第十三話 第一王子の秘密⑦
ベルが言った。
ラウルがベルを睨む。
初めて感情が出た。
丁寧に整えた顔の下から、苛立ちと敵意が覗く。
ベルはその目を受け止めたまま、油壺を指差した。
「この壺、蓋の内側に指の跡がある。昨日触った跡です。しかも右手の親指が深い。あなた、右利きですね」
「それだけで私だと?」
「それだけじゃありません」
ベルは続ける。
「そして、あなたの指先。乾燥で荒れているのに、赤みが薄い。油を扱っている人の手です。洗い仕事の荒れ方とは違う」
「侍従なら革に触れることは珍しくないでしょう」
「珍しくはないです。でも、蓋の内側に親指を深く入れて開ける癖は、人によって違います」
ベルは壺の蓋を持ち上げ、示した。
「見てください。ここだけ圧が強い。急いで開けた人の跡です。しかも昨日の油は新しい。何度も使っている壺なら、もっと馴染んだ汚れ方になります」
「推測です」
「ええ。だからまだ断定はしていません」
その言い方に、ラウルの目がわずかに揺れた。
断定されるより、逃げ道を残された方が人は油断する。ベルはそう知っていた。
「執事長。ラウルを別室へ。拘束はするな。ただし監視を二人。逃がさないで」
「かしこまりました」
ラウルの顔から笑みが消えた。
ようやく取り繕う余裕がなくなったのだと分かる。
レオンハルトの目が、さらに冷える。
「殿下——」
「今は、黙れ」
ラウルの抗議を、レオンハルトの声が切った。
短い一言なのに、それだけで部屋の主導権が完全に戻る。
ラウルは歯を食いしばり、従者に伴われて出ていった。
背筋は崩さないままだったが、去り際の歩幅がわずかに乱れていた。
残されたマルタと医師が、怯えた顔で立ち尽くす。
片方は巻き込まれた恐怖、片方は見抜かれたかもしれない恐怖。
同じ怯えでも、質が違う。
レオンハルトはベルを見た。
短い視線。だがそこに、確かなものがあった。
——信頼。
まだ脆い。
けれど今この瞬間、他の何よりも優先される種類の信頼だった。
自分の手の異変を見抜き、目の前の嘘の綻びまで拾った相手を見る目だ。
「ベル。お前は、俺の近くにいろ」
レオンハルトが言う。
命令の形。けれどその中身は、もう隠しようがない。
この部屋で、ベルをただの妹としては扱わないという宣言でもあった。
ベルがここで「はい」と答えるだけで、王宮の力学が少し変わる。
「はい。仕事なので」
ベルが淡々と返すと、レオンハルトの口元がほんの少し緩んだ。
誰にも見せない種類の表情だ。
ベルにだけ許された、わずかな隙だった。
執事長が一歩前へ出る。
「殿下。ラウルが犯人と断定するには、まだ——」
「断定はしない。だが、確実に『道具』だ。背後がいる」
レオンハルトが即答し、ベルは頷いた。
手袋係が単独でこれほどの危険を仕込むなら、目的がある。
目的があるなら、もっと大きい。
この一か月の中で、誰がレオンハルトを弱らせたいのか。そこへ必ず繋がる。
「次は、医師と香料庫主任です」
ベルが言うと、レオンハルトはそれをそのまま命令に変えた。
ためらいのない声だった。
もう、疑いを抱えたまま見ないふりはしないと決めた人の声だった。
「執事長。ヴァルターを当直から外し、別室で待機。香料庫主任オルドリックを呼べ。予備鍵の管理記録も洗え」
「かしこまりました」
医師が青い顔で頭を下げる。
マルタは涙目で震えたまま、何度も謝った。巻き込まれたくない、でも疑われるのが怖い。その怯えが声にそのまま出ている。
ベルはそれを見て、少しだけ胸が痛んだ。
末端の人間ほど、何も知らないまま流れに呑まれる。王宮の仕組みは、そういうふうにもできているのだと思った。
人がまた散り、部屋にベルとレオンハルトが残る。
机の上には油壺と台帳。黒い手袋は布袋に封印され、今は執事長の腕の中だ。
さっきまで何人もの気配で張っていた空気が、一気に静まり返る。
静かになったぶんだけ、今ここで起きていることの重さがはっきりした。
レオンハルトが、ふっと息を吐いた。
「……お前が来なければ、俺はこのまま鈍っていた」
低い声だった。
感謝というより、事実を確認するような言い方だったからこそ、ベルの胸に残った。
ベルは返さなかった。
返す言葉はあった。大丈夫ですとか、間に合いましたとか。
けれど、どれも軽くしたくなかった。
だから何も言わず、代わりにレオンハルトの右手を見る。
震えはさっきより弱い。だが、完全ではない。
指先の赤みもまだ残っている。少し良くなったからこそ、逆に無理をさせてはいけない段階だと分かる。
「殿下。今日はもう筆記しないでください。署名は代筆。命令は口頭で、執事長に記録させて」
「俺が弱っていると知られたら」
「知られてます。だから狙われる。隠しても狙われるなら、守る方法を選んだ方がいい」
「守る方法、か」
「はい。隠すのは防御じゃありません。ただの先延ばしです」
レオンハルトは一拍置いて頷いた。
「……分かった」
その頷きは、またベルの中で少しだけ重くなった。
彼は簡単に折れない。だから、折れた時は意味がある。
自分で必要だと判断したことしか、この人は飲み込まない。その重さが分かるぶん、ベルもいい加減なことは言えなかった。
ベルは鞄の中から布手袋を取り出した。
旅で使っていた薄いものだ。王宮の品ではない。だが清潔で、油は染みていない。
少し見栄えは悪い。でも今必要なのは飾りではなく、皮膚を守ることだ。
「これを。今日だけでも」
「お前のか」
「嫌なら、今すぐ新しいのを用意させます」
「……それでいい」
レオンハルトが布手袋を受け取る瞬間、指先がベルの指に触れた。
ほんの一瞬だった。
なのにベルの背筋が微かに跳ねた。
冷たいわけではない。熱いわけでもない。ただ、相手が確かにここにいると分かる触れ方だった。
レオンハルトも、少しだけ目を伏せた。
自分の指先の震えを、ベルの指が受け止めたせいだろう。
その表情は、痛みだけではなかった。
弱っていることを知られた悔しさとも違う。触れられても退かれなかったことに、どこか安堵している顔だった。
「ベル。お前は、俺の敵じゃないな」
「殿下が敵ではない、今のところは」
「今のところ、か」
「状況は変わります。人も変わる。だから私は、仕事で判断します」
「情ではなく」
「情で見誤ると死にます」
「……それでいい」
レオンハルトは短く息を吐いた。
否定しない。たぶん、それが今の彼なりの受け入れ方だった。
そして、まるで当然のように付け足す。
「だが、俺はお前を特別に扱う。必要だからだ」
必要。
その言葉は便利で、言い逃れもできる。
けれど、今のレオンハルトがそれを言うのは、便利だからじゃない。
そう言う形でしか、今はまだベルを近くに置く理由を口にできないのだと分かる。
ベルは視線を逸らさず、頷いた。
「分かりました。必要なら、使ってください」
「使えと言われると、妙な響きだな」
「殿下が必要だと言ったんでしょう」
「そうだが」
「なら遠慮しないでください。遠慮して隠される方が困ります」
レオンハルトの目が、一瞬だけ揺れた。
使っていい、と言われたことに驚いたのか。
それとも、ベルが逃げないと分かったからか。
その揺れはすぐ消えたが、完全には消しきれていなかった。
扉の外で足音が止まり、執事長の声がした。
「殿下。香料庫主任が到着いたしました」
レオンハルトが背筋を正す。
その動きだけで、空気が切り替わる。王子の顔に戻ったのだと分かる。
けれど、さっきよりも呼吸は落ち着いている。
布手袋が、彼の手を守っていた。薄い布一枚なのに、それだけで今の彼には意味がある。
「通せ」
扉が開く。新しい人物が入ってくる。
ベルはその瞬間、油壺の匂いをもう一度胸に刻んだ。
——次は、背後だ。
手袋係は道具。
道具を握っている手が、この王宮のどこかにいる。
ベルはレオンハルトの横で、静かに息を吸った。
秘喪の一か月は、もう『合議』ではなく『戦』になっている。
誰が味方で、誰が利用しようとしてくるのか。見誤れば終わる。
そして、ベルは知ってしまった。
この王宮で生き残るには——
誰にでも優しくしてはいけない。
少なくとも今、ベルが背中を預けられるのは、
自分を『厄介だ』と言った第一王子だけだった。
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