第十四話 第二王子の秘密
その朝、ベルは東棟の裏手で月の葉を摘んでいた。
石壁の影が長く伸びる場所で、夜露を含んだ葉は冷たく、指先にやわらかな香りを残す。
昨夜もきっとレオンハルトは眠れていない。
手の震えは洗浄でいったん落ち着いたが、根本が消えたわけではない。
だから今朝は、そのための鎮静草を採りに来た。
その時、木陰の方から声がした。
「……だから、泣かないで」
柔らかな男の声。
聞き覚えがある。フロリアンだ。
ベルは葉を摘む手を止めず、視線だけを少しずらした。
生け垣の隙間から見えたのは、木陰に立つフロリアンと侍女の姿だった。
侍女は顔を伏せ、ショールの端を握りしめている。
声は震えていたが、その震え方にベルは引っかかった。
診療所には泣く人が多い。痛くて泣く人、怖くて泣く人、悔しくて泣く人。
でも今目の前にいる侍女の泣き方は、どこか整いすぎていた。
「これで足りるだろうか」
フロリアンが懐から小さな革袋を取り出す。
侍女は両手でそれを受け取った。
受け取る手つきに迷いがない。落とさないように、最初からしっかり掴みにいっている。
「……はい。殿下のおかげで、子どもを……」
「子どものことが、一番なのは当然だ」
侍女が言いかけて、声を詰まらせる。
フロリアンの声は柔らかかった。
恋の熱ではない。ただ誰かを守ろうとする熱だ。
だからこそ、見ていて少し危うい。優しさだけで差し出された手は、掴む側によっていくらでも形を変えてしまう。
「……ありがとうございます、殿下。誰にも言わないでください」
「もちろんだ。君が安心するまで、僕が支える」
侍女が一歩引き、深く頭を下げると、フロリアンはそれ以上踏み込まずに立ち去った。
背中まで優しい。だから余計に危うい。
ベルは息を吐いた。
気づかれていない。
別に隠れる必要もないが、今出ていっても妙な誤解を生むだけだ。ベルは再び草を摘み始めた。
そこへ、別の足音が近づいた。
さっきとは違う。重い靴底が土を踏む音。働く男の歩幅。
木陰に残っていた侍女のもとへ、男が近づいていく。
「お前も良くやるよな。あんな坊ちゃんを手玉に取るなんて」
ベルの指先が止まる。
「声が大きいわ」
「ここにゃ誰もいねえよ」
「さっきまで殿下がいたのよ」
ベルは目を伏せた。
言葉が汚い。
内容が汚いというより、その言い方が。人を、道具として扱っている。
しかも、それを悪いとも思っていない話し方だった。
「前は『離婚するため』だったろ。次は『子どもを取られないため』か?それとも『子どもの病院代』?あれ、効くんだよな」
「人聞きの悪い。どれも本当のことよ」
「ははっ。違いない。どれもお前と俺の夫婦の話だ」
男は笑った。
その笑いに、軽い嘲りが混じる。
「女の涙は武器とはよく言ったもんだ。殿下みたいに優しい人間には、よく刺さる」
「刺してるんだから当然でしょ」
「まぁどっちでもいいさ。次はもっと上手くやれよ」
男はそう言って去っていった。
侍女は革袋を抱えたまま、その場に立ち尽くす。
ベルは少しだけ、目を閉じた。
今の会話は、聞いてはいけないものだった。
でも、聞いてしまった。
聞いてしまった以上、もう何も知らないふりはできない。
ベルは生け垣の向こうへ出るつもりはなかった。
そのまま草を摘んで帰るつもりだった。
けれど、今のを抱えたまま黙っていると、あとで自分が嫌になる気がした。
ベルはため息をつき、布袋を革鞄に入れた。
関係ない。関係ないけど。
フロリアンは、純粋すぎる。
そして純粋な人間ほど、王宮では簡単に餌になる。
月の葉を摘み終えたベルは、その足でレオンハルトの部屋へ向かった。
——いつも通りでいい。
いつも通り、薬の話をして、殿下の手の具合を見て、月の葉を渡して。
余計なことは言わない。
まだ確かめきれていないものを、軽々しく口にしない。
扉の前で一度足を止め、息を整える。
ノックをしようとして、指が止まった。
変な間ができた。
「入れ」
レオンハルトは机の前にいた。
ベルが月の葉の袋を置くと、すぐにこちらを見る。
「……ベル」
名を呼ぶ声が短い。
仕事を呼ぶ声ではなく、確認する声だった。
ベルは一礼し、いつも通りを装って月の葉の袋を机の端へ置いた。
「これ、殿下に。夜に少し。眠りが浅いと、手の回復が遅れます」
「……」
レオンハルトは袋を見るより先に、ベルの顔を見た。
いつもなら、ベルの口から出る言葉はすぐ次へつながる。
今日は続かない。
それだけで、この人には十分らしかった。
「何があった」
見抜かれた。
そう思った瞬間、ベルは首を振りかけて、止めた。
嘘をついても、この人には意味がない。
意味がないどころか、余計に鋭くなるだけだ。
「……別に」
「別に、ではない」
ベルがほんの一瞬、扉の外——廊下の向こうへ視線を向けた。
そこは東棟の回廊で、別邸へ繋がる方向。
「……フロリアンか」
ベルの肩が小さく跳ねた。
否定しようとして、できなかった。
その一瞬だけで充分だったのだろう。
レオンハルトは一拍置き、声音をさらに落とした。
「侍女とのことか?」
レオンハルトの言葉は短い。
責めていないのに、逃げ道が塞がる。
「……庭で見ました」
「何を」
「フロリアン殿下が侍女に金を渡してました」
レオンハルトの目が細くなる。
ベルは続けた。
「でも、侍女は嘘をついていた。庭師の夫と共犯です。夫婦で殿下から金を引き出してる」
レオンハルトは一瞬だけ黙り、それから執事長を席から外させた。
部屋が二人きりになると、短く問う。
「フロリアンは、気づいていたのか」
「薄々。でも、認めたくなかった感じです」
ベルは言いながら、朝の木陰のフロリアンの顔を思い出す。
恥。揺れ。自分が誰かに利用されているかもしれないと分かっていて、それでも優しい自分でいたい顔。
自分の善性が崩れることへの恐怖だった。
レオンハルトは頷き、すぐに従者を呼んだ。
「フロリアンを呼べ。すぐに」
ほどなくして入ってきたフロリアンは、顔色が悪かった。
ベルを見て、すぐに目を逸らす。
その時点で、もう答えは出ていた。
「フロリアン。確認する。お前は侍女に金を渡したか」
「……兄上、それは」
「相手は既婚者だ。庭師の夫と共犯で、お前から金を引き出している。ベルが現場を見た」
フロリアンが息を呑む。
ベルはその顔を見て、少し胸が痛んだ。
悪人ではない。ただ、弱いところを刺されただけだ。
「……僕は、触れていない」
「それはどうでもいい」
レオンハルトの声は冷たい。
「問題は、お前が利用され、王宮の規律が壊され、弱みが作られることだ」
「ですが、彼女は助けを求めていて——」
「恋じゃない。依存です」
ベルが言った。
フロリアンがこちらを見る。
否定したいのに、否定できない顔だった。
「助ける自分でいたかったんでしょう。だから切れなかった。でも、それは相手を見てるんじゃない。自分を見てるだけです」
「……」
「認めたくなかった。困っているって、信じたかった」
フロリアンがようやく言った。
声が掠れている。
ベルは頷いた。
「恥ずかしいのは、騙されたことじゃない。やめないことです」
フロリアンの肩が落ちる。
レオンハルトが命じた。
「今日で終わらせる。侍女と庭師は解雇。金銭の授受の証拠は押さえる。フロリアン、お前は事実を話せ。隠すな」
「……分かった」
その日のうちに、二人は王宮を去った。
派手な騒ぎにはならなかった。秘喪の王宮は見世物を嫌う。
けれど処分は早かった。勤務表と証言が揃えば、それで十分だった。
その夜。
ベルが東棟の廊下を歩いていると、窓辺にもたれるフロリアンが見えた。
金茶の髪が夜の光を受けて、少しだけ青く見える。
「ベル」
名前を呼ばれて、ベルは足を止めた。
「眠れないんですか」
「眠れないっていうより、静かになったら、ようやく分かったんだ」
フロリアンは窓の外の噴水を見たまま言う。
「僕、あれを恋だと思ってた。でも違った。救っている自分に酔っていただけだった」
「……そうですね」
「ひどいな」
「薬草師なので」
フロリアンは小さく笑った。
笑ったけれど、目元にはまだ疲れが残っている。
「でも、切れてよかった。ベルが見て、言って、兄上が切ってくれた。僕一人なら、たぶんまだ続けてた」
「続けてたでしょうね」
「即答だ」
「症状が見えてたので」
フロリアンは息を吐き、壁から背を離した。
「次は、誰かを救うことで自分を保たないようにする」
「それがいいです」
「うん。そうする」
その返事は、前より少しだけ軽かった。
ベルは頷くだけにした。
それ以上慰める必要はないと思ったし、ここで優しくしすぎると、また別の依存が生まれかねないとも分かっていた。
「殿下、今は恋の話より、寝てください。頭が静かになって変に感じるのは、正常です」
「ベルって、ほんとに最後はそれ言うよね」
「眠らないと、また変なものに引っかかりますよ」
「怖いこと言うなあ」
フロリアンが小さく吹き出す。
ようやく少しだけ、呼吸が楽になったように見えた。
そのとき——廊下の奥から、足音が近づいた。
規則正しい、迷いのない足音だった。
ベルは振り向く前に分かった。
レオンハルトだ。
黒い外套。布手袋。暗い廊下の中でも、背筋だけがすっと浮き立って見える。
歩幅は一定で、靴音にも迷いがない。さっきまでフロリアンと話していた場所へ、そのまま一本の線を引くみたいに近づいてくる。
レオンハルトは二人を見た。
それだけで、目の前の空気をおおよそ把握したように、眉がごくわずかに動く。
「フロリアン」
声は低い。
叱責ではない。確認の声だ。
感情より先に、状況を押さえる時の声音だった。
フロリアンは反射みたいに背筋を伸ばした。
「兄上。……もう大丈夫」
「そうか」
レオンハルトは短く言い、次にベルへ視線を移した。
一瞬だけ、温度が変わる。
兄へ向ける目ではなく、ベルの様子の『変化』を拾う目だった。
さっきまでと呼吸が違うことも、返事の間が半拍ずれていることも、たぶん全部見えている。
ベルは言うべきか迷った。
今の会話を報告する義務はない。
ないはずなのに、レオンハルトの目は無言で「言え」と告げている。
その沈黙を、フロリアンがあっけらかんと壊した。
「僕、次はベルみたいな子を好きになりたいなって話してたんだ」
「……は?」
ベルが思わず声を出すより先に、レオンハルトの空気が変わった。
一瞬。ほんの一瞬だけ、廊下の温度が下がる。
大きく動いたわけではない。
でも、張りつめた糸が一本増えたみたいに、空気だけが変わった。
フロリアンは気づかないまま笑う。
「だってベル、切れ味がいいし。変に泣かないし。守ってるふりで自分を騙さないじゃない」
「さっきから褒めてないですよ、それ」
「褒めてるよ。かなり」
無邪気なのか、鈍いのか、たぶん両方だ。
フロリアンのその軽さに、ベルは頭が痛くなる。
横を見る勇気はなかったが、見なくても分かった。
レオンハルトは沈黙したまま、ベルを見ている。
その視線が、妙にまっすぐだった。
逃げ道のないまっすぐさだ。
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