第十六話 第七王子の秘密②
足音は衛兵のそれじゃない。
あまりに静かで、あまりにまっすぐだ。
無駄がない。廊下そのものが道を譲るみたいな歩き方だった。
扉を開けようとした瞬間、外から低い声がした。
「ベル」
短い呼び方。
ベルが扉を開けると、レオンハルトが立っていた。黒い外套、布手袋。
目だけでベルの様子を拾い、すぐに視線が部屋の奥へ流れる。
「……コンスタンティン」
部屋の中にいるのを見て、レオンハルトの眉がわずかに動いた。
心配というより、状況把握の動きだった。
誰がここにいて、何が起きたのかを一瞬で組み立てている顔だ。
コンスタンティンが椅子から立ち上がり、口を開く。
「兄上、僕……」
言葉が詰まった。
ベルが先に出る。
「殿下。これを見てください」
ベルは鞄から布袋を取り出し、机に置いた。
結び目をほどく。封筒を見せる。
レオンハルトの目が一瞬で冷えた。
あの封蝋を、彼も知っている。
「どこで手に入れた」
「コンスタンティンの部屋の引き出しに入っていたそうです。本人は触ってない」
「……」
レオンハルトは封蝋を見つめ、次にベルを見る。
問いかける順番が早い。この人は物を見る前に、誰を信じるかを決めている。
「お前の判断は」
「偽物です」
「根拠」
「匂い。割れ方。混ぜ物の癖。蜂蜜の甘さが『香料の甘さ』です。油の匂いも混じってる。蜜蝋じゃない」
レオンハルトは一拍置いた。
そして、布手袋越しに封蝋へ触れた。
爪で軽く縁を叩く。音が鈍い。
彼の目がさらに細くなる。
「……本物なら、ここまで雑じゃない」
「はい。見た目は似せてるけど、質が違う。急いで作ったか、技術が足りない」
「どちらでも、雑な仕事だ」
低い声だった。
怒りを抑え込んだ時の声だと、ベルには分かった。
コンスタンティンが震える声で言う。
「僕、疑われるよね……」
「疑わせるために置かれた」
レオンハルトが即答した。
冷静すぎるくらい冷静だった。
その冷静さが、逆にコンスタンティンを支えている。
「コンスタンティン。お前は悪くない」
「……でも……」
「でも、だ」
レオンハルトの声が低くなる。
今度は、王子としてではなく兄として言っている声だった。
「お前は狙われた。だから守る」
「兄上……」
「今夜はここを出るな。部屋付きの侍女も入れ替える。お前に触れるもの、運ばれるもの、全部見直す」
その一言で、コンスタンティンの目からぽろりと涙が落ちた。
ベルは胸の奥が少し痛んだ。
この子は、言葉一つで救われる。
そして同じくらい簡単に、言葉一つで潰される。
コンスタンティンの目に、ようやく少しだけ色が戻る。
安心したというより、怯える先が『自分』ではなく『敵』へ移った顔だった。
ベルはその横顔を見ながら、胸の奥で静かに息を吐いた。
間に合った。
まだ何も解決していない。でも、少なくともこの子が一人で朝を迎える事態は避けられた。
「誰がこの封蝋を扱える」
「香料庫。養蜂場。厨房。それと、封蝋の保管に触れられる人です」
「執事長の管轄だな」
「はい」
レオンハルトはベルへ視線を戻した。
もうコンスタンティンを落ち着かせる段階は終わった、という目だった。
ベルは答えて、すぐに付け足した。
「でも、『執事長がやった』とは限りません。執事長は鍵を持ってる。鍵を持っている人間は、利用もされます」
「分かっている」
レオンハルトは短く言った。
その「分かっている」の中には、苛立ちが混じっていた。
執事長個人への疑いというより、この王宮の仕組みそのものへの苛立ちだ。
鍵が一つあれば、責任も疑いも、そこへ集中してしまう。その構造ごと、彼は嫌っているように見えた。
レオンハルトは考える間もなく命令を出した。
「ベル、この封筒はお前が預かれ」
「え」
「お前の嗅覚が証拠だ。改竄されないよう、お前が持て」
「……はい」
ベルは封筒を布袋に戻し、鞄へ入れた。
急に重みが増した気がする。紙一枚のはずなのに、王宮の中を動かすだけの意味がそこへ詰まっている。
レオンハルトは扉の方へ向き、立ち止まった。
「今夜のことは他の兄弟に話すな。特にジークムントに知られる前に、こちらで盤面を取る」
「はい」
その言い方に、ベルは小さく引っかかった。
ジークムントの名が真っ先に出る。
警戒しているのか、盤面を読まれるのが厄介なのか。どちらにせよ、兄弟の中にも順序があるのだと分かる言い方だった。
扉に手をかけたところで、ベルはふと口を滑らせた。
「……ところで殿下。何の用だったんですか?」
レオンハルトが振り返る。目が細くなる。
「用がないと来てはダメなのか」
「はぁ?」
「お前の部屋の前に衛兵を増やした。異変があれば報告が上がる。今夜は、報告より先に俺が見に来ただけだ」
「見に……」
「悪いか」
「悪くはないですけど、もっと言い方があると思います」
「ない」
言い切るのが早すぎて、ベルは返事に詰まった。
この人は時々、大事なことをわざと雑に言う。
レオンハルトは今度はコンスタンティンへ向き直る。
「今夜はベルの部屋にいろ。明日まで部屋へ戻るな」
「え、でも……」
「部屋が『狙われる場所』になった。戻るな。侍女も近づけるな。明日、俺が正式に配置を変える」
「兄上が、来てくれる?」
「朝一番で行く」
「……うん」
コンスタンティンは頷いた。
頷きながら、ベルを見る。
「……ベル姉さん、いい?」
「いいよ」
ベルが言うと、コンスタンティンは少しだけ呼吸が落ち着いた。
ほんの少しでも、この子が今夜一人きりで怯えずに済むなら、それでいいと思えた。
レオンハルトは扉の方へ向いたまま、ふと立ち止まる。
「ベル」
「はい」
「よく気づいた」
それだけだった。
褒め言葉が短い。
でも、その短さが重い。
軽く労うのではなく、ちゃんと働きを認める時の言い方だった。
「……薬草師なので」
ベルが返すと、レオンハルトの口元がほんのわずかに緩む。
すぐに消える。
消える前にベルは見てしまった。
あの一瞬の緩みは、他の誰に向ける時とも少し違って見えた。
そしてレオンハルトは、最後にもう一つだけ言った。
「コンスタンティンがお前を頼ったのは正解だ。……一人で抱えさせるな」
命令の形ではなかった。
願いの形だった。
それも、ベルへ託すしかないと思った人の願いだ。
淡々と言い切って、レオンハルトは扉を開けた。
その背中が、なぜか少しだけ早足に見えた。
急いでいるのか、気持ちを整えたいのか、そこまでは分からない。
扉が閉まり、ベルは息を吐いた。
鞄の中の封筒が、いつもより重い。
コンスタンティンが椅子に座り直し、小さく言う。
「……ベル姉さん、僕、怖かった」
「うん」
「でも、少しだけ……大丈夫になった」
ベルは頷き、月の葉の袋を手に取った。
「じゃあ、少し飲もう。眠れるように」
「ベル姉さんも?」
「私も」
「眠れる?」
「眠れるようにするの」
コンスタンティンが少しだけ笑う。
その小さな変化に、ベルもようやく肩の力を抜いた。
湯を沸かしながら、ベルは鞄の中の封筒の匂いを思い出す。
甘さの中の油。焦げの早い煙。
あれは、急いで作られた偽物だ。
急いだのは誰だ。
誰が、コンスタンティンを落とす必要があった?
しかも、父王の封蝋を真似るというやり方で。
「……ベル姉さんの月の葉、すごい効く……気がする……」
やがて、寝息が聞こえてくると、ベルは湯気の向こうで、目を細めた。
秘喪の王宮は、静かに息を止めている。
そしてその静けさの中で、誰かが確かに動いている。
毒だけじゃない。偽封蝋まで持ち出して、盤面そのものを崩そうとしている誰かが。
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