第十二話 第一王子の秘密⑥
「ベル。お前は、怖くないのか」
レオンハルトが、少し声を落として言った。
同じ問いだ。けれど今度は意味が違う。
王子の病ではない。王子の周りの人間を疑うこと、その手が内側から伸びていると知ることへの怖さだ。
ベルは一瞬、答えに迷った。
怖い、と言えば距離が生まれる。
怖くない、と言えば嘘になる。
それに、この人はきれいな強がりを好まない気がした。
「怖いです。でも、怖がって動けない方がもっと怖い。毒は待ってくれない」
正直に言うと、レオンハルトは短く息を吐いた。
その息が、ほんの少しだけベルのいる側へ寄ってきたように感じる。
責められなかったことへの安堵かもしれない。あるいは、自分だけがこの恐ろしさを知っているわけではないと分かったからかもしれなかった。
「……お前は、ここで生き残る」
確信のように言う。
励ましではなく、判断に聞こえるのが彼らしい。
生き残れ、と願っているというより、生き残る人間だと見定めている声だった。
「殿下こそ」
「俺は、死なない」
「死なないじゃなくて、死なせません」
ベルが言い返すと、レオンハルトはわずかに眉を動かした。
ベルの言葉は、自分でも少し強かったと思う。
けれど引っ込めなかった。ここで柔らかく言い直したら、きっとこの人はまた一人で立とうとする。
レオンハルトは何も言わず、ただベルを見た。
その視線は、他の誰に向けるのとも違う。
妹に向ける視線でも、薬師に向ける視線でもない。
彼の中で、ベルの位置が決まりつつある目だった。
この場で役に立つ誰か、ではなく、自分のそばに置いておくべき誰かとして見ている。そんな目だと、ベルにも分かった。
再びノックがした。
今度は三人分の足音がある。
執事長が戻り、その後ろに三人が並んでいた。
一人目は手袋係ラウル。
三十前後。整った顔立ちで、礼儀正しく頭を下げる。所作にも無駄がなく、いかにも長く王宮に仕えてきた者らしい落ち着きがあった。
二人目は洗濯係責任者マルタ。
四十代。手は荒れ、爪のまわりに洗い仕事の染みついた乾きが見える。目が落ち着かず、入ってきた瞬間から肩に力が入っていた。
三人目は宮廷医師ヴァルター。
五十代、灰色の髭。背筋は伸びているが、目線が泳ぐ。自信があるというより、何を問われるか探っている顔だった。
執事長が淡々と告げる。
「殿下、こちらが手袋係ラウル、洗濯係責任者マルタ、当直の宮廷医師ヴァルターでございます」
レオンハルトは三人を順に見た。
声は低く、温度がない。
平時の威厳ではなく、切り捨てる時の静けさだった。
「昨日から今朝にかけて、俺の儀礼用手袋に触れた者はいるか」
「殿下。昨夜、喪装束の点検で私が一度。内側も確認しております。異常は見当たりませんでした」
ラウルが即答する。
間がない。用意していた返答の速さだ。
ベルはそこで内心ひっかかった。
『内側も確認』。
言い方が丁寧すぎる。
ただ質問に答えるだけなら、「点検しました」で足りる。そこへわざわざ内側を出してくるのは、先に言い訳を置いている話し方だった。
マルタが慌てて首を振る。
「私は触っておりません、殿下!洗濯は今朝の予定でしたが、まだ回ってきておりません」
「今朝のどの時刻だ」
「朝の鐘のあとで、侍女から受け取る決まりで……けれど本日はまだ」
「分かった」
マルタの声は上ずっていた。
怯えている。だが、その怯えは罪がある者のものとも、巻き込まれたくない者のものとも取れた。
宮廷医師ヴァルターが、咳払い一つしてから口を開いた。
「殿下のお手は季節の乾燥による荒れかと。薬を塗り、手袋の内側を柔らかい油で保護するのが常道です」
ベルは、その瞬間に確信した。
この医師は『油』を言った。
誰も油の話をしていないのに。
手荒れと聞いて自然に出るのは軟膏か、薬液か、保湿だ。そこで真っ先に油が出るのは、皮膚ではなく手袋の処置を知っている人間の口ぶりだった。
ベルが静かに言う。
「ヴァルター医師。殿下の手に、油を塗るよう指示しましたか」
医師の目がわずかに揺れた。
ほんの一瞬。でも、今この場ではそれで十分だった。
「それは……一般論として」
「一般論なら、『油』という単語は出ません。医師は手荒れなら軟膏と言います」
「ケースによっては」
「では、どのケースで手袋の内側へ油を塗るんですか」
ベルは言い切った。
薬草師の経験則だ。
村の医師も、軟膏と言う。油とは言わない。油は革と布の世界の言葉だ。
それを最初に口にした時点で、この医師は皮膚より先に手袋を思い浮かべていた。
レオンハルトの視線が、医師へ刺さる。
「ヴァルター。お前は誰に、何を指示した」
医師が口を開こうとした瞬間、ラウルが割り込んだ。
「殿下、恐れながら。医師殿は善意で——」
「黙れ、ラウル」
レオンハルトの声が低く落ちた。
刃のような一言だった。
ラウルが言葉を失い、喉の動きだけが見える。
ベルは、その反応を見逃さない。
——ラウルは、医師を守ろうとした。
自分への疑いを逸らすためか。
本当に庇いたかったのか。
まだ分からない。
でも少なくとも、ラウルの意識は今、主君ではなく医師へ向いた。
守る相手が、今はそこなのか。
その事実だけで、部屋の空気は一つ先へ進んだ。
ベルは続ける。
「保護油の壺、持って来てください。執事長」
執事長が合図すると、従者が革張りの小箱を運び込んだ。
蓋が開かれる。
中には刻印入りの小さな油壺が二つ、きちんと並べられていた。
一つは革用、もう一つは布用。革用には確かに『L』の刻印。
どちらも見た目は何の変哲もない。けれど、こういうものほど人を騙す。
ベルは壺の蓋に触れ、そっと匂いを嗅いだ。
革用は甘い。油らしい、重くなめらかな匂い。
けれど——底に微かな苦味がある。
手袋から嗅いだのと同じ系統の苦味だった。薄いのに、鼻の奥へ残る嫌な匂いだ。
ベルは壺を置き、台帳を指差した。
「昨日、この壺は持ち出されています。署名はここ。返却はここ。誰が持ち出したんですか」
「署名上は、香料庫主任オルドリックです」
執事長が淡々と答える。
その声音に乱れはなかったが、ラウルの顔色がほんのわずかに変わった。
マルタが息を呑む。
医師は視線を逸らした。
部屋の中で、何が危険な話題なのかを知っている反応だった。
ベルは一歩踏み込む。
「でもこの署名、主任本人の筆跡じゃない。偽装です」
執事長が小さく頷いた。
驚いた顔ではない。すでにそこまで見えている顔だった。
「香料庫の鍵は主任が管理。ただし、主任不在時に限り、執事長室の予備鍵で開けられます」
「予備鍵に触れられるのは?」
「執事長と、執事長補佐。それから——侍従の上席」
ベルの胸が一つ跳ねた。
レオンハルトも同じタイミングで、ラウルを見た。
ラウルは、笑みを作った。
自然に浮かんだ笑みではない。口元だけを持ち上げた、遅すぎる笑みだった。
「殿下、疑われるのは仕方ありません。ですが私は——」
「言い訳は要らない。事実を言え。昨日の夜、お前はどこにいた」
「殿下のお部屋の前に」
「誰と」
「……当直の侍女と」
「名は」
「ハンナです」
「途中で持ち場を離れたか」
「いいえ」
即答だった。
だが、早すぎる。
用意してきた答えを並べている人間の速さだと、ベルは思った。
ベルは医師に視線を向けた。
「ヴァルター医師。昨夜、殿下の手の荒れについて相談を受けましたか」
「……いえ」
「では、どうして『油』が出たんですか」
医師の喉が動く。
言葉より先に、その動きが答えに見えた。
沈黙の間に、マルタが震える声で言った。
「私は……油壺に触れられません。鍵がないと。洗濯係は油を持ちません。油は手袋係が塗るんです」
「洗いのあとも?」
「はい。乾かしたあと、手袋係へ戻します。私たちは布を替えて、汚れを落とすだけで……油は……」
その言葉が、部屋に落ちた。
一番現場に近い人間の、飾りのない真実だった。
言い繕う余裕のない言葉ほど、強い。
レオンハルトの目が、一瞬だけ揺れた。
怒りではない。痛みだ。
長くそばに置いていた人間へ、疑いの線がはっきり伸びた時の痛みだった。
「ラウル。お前は俺の手袋に、何を塗った」
レオンハルトが低く言う。
冷たい声だった。けれど、冷たいだけではない。
ラウルは唇を引き結び、やがて静かに頭を下げた。
「殿下。私は何も——」
「違う」
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