第十五話 第七王子の秘密①
コンコンコン——。
夜更けのノックは、昼のノックより重い。
王宮の廊下は足音さえ吸い込み、扉を叩く音だけが不自然に響く。
静かな場所ほど、異物の音は大きい。だからこそ、その小さなノックに滲む焦りまで、ベルにははっきり分かった。
ベルは寝台の上で目を開けた。
眠れない夜には慣れている。森で暮らしていた頃も、嵐の前夜や、村人の容態が気になって眠れないことは何度もあった。
風の匂いが変わる夜。遠くで犬が吠える夜。熱にうなされる子どもの顔が頭から離れない夜。
そういう夜を、ベルは昔から知っている。
でも今は違う。
眠れない理由が、王宮そのものだ。
壁の向こうに人がいて、どこかで誰かが息を潜め、昼の会話がそのまま夜の罠になる。
森の夜より静かなのに、ずっと落ち着かない。
二度目のノック。
小さくて、焦っている。
遠慮しているのに、今すぐ開けてほしいと分かる叩き方だった。
「……誰?」
ベルが声をかけると、扉の向こうで息を吸う音がした。
そして、泣きそうな声。
「……ベル姉さん。ぼ、僕……開けて」
ベルは一瞬で起き上がり、扉へ向かった。
鍵を外す。扉を開ける。
そこに立っていたのはコンスタンティンだった。
寝衣の上に上着を羽織り、髪は寝癖のまま。大きな目は赤く、涙が溜まっている。
肩で息をしていて、今にも泣き出しそうなのに、必死にそれを堪えていた。
抱えているのは、小さな布袋だった。
「どうしたの」
ベルが言うより早く、コンスタンティンは布袋を差し出した。
「これ……僕の部屋に……あった」
息が震えている。
布袋は、重い。
紙の重さではない。何かの『意味』の重さだった。
幼いこの子が一人で抱えるには、あまりにも嫌な重さだ。
ベルは受け取って、すぐに分かった。
封蝋の甘い匂いが、布越しに漏れている。
「落ち着いて。……中、見ていい?」
「見て。お願い。僕、怖くて……」
ベルは扉を閉め、コンスタンティンを部屋へ入れた。
椅子へ座らせる。ランプに火を足し、机の上を片づける。
手を動かしている方が、相手も少し落ち着く。診療所で何度も使ってきた順番だ。
「深呼吸」
ベルが言うと、コンスタンティンは言われた通り息を吸って吐いた。
うまくできない。胸のどこかで引っかかって、吐く息が短くなる。
けれど、やろうとしている。
それだけで今は十分だった。
ベルは布袋の紐をほどいた。
中から封筒が出てくる。黄ばんだ羊皮紙。封蝋は黄金色。紋章の刻印。
ベルの胸がひやりとした。
見覚えがある。——父王の封蝋だ。
ベルが王宮へ来たとき、門を開かせた、あの封蝋。
本来なら、これを持つ人はこの世で一人だけ。
いや、もう亡くなっているから、この世で一人だけだった、かもしれない。
「これ、どこにあったの」
「……机の引き出し。いっつも空っぽにしてる場所。急にそこに……」
コンスタンティンは唇を噛んだ。
思い出すだけで怖いのだろう。小さな指先が膝の上でぎゅっと強張っている。
「僕、触ってない。触ってないのに、部屋付きの侍女が見つけて、変な顔して……『殿下、これは……』って」
「分かってる。落ち着いて。あなたが慌てるのは普通です」
ベルは封蝋を凝視した。
見た目は整っている。刻印もそれらしい。
色も、つやも、ぱっと見では本物に見える。
でも——匂いが違う。
ベルは封蝋に鼻先を近づけ、そっと息を吸った。
甘い。蜂蜜の甘さ。
しかし、その奥に油の匂いが混じっている。植物油の重さだ。
さらに、わずかな煙臭さ。火にかけた時に焦げやすい、早い匂い。
本物の蜜蝋なら、もっと澄んでいる。甘さの奥に、こんな濁りは残らない。
蜂の蜜は、こんな匂いをしない。
ベルは爪の先で封蝋の縁をほんのわずか削り、指先でこすった。
温度を与えると、妙にねっとりする。
本物の蜜蝋はもっと乾いていて、力をかけた時の返り方が違う。ぱきり、と潔く割れるはずなのに、これはべたついて指にまとわりつく。
「……これ、偽物」
ベルは即座に言った。
コンスタンティンが目を見開く。
「え……?」
「本物の封蝋じゃない。混ぜ物が違う。匂いが違う。割れ方が違う」
「じゃあ……」
「誰かが似せて作ったんだと思う。見た目だけ、本物みたいに」
コンスタンティンの肩が、ふっと落ちた。
息が一つ抜けた。
怖さが消えたわけではない。ただ、形の分からない恐怖が、少しだけ言葉になったのだ。
「……僕じゃない、ってこと?」
「あなたが作れるものじゃない。材料も道具も必要。王宮の中の大人の手」
「よかった……」
その安堵の言い方が、ベルには少し痛かった。
真っ先に疑ったのは、自分が何かに巻き込まれたことではなく、自分が疑われることだったのだ。
それだけ、ここでは立場が脆い。
ベルはそう言いながら、胸の奥に湧く別の感情を押し込めた。
偽物が出回る。しかも、コンスタンティンの部屋。
脅すためか、嵌めるためか、それとも別の誘導か。
理由はまだ分からない。けれど狙いが年少の王子へ向いた事実だけで、充分に嫌な予感がした。
——誰かが、年下を狙っている。
ベルは封筒を机の上へそっと置き、今度はコンスタンティンの顔を見る。
怯えと混乱で、さっきより青く見えた。
コンスタンティンが震える声で言った。
「でも……明日、みんなに知られたら……僕、疑われるよね」
「疑われる」
「……じゃあ……」
泣きそうな顔だった。
ベルは机の上の封筒を指で押さえた。
怯えているのは、封筒そのものより、その先に起こることだ。年少の王子の部屋から父王の封蝋が出てきた。そんな話が朝になって広がれば、誰より先に視線を浴びるのはコンスタンティンになる。
「だから、先に動く」
ベルは立ち上がった。
この封筒を持ったまま、廊下を走るべきか迷う。
でもベルが走ったら、騒ぎになる。騒ぎは人を呼び、人を呼べば噂になる。
噂は、犯人の思う壺だ。
今必要なのは速さより、静かに先手を取ることだった。
ベルは外套を羽織り、革鞄を持った。
封筒は布袋ごと鞄に入れる。机の上にむき出しで置いておくのは危ない。見られるだけでも面倒が増える。
「コンスタンティン、ここにいて」
「え……ベル姉さんは?」
「レオンハルト殿下に会う。今すぐ」
「兄上、怒らない?」
「怒るかもしれない。でも怒りはあなたに向けさせない」
ベルは言い切った。
不思議と迷いはなかった。
この子を守るなら、真っ先に動く相手は決まっている。
外套を整え、鞄へ封筒を入れたところで——廊下側の気配が変わった。
遠くの足音ではない。こちらへ向かってくる足音だ。
迷いがなく、同じ速度のまま曲がり角を越えてくる。
急いでいるわけでもないのに、ためらいがない。
……誰か見張りがいる?
ベルがそう思った瞬間、別の可能性が浮かんだ。
昨夜から、衛兵の配置が少し変わっている。レオンハルトが命じたはずだ。
ベルの部屋の前にも、普段より視線が多い。
けれど——違う。
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