怒鳴られていることの方が恐ろしい顔だった。
ルーペルトの視線が、まっすぐそこへ刺さった。
「お前か」
「ち、違います……!僕は——」
「違うなら証拠を出せ」
言葉にならない声を発しながら少年が首を振る。
けれどルーペルトが一歩近づく。
少年が後ずさる。足がもつれ、桶の水がこぼれた。
水が油に落ち、炎が嫌な音を立てて跳ねた。
「ばか!」
誰かが叫ぶ。
その瞬間、ルーペルトの怒りがさらに膨らんだ。
「見ろ。火が増えた。お前が——」
ベルは反射的に前へ出た。
「殿下、違います」
声が、自分でも驚くほど冷静だった。
ルーペルトが振り向く。鋭い目。怒りの矛先が、今度はベルへ向く。
「口を挟むな」
「口を挟みます。火の前では」
ベルは炎ではなく床を見た。
油の筋が不自然だ。
まるで筆で引いたみたいに細い。途切れ方まで均一に近い。
厨房で桶を倒しただけでは、こんなふうにはならない。
跳ねるし、飛ぶし、もっと乱れる。
油が『撒かれている』。
ベルは鼻をひくつかせた。
焦げの匂いの奥に、別の匂いがある。
酸っぱい。鼻の奥がきゅっと縮む匂い。
酒精——あるいはそれに近い揮発性の何か。
油だけじゃない。火の足を速くするものが混じってる。
「水をかけないで!砂!灰!それか濡れ布を床に広げて、酸素を断って!」
「何だと」
「油火です!水は散ります!広がります!」
ベルが叫ぶと、厨房の端にいた年かさの料理人がはっと顔を上げた。
「灰ならある!竈の横だ!」
「持ってきてください!それと、火の筋の先を先に潰して!」
料理人たちが一斉に動く。
叫び声の質が変わった。混乱ではなく、手順を持った声になる。
ベルはその隙に少年の前へ半歩出た。
「この子じゃない。見て。火は一点からじゃない。床に線がある」
「線だと?」
「誰かが撒いたんです。桶を倒した事故じゃない」
ルーペルトの目が、ようやく人から床へ落ちた。
怒りが消えたわけじゃない。だが向き先が変わる。
それだけで、厨房の空気が少しだけ持ち直した。
濡れ布が床へ投げられ、灰が撒かれる。
炎がじゅっと低く唸り、這うような火の舌が少しずつ潰れていく。
まだ油断はできない。けれど、さっきのまま水を浴びせ続けるよりはずっといい。
ベルはもう一度匂いを嗅いだ。
焦げ。油。酒精。
そして、その全部の奥に、意図の匂いがした。
これは事故じゃない。
誰かが、燃えるように仕込んだ火だ。
灰が運ばれ、炎の上へばさりと落ちる。
火の音が小さくなる。床を這っていた炎が、少しずつ息を失っていく。
慌てていた下働きたちも、ようやく自分の手をどこへ向けるべきか分かった顔になった。
それでも、ルーペルトはまだ少年を睨んでいた。
怒りが止まらない。止めどころを失った目だ。
火そのものより、今は怒りの行き先を欲している。そんな危うさがあった。
「殿下」
ベルは一歩だけ近づいた。
距離を詰めすぎない。怒っている人間に近づくのは危険だ。
けれど、ここで誰も止めなければ、少年は折れる。冤罪が生まれる。
火より先に、人が焼かれる。
「その子が水をこぼしたのは失敗です。でも火の原因ではない」
「何が原因だ」
「油が撒かれてます。桶が倒れただけなら、ここまで細く走らない。誰かが『線』を引いた」
ベルは床を指さした。
灰の下に隠れかけている油の筋。
料理長が目を凝らし、顔色を変える。
「……これは、撒いてる」
その一言が、厨房に落ちた。
ざわめきの質が変わる。
事故ではなく、誰かの手が入っている。そう理解した空気だった。
ルーペルトの視線が、初めて炎から床へ落ちる。
怒りの焦点が、少しだけずれる。
ベルはその隙を逃さなかった。
「殿下。怒るなら、犯人に怒ってください。今ここで殴る相手は違います」
「殴る?」
ルーペルトの声が低くなる。
怒りが形を変え、そこへ恥が混じる。自分が今どこへ向かっていたか、ようやく理解した目だ。
「……黙れ」
ルーペルトが吐き捨て、少年から目を逸らした。
少年が大きく息を吐き、膝から力が抜ける。倒れそうになるのを、隣の下働きが慌てて支えた。
あのままあと数秒遅れていたら、この場は火事より別の意味で壊れていたかもしれない、とベルは思う。
火はほぼ消え、灰の下でくすぶる小さな赤だけが残る。
ベルは床にしゃがみ、灰を少しだけ払った。
油の匂い。焦げ。
そして、その奥にある酸っぱい匂い。
「これ……厨房の酒じゃない」
ベルが呟くと、料理長が眉をひそめた。
「厨房には葡萄酒と酢があるが……こんな匂いは」
「揮発が早い。火が走りやすい。油に混ぜた」
「酒精か?」
「それに近いものです。もっと癖が強い」
ベルは指先で床を触り、すぐに布で拭った。
べたつきが違う。
油だけの重さじゃない。膜が薄い。広がり方が軽すぎる。
油の上に、別の何かが先に走った痕だ。
ルーペルトが背後から言う。
「お前、よくそんなものが分かるな」
「薬草師なので」
「何でもそれで済ませるな」
「済むからです」
言い返しながらも、ベルは床から目を離さなかった。
今は言い合っている時間じゃない。匂いは消える。熱も乾きも、証拠を少しずつ削っていく。
ベルが立ち上がると、厨房の外の気配が変わった。
人垣が割れ、黒い外套が現れる。
レオンハルトだった。
「状況は」
声は低く、短い。
視線が一瞬で床、灰、油の筋、倒れた桶、そしてルーペルトの表情まで拾う。
その速さに、周囲の空気が少しだけ引き締まった。
誰が何をしたかではなく、何が起きているかを先に掴む人の目だ。
料理長が頭を下げる。
「殿下。火は鎮まりましたが、油が撒かれております。事故では……」
「そうか」
レオンハルトはルーペルトを見る。
「ルーペルト。お前は何をしていた」
「……犯人を探してた」
「少年に刃を向けてか」
レオンハルトの言葉は断定だった。
ルーペルトが歯を食いしばる。反発の前に、悔しさが見える。
図星を刺された時の顔だった。
「……違う」
「違わない。ベルが止めた」
「っ……」
ルーペルトは何も返せなかった。
その沈黙だけで十分だった。
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