病床
ほんのりと漂う香り。
それは甘い香りとは程遠く、なんというか保健室を思い出すような、そんな香りだった。そういえばマルマキもそんな香りだったような気がする。
その香りに引きずられるように、俺の体はフワフワと宙に浮く感じを覚えた。まるで無重力空間を彷徨っているような心地よい感覚だ。その空間一面を、マルマキと同じ香りが埋め尽くす。俺は香りに背中を押されるように無重力空間に差し込んできた光の方向へ向かって行った。
そしていよいよその光に飛び込むと… …
ハッ!
息を瞬間的に吸い込む俺。
目を覚ますと見知らぬ真っ白な天井が目に飛び込んできた。
先ほどまで頬を伝っていたドラッグストアの冷たい床とは打って変わって、温かい空気が頬を撫でる。いつも寝ているせんべい布団の硬さとは違い、とても柔らかい感触が背中全体を包み込んでいる。いや、背中だけではない。手も足も、そう体全体を柔らかい感触と暖かさが巻き付いていた。
そう、これはベッドの上だ。久しく忘れていた感触。思い出すのに時間がかかった。
寝ているベッドの右側の窓から差し込む冬の僅かな日差しが、白い掛け布団の上に光を落としている。左腕には透明なチューブが巻き付いていて、そのチューブを辿ると点滴容器に繋がっていた。
白を基調としたほぼ正方形の部屋を見回すと、一番最初に目に飛び込んできたのは、グレーの大きな機器だ。中は空洞で人が一人横たわって入れそうな広さがある。
そして本と資料が煩雑に積まれたアルミ製の資料棚。仕事部屋っぽい雰囲気も醸し出している。
「先生ぇ、こいつ目覚めやがりましたっス」
不意に目鼻立ちのはっきりした金髪ボブの西洋系美少女が俺の顔を覗き込んできた。特に太い眉毛が印象的だ。それに服装は看護師のように見える。ということは、ここは病院内なのだろうか。気持ち的に安堵感が広がる。
「なんかボーっとして、目がさえなさそうっスよ。どうしてやりまスか?」
前言撤回。こいつはただのコスプレマニアだ。俺の心は一瞬にして恐怖心でいっぱいになった。
「リーザ、丁寧にね」
「ほいほーいっス」
リーザと呼ばれる看護師モドキの後方から、優しくもトーンがかなり低めの声が聞こえる。そちらに目を向けるとパソコンデスクで作業する白衣女性の後ろ姿が目に映る。
「その子、リーザは、ドイツから来た新人看護師なんだよね。日本語は、日本のヤンキードラマで覚えたそうよ」
どうやら白衣の女性は医師のようだ。ここは病院で、リーザがコスプレマニアではないことが確認できた。俺は少しだけホッとする。
しばらくすると女医はデスクから腰を上げ、寝ている俺の隣に立った。その瞬間、女医を見上げる俺の眼球が上下上下と超高速の往復移動を開始する。
「先生の体、嘗め回してるんじゃねぇヨ、この変態野郎」
リーザが軽蔑しきった冷たい視線を俺に浴びせる。
「リーザ、今のは、十ポイント,だね」
「やったぁー、十ポイントゲットだぜ!」
女医は無表情にポイントを加算する。ところで十ポイントって何の得点? リーザもポケモンみたいに言うな! と心の中で叫ぶが、真の問題点はそこではない。女医の服装の方だ。
白衣は問題ない。医者だから当然だろう。しかし、白衣の下に競泳用の水着を着こんでいるのは何故だ? 細身のスタイルに水着がフィットしすぎている。しかも今泳いできたばかりなのだろうか、ダークブロンドの髪からも滴がしたたり落ちている。
更に言うなら、小ぶりの胸に、何故か小学生のような名札が縫い付けてある。
色々追究したい気持ちはあるが、今なお冷たい視線を向けるリーザに負い目を感じつつ、ぼんやり名札を眺める――。
「えっ!」
思わず声が漏れた。その名札に書かれた名前に俺の視線は釘付けになった。
「あまりジッと見ないでよね。診断するのは、私の方なんだから」
生唾を飲む俺。瞬間的に静まり返った室内に嚥下音が漏れる。タイミング的に気まずい感じもしたが、女医は能面のように無表情だ。それどころか寝ている俺の顔を覗き込む。
俺の顔や体に彼女の髪から滴が滴り落ちる。しかし彼女はそんな些細なことを気にするそぶりはなく、軽い笑みをこぼした。
「自己紹介がまだだったね。私は一丸真希。本日この病院に配属された特殊内科医だよ」