8話「負けた」
弓矢の練習を始めると、アーリンの朝はより早くなった。
基本エルフの里で日の出とともに生活を始めるものはいない。
長命な種族ゆえ、日々の仕事の量は多くはない。
その日に出来なければ次の日に行えばよい。と言うのがエルフの基本的な考え方だ。
何より農耕も行わないのだから、独自の暦すら創らない。
森で暮らすには、大まかな季節さえ把握できれば不自由うはなかった。
エルフの里で、日付や時間を気にするのは里の外と関係を繋いでいる者達ぐらいの者だ。
商売や外交にたずさわるもの位しか、気に止める者がいないと言うのがより正しい。
そんな里で日の出とともに子供が、森に走っていくのはそれなりに目立った。
しかし大人たちは、自分の生活リズムを変えてまでアーリンの迫害に一生懸命ではない。
むしろ最近は、エルフなのに髭を生やした変わり者の強者があの子供に関わっているのを知り、視界に入れないという態度に出る者も増えていた。
大人たちの積極的介入は減ったが、子供達には関係がない。
大人たちも動き出さない時間から動くアーリンを見つけ、何事かやっているのが知れ渡る。
(あのオモチャにも構ってないなぁ。)
などと考えるガキ大将もいた。
そして、都合の良いことに大人たちも森に入らない時間に、思い出したオモチャが走っていくのを見つけた。
アーリンの向かった先は、試しの儀の行われる森。
いつもの修練の場。
この森は地形や木々の配置によって、聴覚による情報が得ずらいようになっている。
エルフのなが耳をもってしても、いや、なが耳を持ってあるからこその違和感を生じさせる。
そんな森であっても、アーリンはエルフに勝つことができなかった。
少年エルフの視線の先に、打ちのめされたアーリンが横たわる。
最初、奇襲に成功したアーリンの拳は少年エルフの顔面を捉えた。
しかしその初撃で倒すことが出来ないアーリンは、対格差から防戦に回り、あえなく地面へと沈んでしまった。
少年エルフは、血が垂れてる鼻をすすり胸を張ってその場を後にする。
それを見送ったかのように、木の枝を鳴らし師匠であるアルテアが地面に降り立つ。
「ごめん師匠、負けた」
「ああ、なんで負けたと思う」
先ほどの敗戦にそれぞれの表情が違う。
弟子の顔は敗戦に悔しさに染まり、師匠の顔は当然と言った表情となる。
「拳が当たって喜んだ、その後を考えてなかった」
「違う。慣れない闘いなんだ、先手をとって当てることに全霊を傾けることは間違っちゃいない」
二人の表情は変わらず、互いの目線が重なる。
「いいか、アーリン? お前の敗因は初撃でカタをつてなかったことだけだ。自分より大きな相手に有利な状況を作り、攻撃を当てる。それができていながら、倒すことが出来ない。……なら、お前の修練は間違ってる」
アルテアはアーリンに起きるように促し、突きの動作を見せる。
アーリンは後に続くように、突きを出す。
最近は弓を引くため、突きにかける時間が減っている。
うまくいっていないことは、アーリン自身がよくわかっていた。
「突く前と後で、なんで重心が変わってない? 俺の突きを見てないのか?」
師匠の手が腰を叩き、アーリンの上体が前に傾く。
それに満足したように離れ、突きの動作を促す。
アーリンの上体がだらしなく泳ぐ。
それでも師匠は満足げに、うなずくのだった。
そして最初に見せたように、本気の突きを放つ。
それに倣うアーリン。
上体や拳の流れなど、アーリンの目には嫌というほど別物のように映る弱弱しい自分の突き。
それでも師匠の顔は変わらずそれが正しいと言い続けている。
日が暮れるまで突きを放ち、腕がけいれんでもしてしまうかと思うぐらいの疲労感に支配される頃、ようやくその日の修練を告げる師匠の声がかかる。
「それじゃ、最後にもう一つの敗因について話しておくか」
「……敗因? あ、はい」
アーリンの返事が遅れる。
アーリンにとって朝の敗戦などどうでもいいほど疲れている。
それでも寝る前に思い出し、不甲斐なさでひと暴れするかもしれないが今は心底どうでもいいと思っているのも事実だ。
しかし、師匠が自分に対しアドバイスをするという珍しい行為を行ってくれるのだ。
聞かないわけにはいかなかった。
何とか姿勢を正し、師匠へと向かい合う。
「お前の敗因は相手を倒しきれなかったこと、それは確かだ。しかし、倒せなかった後はこの先も存在する。だから、倒せない場合は自分が倒れないこと。そうすりゃいずれ相手が倒れるか、逃げる」
そりゃそうだろう。
自分が倒れないなら相手の心はいずれ折れる。
しかしそんなことができるなら、そんなことができる実力差ならそもそも倒しきれないという状況が生じないとアーリンは顔で答える。
師匠はまるでわかってないなと顔で返す。
今日は使われなかった弓と矢をアーリンに投げてよこす。
「俺に向かって撃ってみろ」
渡された矢には矢じりがある。それを見て再び師匠を見るアーリン。
早くしろと促され、仕方なく矢をつがえる。
アーリンは不安なまま弓を引いていく。
未だに満足に弓を引くことができない、そのため自分でもどこに飛んでいくかわかっていない。
万が一事故でも起きたら、そう思わずにはいられなかった。
しかも自分は今、疲労の極致にいる。
そもそも満足に弓を引けるのか? それすらわからなかった。
腕を前に向けるのすら今のアーリンには重労働だ。
それでもやるのであれば、身体のすべての筋肉を使うしかなかった。
背中で弓を持ち上げ、指で押さえ肩で弦を引く。
僅かにたわみむ握を前に押すように肩を入れて抑え込む。
今までにない力が弓自体にかかっているのが、アーリン目には映る。
今までこれほどの力を蓄えた自身の弓をアーリンは見たことがない。
それでも目の前の師匠はいつでも撃って来いという表情で、自分への視線を動かすことはない。
さらに引き絞られた弦を持つ指が限界に達すると、矢は綺麗な回転をしながら前とはしる。
自然と弓が返り、張力のすべてが籠った矢は師匠であるアルテアめざし真直ぐに飛んでいく。
腕を垂らしたままの師匠へと真直ぐに。
もうその胸に矢が吸い込まれる、まさにその瞬間。
アルテアの腕は弧を描いて矢をはじく。
いや弾いたようにアーリンの目には映った。
師匠の腕に触れた矢はその身に宿っていた力をなくし、ただ自重と引力だけの力で地面へと落ちていく。
「盾拳の神髄は拳にあらず、盾にある」
相変わらず意味が分かりにくい自分の師匠の言葉を自分なりに解釈するアーリン。
攻撃ではなく防御こそが自分の武の根幹であると言っているのだと判断する。
今度は拳で突いて来いとアーリンは促され、師匠の胸に向かって今できる渾身の突きを放つ。
先ほどと同じように弧を描いて弾かたように映る拳は、込められた力を逸らされ、絡めとらる。
予想していた衝撃がないことに違和感をおぼえたアーリンは、衝動的に拳を引く。
それに合わせるように師匠の手が伸び、アーリンの肩を押す。
決して強い力ではないが、予想外の力がかかったせいでアーリンのバランスは簡単に崩れ、襟に引っ掛けられたたった一本の指で背中から地面へと落とされてしまう。
下に引かれたのか、横に引かれたのか全く分からないが確かに自分の背が地面についているのは分かる。
だがなんで自分が師匠を地面から見ているのか、全く理解ができでいない。
そんなアーリンの顔を見て師匠は満足そうな顔を見せる。
「明日からは突きとこれを一緒に覚えてもらう」
やはりアーリンには自分の師匠が何を言ってるのか、いまいち理解できない。
しかし明日からは背中が盛大に汚れることだけは理解ができた。