82話「約定」
アーリンたちがそれを発見したのは、まだ雪深い緩やかな山道だった。
一頭の雄牛がいたのだ。
目を血走らせ、まるで自分の存在を知らしめるように頭を振り、よだれを振りまく姿。
そして前足の蹄で、まだ凍っているはずの地面を掻いている。
雪と共に泥と化した土が自分の身体を汚しても気にならない様子が、興奮状態にあるのだとわかる。
だがそんな行動すら気にならない、異様としか言えない雄牛の姿。
鋭利な氷柱が、雄牛の立派な角を覆っている。
ただでさえ凶暴なはずの角が、より一層鋭さと凶暴さを増している。
そしてその逆立った体毛を覆うように、くまなく氷で覆われているではないか。
その姿はフルプレートを着た騎士のようだ。
いや、その姿と血走った目が物語の狂戦士を連想させた。
その雄牛の魔物は、まだアーリンたちを認識していない。
雄牛の目のまえには、もう一つの命がまだあった。
雄牛を立ち上がらせたような、縦にも横にも大きな身体。
四肢に至っては、雄牛など比べるまでもなく太い。
その姿を端的に表現すると、大きな岩石に見える。
そしてその顔を見れば、その岩石が人種ではないのが分かる。
下あごから天を指すように伸びる二本の大きな牙。
額には小さいが角らしきものも確認できる。
村で聞いた特徴と一致していた。
あれがオーガーの姿だ。
まだ凍える空気の中、オーガーは衣類を纏わず腰布一枚で雄牛を睨んでいる。
もう二匹の猛獣の激突が始まる。
アーリンがそんなことを考えていると、オーガーは膝を曲げて前傾に姿勢をとる。
まるで丸太のような二本の腕から伸びる拳が、地面へ向かっている。
その所作は猛獣とは反対。
凛とした空気を纏いながら、敵である雄牛を見ている。
その視線は覚悟を決めた者の色に染まっていた。
狂気と覚悟の視線が交わると、獣と岩石の衝突が起きた。
激しい衝突音があたりに響く。
衝撃の激しさを伝えるように、雪煙がオーガーたちを包み込んでいる。
互いに後ろには下がらない拮抗状態……のように見えたのは一瞬だけだった。
オーガーの腹部から鮮血が飛んでいる。
そしてその血は、角を伝い雄牛の顔を真っ赤に染めていた。
ジリジリと互いの身体と相手の身体に押し込んでいく最中、オーガーの口から血が吐き出された。
角が内臓まで届いているのだ。
さっきまで赤みがかっていたオーガーの顔から急速に血の気が引いている。
それでもオーガーの身体が雄牛の魔物を離すことは無い。
残る命を振り絞り、雄牛の首を鎧ごと締め上げている。
動きだしそうになる自分の身体をアーリンたちは必死に抑えていた。
死を覚悟した一人の漢の大勝負。
それを自分たちの軽率な行動で台無しにするわけにはいかない。
勝負は決着を迎える。
雄牛の角がオーガーの腹部にさらに深く刺さる。
そしてオーガーの上体がわずかに持ち上がる。
大きな鈍い音が、アーリンの耳に届いた。
沈み込むオーガーの身体。
勝負は決した。
雄牛の首が急速に地面に向かって落ちていく。
オーガー腹に刺さった角が力なく抜けて、雄牛の氷の鎧はオーガー血によって染まっていく。
オーガーが雄牛の首を折った。
絶命した雄牛を見降ろして、オーガーが崩れ落ちる。
血の海に沈む二つの巨体。
アーリンが駆けだすと、マーファたちもそれに続く。
アーリンはオーガーの方へ。
マーファとフレットは雄牛の方へと別れる。
この雄牛は魔物だ。その体内に魔石のある限り、再び動き出し命を狙う。
倒れている今のうちに止めを刺すのは当然の行い、そしてこの漢の勝利を確実にするものだ。
そう言う意味ではアーリンは、まだまだ甘いと言える。
「大丈夫か!?」
「……誰ダ?」
オーガーも顔にはもはや生気が宿っていなかった。
眼の焦点もあっていないだろう。
それでもアーリンの声から顔の位置を知り、視線を合わせようとしている。
「なんで立ち向かったんだ?」
魔物の向ける殺気は恐ろしい。ヒトの発する殺気とは種類が違う。
おおよそ立ち向かえる種類のものではない。
まして素手で立ち向かえるわけが無いのは、アーリンがよく知っている。
アーリンも武術と魔法で魔物と相対している。
そんな武器もなくとも、このオーガーは立ち向かったのだ。
何か理由があるはず。それを誰かに伝えなくてはいけない気がしていた。
「コノ……地ヲ、守ルノガ……我ラト人種ノ約定、ダカラダ」
血を吐きだしながら、アーリンに答えるオーガーの顔には苦痛は一遍もなかった。
「人種は、お前らに怯えていた。約定なんか忘れてる」
「オオ! ソウカ。ソレハ……僥倖」
そしてオーガーの戦士は笑いながら逝った。
満足そうに。
「どういうことなの?」
「わからない。だから、彼を家族の元に送り届けよう」
ズシリとした重さがアーリンとフレットの肩にのしかかる。
その重さ以上に何かが二人に乗っている。
二人は何も言わないまま、オーガーの集落を目指すのだった。




