第一話 終わりの気配と始まり
「……そう。あの人は逝ってしまったのね」
世界には二種類の秘密がある。
隠すために作られた秘密と、明かされるために隠された秘密だ。
母はずっと前者だと言い張っていた。わたしもそう信じていた。
森の端に建つ小さな石造りの家で、薬草を刻み、軟膏を練り、村人たちの咳や腹痛を治しながら暮らす日々の中で、特別なことなど何一つないと思っていた。
けれどある春の夜、月が欠けて空が薄闇に沈んだとき、母はテーブルの引き出しから古びた封筒を取り出した。蜜蝋で封をされた、黄ばんだ羊皮紙の書簡だった。
それがすべての始まりだった。
その日の朝から、母の様子はおかしかった。
ベルは薬草棚の整理をしながら、母の背中を横目で追っていた。
アーデはいつもなら夜明けとともに起き出して竈に火を入れ、鉄鍋にハーブのスープを作るのだが、その日は日が高くなっても寝台に横たわったままだった。
「お母さん、具合が悪いの?」
声をかけると、母は薄く目を開けた。
灰色がかった緑の瞳、ベルが自分の鏡を見るたびに思い出す色だ。
ただし母の瞳には、ベル自身のものとは違う、何か重いものが宿っていた。
昔から感じていた違和感だったが、今日はそれがいつにも増して色濃く見えた。
「具合が悪いわけじゃないわ」
母は緩慢に起き上がり、窓の外を見た。
春の朝の光が薄いカーテンを透かして差し込んでいた。
「ただ……感じるの。何かが終わった気がして」
「何が?」
ベルは棚から乾燥したラベンダーの束を下ろす手を止めた。
母は答えなかった。
代わりにゆっくりとベッドから降り、薄い寝衣のまま窓際へ歩み寄った。
その後ろ姿を見ていると、ベルはなぜか胸が締め付けられるような気がした。
母はまだ四十前のはずなのに、今日はひどく年老いて見えた。
「ベル、今日は村に行かなくていいわ」
「でも、薬を届けないと——」
「後で行けばいい。今日は、ここにいなさい」
有無を言わせない口調だった。
ベルは静かに頷き、ラベンダーを棚に戻した。
その日は一日中、奇妙な静けさの中で過ぎた。
母は何もせず、ただ窓の外を眺め続けている。
ベルは普段の仕事——軟膏作りや薬草の選別——をこなしながら、ときどき声をかけようとして、やめた。
母が何かを考え込んでいるとき、邪魔をしてはいけないということを、十七年の経験から知っていた。
夕方になって、ベルが鍋にスープを仕込んでいると、母がゆっくりとダイニングテーブルの椅子に腰を下ろした。
「ベル、座りなさい」
呼ばれた。ベルは木べらを置き、向かいの椅子に腰掛けた。
母の顔は真剣だった。
いや、真剣というより——覚悟を決めたような、そんな表情だった。
「お母さん、何かあったの?」
アーデはしばらく黙って、娘の顔を見つめた。
ベルは視線を逸らさなかった。
母の目の中にある複雑な感情が、少しずつほどけていくような気がした。
「あなたのお父さんの話をするわ」
ベルの心臓が、一つ大きく跳ねた。
父のことは、これまで一度も話してもらったことがなかった。
尋ねるたびに母は「遠いところにいる」か「いなくなった」と言うだけで、それ以上は絶対に語らなかった。
ベルはいつしか、聞くことを諦めていた。
「……お父さんの?」
「ええ」
「……ひょっとして、死んだの?」
母は静かに頷いた。その目は乾いていた。
悲しんでいないのではなく、もうとっくに泣き尽くしたような——そんな乾いた目だった。
「どうして分かるの?会いに行ったわけでもないのに」
「分かるのよ」
それだけだった。でもベルには、その「分かる」が単なる勘ではないことが伝わった。
母は時々こういうことを言う。
病人の容態が悪化する前に知っていたり、嵐が来る前日に洗濯物を取り込んでいたり。
村の人たちは「アーデさんは勘がいい」と言うが、ベルには分かっていた。
それは勘などではない。
母は何かを持っている。普通の人には持てない、何かを。
「ベル」
母が立ち上がった。そして戸棚の引き出し——一番下の、いつも鍵がかかっていて中を見たことがない引き出し——を開けた。
鍵は使わなかった。ただ触れただけで、カチリという音とともに開いた。
取り出したのは、一通の封筒だった。
羊皮紙でできた、古びた封筒。封蝋は黄金色で、そこには複雑な紋章が刻まれていた。
ベルには見覚えのない紋章だったが、どこかで目にしたことがあるような、不思議な既視感があった。
「これを持って、王都へ行きなさい」
母はそれをテーブルの上にそっと置いた。
「……え?」
「王宮の正門で、これを見せれば通してもらえる。中に入ったら、執事長に渡しなさい。そうすれば、あなたが行くべき場所へ連れて行ってもらえるから」
「ちょっと待って」
ベルは封筒と母の顔を交互に見た。
「王都って、三日はかかるでしょ?何しに行くの?それに、この封筒は何?封を開けてもいいの?」
「開けなくていいわ。中身はあなた自身への手紙だけど、必ず第三者のいる場所で開けなさい。そういう約束で書いてもらったものだから」
「約束って、誰と——」
「ベル」
母が遮った。その声は穏やかだったが、揺るがしようのない力を帯びていた。
「今夜はゆっくり眠りなさい。明日の朝、早めに出発するの。路銀は戸棚の缶の中にあるから。道は王都街道をまっすぐ北へ行けばいい。途中の宿場町を二つ越えて、三日目の昼過ぎには着くはず。王宮の正門は——」
「お母さん」
今度はベルが遮った。
「お母さんは?一緒に来てくれるよね?」
母は少しだけ表情を緩めた。
その微笑みは悲しくて、それでいてとても美しかった。
「……そうね。一緒に行けたら良かったけれど」
「良かったけれど、って……来てくれないの?」
「私が一緒だと、きっとうまくいかないわ。あなたが一人で行く方が、ずっといい」
「そんなこと言われても——」
「ベル」
母は椅子から立ち上がり、娘の前に膝をついた。
ベルが十歳のとき以来、見たことのない姿勢だった。
あの時は、ベルが森で転んで膝を擦りむいて、泣きながら帰ってきたときだ。
母は膝をついてベルの傷を洗いながら、「痛かったね」と言ってくれた。
今の母の目は、あの時と同じだった。
「あなたはずっと、わたしのそばで育ってくれた。ありがとう」
「……お母さん?」
「ここでの暮らしを、好きでいてくれてありがとう。文句も言わずに、森の端のこんな小さな家で、薬草の匂いをかぎながら……」
「好きだよ。ここが好きだし、お母さんと一緒の暮らしが好き。何の文句もない」
母は頷いた。その頬に、一粒だけ涙が伝った。
「知ってるわ。だから余計に、申し訳なかった」
「何が?」
「あなたに黙っていたことが」
ベルの胸に、不安が波のように押し寄せてきた。
「お母さん、何を言ってるの?どこかへ行くの?まさか……」
「心配しないで」
母は立ち上がり、ベルの頭に手を置いた。
子どものころにしてもらった仕草だ。
温かくて、少し荒れた手のひらだった。
薬草を毎日扱っているせいで、いつも植物の匂いがした。
「きっとまた会えるから。でも今は……行かなければならないのよ、わたしも」
「どこへ?」
「後で分かる。あなたが王宮へ行けば、全部分かるようになってるから」
ベルは反論しようとした。
でも母の目を見た瞬間、言葉が止まった。
諦めではなかった。覚悟だった。この人はもう決めている。
何十年もかけて決めた何かが、今日という日に結晶したのだと、なぜか分かった。
「……封筒、なくさないようにする」
ベルはそう言った。
母は微笑んだ。
「ありがとう。あなたは大丈夫よ。どんな場所へ行っても、あなたはあなたでいられる。それだけは信じていなさい」
その夜は、二人でスープを食べた。
いつもと同じレシピで、いつもと同じ白い器で。
でも母はベルの好きな黒パンをいつもより多めに切ってくれて、食後には長い間、暖炉の前でベルの話を聞いてくれた。
先週捕まえた珍しい薬草のこと、春になったら試してみたいと思っている新しい軟膏のこと。
母はすべてに相槌を打ち、時々笑い、いつもと変わらないはずの夕食。
「あなたはいい医者になれる素質があるわ」
「医者じゃなくて薬草師だけどね」
「同じようなものよ」
これが、お母さんとの最後の会話になった。
夜が深まり、ベルが寝台に入っても、しばらく眠れなかった。
目を閉じると、母の顔が浮かんだ。
泣いていた一粒の涙。
『ありがとう』という言葉。
『また会える』という約束。
——大丈夫。お母さんはそう言った。
ベルは封筒を枕の下に入れ、目を閉じた。
翌朝、目が覚めると、母はいなかった。
寝台はきれいに整えられ、テーブルには路銀の入った革袋と、一枚の小さな紙切れが置かれていた。
『気をつけて。愛しているわ。 アーデ』
それだけだった。
ベルはしばらく紙切れを持ったまま立ち尽くした。
窓の外では鳥が鳴いていた。春の朝らしい、明るい声だった。
——泣いても仕方ない。
きっと、泣いたところで母は戻ってこない。
封筒の中の秘密も明かされない。
王都へ行かなければ、何も分からない。
ベルは顔を洗い、旅支度をした。
慣れた手つきで薬草の入った小袋を革鞄に入れ、使い込んだ外套を羽織り、封筒を懐の内ポケットに収める。
玄関を出る前に、一度だけ振り返って部屋を見た。
薬草棚。古い暖炉。二人分の椅子。
「行ってきます」
誰もいない家に向かってそう言い、ベルは扉を閉めた。
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