結びの泉
ざわざわ――
木立が風に擦れる音が聞こえる。頬に僅かにあたるそよ風が爽やかで心地良い。
目を開けると、木々の隙間から差し込む淡い日差しが目に飛び込み、ところどころに青い空が見え隠れする。
俺はそのまま目だけを動かして辺りを見回す。
そこは大小様々な緑豊かな木々が立ち並び、膝まである草が深々と生い茂っていた。まるで原生林だ。
そんな木々の葉の隙間を掻い潜り、陽の光は森の隅々まで光を届けていた。とてものどかで平和な空間だ。
のどかで平和――?
「ここは――、どこだ?」
俺は何かその空間に違和感を得て体を起こそうとしたが、足が地面に着かない。それどころか目や鼻に水が飛び込んで来た。どうやら仰向けで水の上に浮かんでいるらしい。
焦ってジタバタと手足をバタつかせ、溺れそうになる俺。しかし、しばらくすると水位は腰の高さもないことに気づく。ここは二、三十人が入れる程度の小さな泉だった。
寝ている間は良い感じにチカラが抜けていたので浮かんでいられたのだろうが、意識が戻ると変な所にチカラが入り、一気にバランスを崩した。
水底からは泡と共に綺麗な湧水が次々に溢れだしている。俺はひとまず落ち着きを取り戻し、泉から上がった。
上がると同時に俺は改めて目をこすり辺りを見回した。さっき見た光景と全く変わらない景色が目の前に広がる。頬を抓る――。イタイ。夢ではない。服もビショビショに濡れていて気持ち悪い。
周囲を森で囲まれた泉のほとりに俺は茫然と立ちすくむ。
確か俺、ナオスマル実験の被験者をしていたよな――。
そう……、間違いなく俺は少し前まで、マルマキの診察室、いや研究室にいたはずだ。
「まさか――、ここは死後の世界? 実験すらしないまま俺、死んだのか……」
昔、本で読んだ死後の世界は、花畑に囲まれた美しい空間に、天使のような女性が手招きして迎えに来る、というイメージがあった。
まぁ、美しい空間ではないとは言い難いが、出だしが溺れそうになるところから始まるのはいかがなものか、俺は少しばかり不満だった。
周囲の気温が高いためか、濡れていた衣服があっという間に乾いていく。
とりあえず泉の周りを歩き回ってみたが、何をすべきかも分からない。そういえばナビゲーターがどうのこうのとリーザが得意げに言っていたが、その当人はどこぞ?
すると、ガサガサっと前方の草木がかすれる音がした。
その音の具合から、そよ風で擦れた音ではないことは理解できた。なにか生き物が動いた音だ。
しばらくすると、その茂みの間から転がるように球体型の物体が表れた。球体表面には四方八方、無数の棘が生えている。
俺は理解が追い付かずしばし立ち竦んでいたが、一足早く動いたのはその物体の方だった。
突如、その物体の表面に無数に目が見開く。
その不気味さに思わず一歩後ずさる。
するとその気配を感じたのか、一斉に無数の目がこちらに向けて焦点を合わした。
間違いなく、それは生物だった。
球体は俺を獲物と認識したのか、迷うことなく真っすぐに転がってくる。
その生物に【目】以外の部位は確認できないが、その生物が通った跡には草花のひとつも残っていない。全て焼けただれている。
これって何?
ここは死後の世界じゃないの?
美しい天使のお迎えは?
しかし今、目の前から向かってくるのは、とても想像した天使とは程遠い気味の悪い生物だった。
「うぉぉぉっっっ――!」
逃げようとした。
でも足が動かない。
極限の恐怖を感じると足が竦む、ということを聞いたことがある。
「なにもこんな時に実演しなくてもいいじゃないかぁ――」
恨み節を吐き捨てるも事態は変わらない。
(終わった……)
そう思った瞬間、突如俺と球体生物との間に小さな何かが立ちはだかった。
球体生物の動きが止まる。
恐る恐る目を凝らしてみると、そこには緑色の矢絣袴を着た比較的背が低い女の子の姿があった。
彼女は自分の身長より長い薙刀のような武器を球体生物に向けて切りかけている。
「大丈夫ですか」
矢絣袴の女の子は、薙刀で球体生物を静止しつつ背中越しに問いかけてきた。
「お、俺は大丈夫。ありがとう。君の方こそ大丈夫?」
「わ、私は、その――、もうこれ以上は駄目です。ごめんなさいっっっ」
「えっ、えっっっ――」
あまりにも早い脱落宣言に驚く間もなく、球体生物を制止する薙刀の手が緩む。矢絣袴の女の子の体力は、あっけなく限界を突破してしまった。