第十話 第一王子の秘密④
「今日から、俺の近くにいろ」
「え」
「表向きは『妹』として。必要な時は——」
言いかけて止まり、少しだけ言葉を選び直す。
「俺の目の届くところにいろ」
命令の形をしているのに、どこか違った。
警戒でもあり、守りでもあり、ベルを『特別な位置』に置く宣言でもある。
それを理解した瞬間、ベルの胸の奥が小さくざわめく。
「……分かりました、レオンハルト殿下」
ベルがそう答えると、レオンハルトの眉がわずかに動いた。
「二人きりの時は、レオと呼べ」
ベルは目を見開いた。
話がそこへ飛ぶとは思っていなかった。
「まだ早いです」
「早い?」
「距離を詰めすぎると、勘違いする人が出ます。毒より厄介です」
「誰が勘違いする」
「周りが、です。王宮はそういう場所なんでしょう」
レオンハルトは黙った。
その沈黙は拒否ではない。ベルの判断を受け入れている沈黙だった。
少しだけ考えてから、低く言う。
「なら、二人きりの時だけだ」
「……考えておきます」
「即答しないのか」
「殿下こそ、命令のたびに全部通ると思わないでください」
そこで今度こそ、レオンハルトはほんの少しだけ笑った。
音にはならない、短い笑みだった。
ベルがそれを見た直後、レオンハルトは背を向けた。
扉へ向かう直前、ふと足を止めて振り返る。
「ベル」
「はい」
「今まで、誰も気づかなかった。俺も気づかないふりをした」
低い声。
さっきよりも少しだけ、地の響きに近い。
「お前は気づいた。だから——」
言葉が止まる。
視線がベルに戻る。
探るようでもあり、確かめるようでもある、一瞬の間。
「だから、お前は厄介だ」
厄介。
なのにその声は、どこか安堵していた。
ようやく見つけた面倒な味方を前にした人の声だった。
ベルは小さく息を吸う。
喪布の暗さは変わらない。王宮の静けさも変わらない。
けれど、胸の内の空気だけが少し動いた。
一人きりで放り込まれたわけではないのかもしれないと、ほんの少しだけ思えた。
「厄介で結構です。薬草師なので」
レオンハルトは何も言わずに出ていった。
扉が閉まり、残ったのは黒い手袋と、ベルの指先に残る微かな苦味の匂いだけ。
秘喪の一か月は、もう始まっている。
そしてベルは知った。
この王宮で、自分の味方になり得るのは——
少なくとも今は、レオンハルトただ一人かもしれない。
扉が閉まり、会議室に残ったのはベルとレオンハルト、そして机の上に置かれた黒い手袋だけだった。
喪布のかかった窓から差す光は薄く、部屋の輪郭をやわらかくぼかしている。
けれどベルの目には、手袋の縫い目だけが妙にくっきり見えた。
上等な革。均一な縫製。王宮の品だ。見えるところには何の瑕疵もない。
だからこそ——混ぜ物は、目に見えないところへ仕込まれる。
「ベル。どうする」
レオンハルトが低く呼んだ。
今の声は命令ではなかった。判断を委ねる声に近い。
さっきまでなら、自分で決めていたはずのことを、今はベルに問うている。
その事実が、状況の重さをかえってはっきりさせていた。
ベルは手袋を見たまま言う。
「まず、これは洗わないでください。油の痕が消えます。証拠が飛びます」
「分かった」
即答だった。
レオンハルトの目がわずかに細くなる。理解の早さが、彼の怖さでもある。
一つ掴めば、その先の手をすぐ打てる人だ。
「執事長を呼ぶ」
扉の外へ短く指示が飛び、ほどなく執事長が現れた。
白手袋のまま、表情を固めている。
呼ばれる前から、ただならぬ話になっていると分かっていた顔だ。
ベルは机に置かれた手袋を指差した。
「これを二重の布袋に入れて封印してください。誰も触れない。保管は執事長が。鍵も執事長だけ」
「かしこまりました」
「できれば布袋も新しいものを。移す時は素手で触らないでください」
「承知しております」
執事長の声は揺れなかった。
だが、目の奥は緊張で固い。封蝋の時と同じだ。
王宮の古い秘密に触れる時の顔だった。
表に出さないだけで、この人もまた一気に血の気が引いているのだろう。
「それと、手袋係、仕立て係、洗濯係。全員の名簿と当直表を今すぐ。今朝からここに来るまで、殿下の手袋に触れた可能性のある者も」
「加えて」
ベルの言葉を、レオンハルトがそのまま命令に変えた。
「執事長。今言った通りだ。加えて、革用保護油の管理台帳も持って来い。油壺の刻印が分かるものを。未開封の在庫と、使いかけの所在も全部だ」
「承知しました。すぐに」
執事長が一瞬だけ眉を動かした。
そこまで把握しているとは思っていなかった、という表情だ。
だがすぐに頭を下げ、手袋を慎重に回収する準備に入る。
ベルは視線をレオンハルトの手へ戻した。
洗浄したとはいえ、指先の赤みは残っている。節まわりの乾きも強い。
皮膚の内側が、まだ熱を持っているように見えた。
「殿下。しばらく手袋は禁止です」
「喪の形式は」
「形式で手が壊れたら終わります。代わりに薄い布手袋に。皮膚に油が触れないように」
「人目につく場では」
「その時だけ外側に重ねる方法はあります。でも、素肌に触れるものは私が見ます」
レオンハルトは一拍の後、頷いた。
その頷き自体が、ベルには意外だった。もっと抵抗すると思っていた。
喪の形式も、王子の威厳も、この人にとっては軽いものではないはずだ。
それでも今は、そちらを後へ回した。
「……お前の言う通りにする」
その言い方が軽い。けれど軽くない。
王子が『誰かの言う通りにする』のは、敗北でも服従でもなく——選択だ。
しかもこの人は、選ぶ時ほど声が静かになるのだとベルは気づく。
ベルは鞄を開け、小瓶を二つ取り出した。
一つは刺激を抑える軟膏。もう一つは、簡易の鎮静茶用の粉末だ。
村で使うには少し強めだが、今のレオンハルトにはそれくらいでいい。
「これは塗ってください。これは夜に少し。眠れないと震えが戻ります」
「命令が多いな」
「治したいんです」
「治す、か」
「手を守るだけじゃ足りません。眠れないままだと、また体が削れます」
「……よく言う」
皮肉の形をしていたが、拒絶ではなかった。
レオンハルトは自分の手を見つめた。
その視線の奥にあるのは怒りではない。長い我慢の痕だ。
この手で署名し、剣を握り、人前では何事もない顔をしてきたのだろう。
震えているのに、震えていないふりをして。
「……今まで誰も言わなかった」
「言える空気じゃなかったんでしょう」
ベルは淡々と返した。
王宮の空気は、弱さを許さない。
ベルでさえ、昨日ここへ来た瞬間に息が浅くなった。
ここで育った人間なら、なおさらだ。
「でも私は薬草師です。王子かどうかは関係ない。症状は症状です」
「随分と割り切る」
「割り切らないと見誤ります」
その言い切りに、レオンハルトの視線が一瞬だけベルへ戻った。
品定めではない。確かめる目だ。
自分の隣に置くに足るか、というより——自分の秘密を預けていいか、という目だった。
ベルは目を逸らさなかった。
逸らしたら、たぶんこの人はまた一歩引く。そう思ったからだ。
「ベル」
レオンハルトが、少しだけ声を落とした。
先ほどよりも近い声だった。
「今の話は、他の兄弟にも言うな」
「言いません」
「なぜ」
「殿下が望まないから」
「それだけか」
「……それと」
ベルは迷い、結局正直に言った。
「今ここで言えば、誰かが必ず利用します。心配も、善意も、毒になる」
「毒、か」
「はい。弱っている人に向けられる親切は、時々いちばん危ないです」
レオンハルトはしばらく何も言わなかった。
否定も、肯定もせず、ただベルを見ている。
その沈黙の重さごと引き受けるように、ベルもまっすぐ見返した。
レオンハルトの口元が、ほんのわずかに動いた。
笑みにはならない。けれど、張りつめていた硬さが、ほんの少しだけほどける気配があった。
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