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40話「狂人」

 翌朝老人が大通りへとおもむく途中で足を止めた。

 昨日見た若者が、おなじ場所でたたずんでいたからだ。足元を見れば一晩中そこにいた事がわかる。

「なんじゃ、まだいたのか」

 あきれ顔の老人に向けて屈託のない笑顔と良く鍛錬された拳を向けるアーリン。

 昨日の続きをと、無言で、しかも雄弁に語っている。

 それは武術に一生を捧げてきた老人にとっては、いささか不快なことだった。

 型の意味さえ知り得なかった小僧が、たった一晩でいかにも成果を得たというカン違いを堂々と自分に向けてきたのだ。

 しかもあの焦がれた、求めながらも届かなかった伝説の男の流れをくむ年若い男がそれをしている。

 老人の心にやや仄暗い何かが沸き立つ。

「仕方がないの」

 この感情のまま手を出してしまえば、未来ある男を今ここで刈り取ることになるだろう。

 しかし、こう育てたのはあの伝説だ。生半可な実力で外に出した師匠にこそ責がある。

 武術の高みを未だ目指している自分の前に、この程度の実力で出てきた若者の責任でもある。

 ならば、一思いに刈り取ってしまうのも致し方ない。


 老人は構えをとる。

 アーリンに初めて見せる本来の構え。

 最も短い手数で確実に仕留めることができる必殺の構え。

 アーリンの実力は知っている。長くて3手。そこでこの若者は絶命するだろう。

 それをわからせるように心に灯った仄暗いのもを、アーリンに向けて放つ。

 そこから1歩でも踏み出せば、死地であると無言で告げる。

 

 それでもアーリンは笑顔を崩すことなく拳を老人に向けている。

(なるほど、弟子ではなく狂人を育てたか)

 実力差は理解しているはず。そして自分の放っている殺気を受けてなお引くことを知らないこの若者は正しく狂人の類だ。ならば先の憂いをここで断つのは、ある意味世のためになるかもしれないと老人は思う。


 半歩、また半歩とアーリンは表情を変えず距離を詰め来る。

 老人もアーリンもすでに互いを射程に収めている。

 伸ばせば届く距離にいるにもかかわらず、あの憶病なまでに先手を取っていたアーリンが未だに手を伸ばさないで老人の出方をうかがっている。

(生意気に勝負の駆け引きのつもりか?)

 老人は若者の傲慢さにさらに苛立ちを募らせる。

 幾多の戦場を生き抜いた自分に、数多の駆け引きを勝ち抜いてきた自分に対してそれをするのかと。


 老人は自分から手を伸ばす。

(自分より実力の勝る相手に先手を譲るその愚行、対価はお前の命だ!)

 ためらいなく振るわれる老人の本気の拳。小さくそして速く、鋭い。

 数多のいのちを刈り取ってきたそれは当たればもちろん、当たらなくとも次の一手でアーリンの命に届きうるものだった。

 突き上げた老人の拳の軌道は、老人の予測とわずかにズレが生じていた。

 そして眼前にはアーリンのものと思われる手掌が視界を覆っている。

 昨日のアーリンの動きから予測される動きとは明かに異質な動き。

 危機を察した老人が最大速度で突き上げた拳を呼び戻す。

 同時に眼前のアーリンの手掌を払いのけるため、残った手に前進を命じる。


 アーリンの手を払いのけたと同時に足に痛打を感じる。

 老人の足がアーリンの足によって地面へと縫い付けられてしまう。

 もう3手は過ぎている。ありえない攻防に老人の思考は一瞬の混乱を招く。

 昨日とは似ても似つかぬ流暢な応酬がそこにはあった。

 まるであの焦がれた伝説がここにいるかのような錯覚さえ覚えてしまう。

 老人の背部を狙う掌打が目に映る。

 老人は型にはない肘打で掌打の迎撃を行う。

 しかしそれは老人の軸が完全に崩されることを意味していた。


 とどめの一撃が見舞われる。

(あの伝説が育てたのは狂人ではなく、化け物の類だったか)

 そう思うとなぜかさっきまであった仄暗い何かはきれいさっぱりと老人から消えていた。

 甘んじて最期の一撃を受け入れよう。あの伝説の男はやはり伝説であった。

 憧れからもはや崇拝に変わった感情は、自らの死への感情さえ上回っていたのだと理解できた。

 そんな晴れやかな心で待っていた最期の一撃が……なぜかいつまで経っても訪れない。

 老人は怪訝なおももちで目を開く。

 

 そこにはぶつくさと一人考え込むアーリンの姿があった。

「……ん? この場合左手は遠いから、右拳で締めだよな? いや、転がせて右足か? ああ! 落としながら膝と手刀って手もあるか」

 はたから見れば奇妙な踊りを一人で踊っているアーリン。

 相手役を急に降ろされた老人はただ佇むことしかできなかった。


「老師! 大変勉強になりました!!」

 ひと段落つき落ち着いたのか、アーリンは変わらぬ笑顔で老人に礼をしていた。

 マーファが万が一のために布に闘気を通わせていたことにすら気が付いていない様子だ。

 そして老人も自分の向けた殺気の程度に自信を無くしている。

「また機会があればいずれ」

 当のアーリンにとっては師匠アルテアの殺気を受けながら修練していたので、これもまた修練の一環であったとしか感じていない。

 そして何よりただの一人の人間として扱ってくれる真正面からの殺気は、エルフの里の人間が浴びせていた感情に比べれば心地の良いものでしかない。

 老人の狂人かもしれないという感想は、ある意味において正解していた。


 しかし、年長者として実力を上にする者の矜持というモノがいささか厄介でもあった。

 目指していた者の劣化版に体よくあしらわれ、しかも自分の気すらあしらわれてしまう結果に思うところがないわけでもない。

「先ずは貴様からということになるな。……いや、そうか。アーリンとかいったな、いずれお前の前には我が弟子が立つだろう。そうしてようやく儂もあの男の前に立つことができよう」

「はあ……?」

 そうして老人は大通りの雑踏へと消えていった。

「ねえ、マハ姉? あれどういう意味?」

「わからないけど、将来の厄介事が増えたってことじゃない?」


 翌日アーリンたちはようやく旅の準備を終え、本格的に旅を始めるのだった。

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