話が拗れた
大学の廊下を疾走しながら俺は考えをまとめる。
といっても俺がこの状況で考えられることなどひとつしかない。
(どうすれば妻を救って元の世界に生還できるか)
自宅に妻がいる確率はあるか。さっきの黒服にすでに捕らえられている可能性は。
妻はどこにいるのか。
大学を飛び出た俺は後ろを振り返るが、まだ誰かが追いかけてきているという気配はない。さすがに二人分の能力だ。
いや、そうでもなかった。俺くらいのポンコツは何人寄せ集めてもポンコツらしい。
すでに俺の周囲は固められていた。正門付近に黒服が4人、何だか大きくて黒くて凶悪そうな車と共に待ち構えている。右、左、両側の校舎角にも黒い服のやつらが数人見える。
俺が今飛び出て来た校舎の昇降口から、教授その1からその4、そして黒服3名とついでに迷惑そうな表情の歯医者まで出てきた。絶体絶命とはこのことだ。
立ち尽くす俺に後方の教授その3が若干息を切らしながら話しかける。
「君は包囲された。大人しく我々に従いなさい。実験動物…いや、モルモット…もとい、実験協力者として丁寧に扱うことを約束する」
「まったく信用できないな。言葉の端々から俺の悲惨な未来が散見される」
俺は周囲を見回して脱出経路を探しながら答えた。
教授1が俺を諭すように話し始める。
「いいか、君が宇宙の秩序を乱してからすでに72時間近くが過ぎようとしている。今のところ我々の世界線と隣の」
教授1は左右の教授3と4を見てから続ける。
「隣の世界に微妙な歪みを作りだしたくらいだ。いや、これだって大問題でこの後どうなるかわからない」
「だいたいそっちの『隣の世界線の教授2人』っていうのはどうしてここに来れた。おかしいだろう」
「そうだ。確かに異常事態なのだが、ここに吸い込まれてやってきたのだ」と教授3。
「物語がややこしくなるので待機させているが、他には助手も2名、歯医者も来ている」と教授4。
二人の話では俺たちが裏世界に移動した瞬間に『近隣の世界線』の関係者がこの場所に移動してきたという。
「君の開けた親不知の穴があちこちのものを吸い込み始め、世界の内外に拡大してきている。放っておけば、君に接触した人間からどんどんこの宇宙に集まってくるはずだ。この危険性がわかるかね」
「ちっともわからん」
チンプンカンプンだ。世界はそんな風呂の排水溝に吸い込まれるゴミみたいなものなのか。
「我々は君の親不知抜歯と奥さん失踪の状況を知って、すぐに内閣調査室に通報の上、身柄確保の手はずも整えておいたのだ」
その内閣調査室というのがわからん。某番組のハンターにしか見えない。
その黒服のひとりが大きくて頑丈そうなマスクを掲げ、近づいてくる。
「いいから君はこれを装着してこちらの装甲車に乗りなさい」
身構える俺に愛想笑いを浮かべる。
「ほら、奥さんもここにいる」
装甲車の中から俺の妻が二人、出てきた。
「あなた!」「あなたあ!」
どっちが本来の俺の妻なのか。いや、今の俺は二人分の合体した人間なのだから、両方が俺の妻ということなのか。
「え、ええと…お前達!心配したぞ!助けに来た」
「助けに来たって、もう悪人に捕まりかけてるじゃない」
「相変わらずドン臭いわ」
悪人呼ばわりされて数人の黒服が顔を顰め、助けに来たのに悪態をつかれた俺もたまげる。
それでもまあ、懐かしいくらいの容赦ない答えに俺は落ち着きを取り戻した。
「わかった。教授のいう通りにするから、その前に妻と少しだけ話させてくれ。それから歯が痛む。化膿していないか歯医者とも」
黒服と教授が顔を見合わせ、ヒソヒソと話し込む。
「いいだろう。だが5分だ。歯医者は口の遠目から様子だけ見てこちらへ戻ってこい」
二人の妻が解放され、俺の元に駆け寄る。
「あいつら悪人よ。間違いないわ。顔を見れば勘でわかるの」
「そうよ。メスバターとか変なバターの名前を」
「私はめっちゃバースとか聞こえたわ」
「阪神のアレと関係があるのかしら」
「…少し黙ってくれ。ここから脱出する」
俺の呟きに二人が沈黙する。
そこへ歯医者が近づいてきた。あいかわらず迷惑そうな表情だ。
「何で私がこんな目に。歯を抜いただけで」
「それをいうなら俺だって抜かれただけだよ」
俺は医者と二人の妻に小さな声で今からやることを説明した。
「三人とも手を繋いでくれ。絶対に離すな」
医者が顔色を変える。
「おい、まさか」
黒服がこちらを眺めて合図した。
「おい、時間だ。あんたはこっち、奥さんはあっち、お医者さんは…まあ、どうでもいいか」
歯医者が非常に嫌な顔をした。
俺はニヤリと笑って周囲を見回す。
「教授、俺がもう一本の親不知を抜けば『あるべきものがあるべきところに』戻るんだったな」
教授4人の全員が眼を瞬かせた。
「ま、そういうことになるだろうという仮説だが」
「一旦家に戻って抜くことにする」
手を繋いだ俺たちを見て、黒服は表情を変え、教授が顔色を変えた。
「待ちなさい。ワシたちはどうなる」
「知らないわよ、トーヘンボク」「知らんがな、ドアホウ」
二人の妻がそれぞれ悪態をついて、妻と手を繋いだ先頭の医者が俺の口の中を覗き込んだ。
初めて俺は人を飲み込むという意識を持って、歯医者の頭を思い切り吸い込んだ。
グラリと視点や足下の重心が揺れたかと思うと、例によって身体喪失の感触があった。
「ここは…」
妻が周りを見渡した。
「うちのキッチンね」
もう一人の妻もへたり込んだ格好のまま、キョロキョロしている。
「なぜここに出てきたのかはわからないが、好都合だ」
俺はまた大学の構内に出てきて妙な連中とかち合うことがないか心配していたのだ。
我が家に戻るという言葉が本当になったということは、俺はもしかしたら思った場所に移動できる能力を獲得したという可能性もある。
「…帰らせてもらうよ」
歯医者がすっかり疲れ切った表情で俺に言う。
「待ってください。俺たちにはわからない何かが起こっていることは確かで、その元を断ち切らないとまた変な奴らがやって来る可能性はありますよ。ホントに理屈は判らないですが」
「…どうしろと」
「決まっています。幸い私は裏世界の自分でもあります。つまりあっちの親不知を持ってきたのです」
「ねえ、今夜は肉じゃがでいいかしら」
「あら、ジャガイモを使い切りたいならカレーにしましょうよ」
「先生も食べていかれます?」
「…」
俺の緊張感とは裏腹に…何しろ裏世界でも平然としていた妻と、もう一人出現した自分とあっという間に馴染む妻だからな…夕飯の相談など始めた二人の妻に呆然としながら、俺は話を続ける。
「先生、今からすぐにでも親不知を抜きましょう。あの教授や黒服の運命など、どうなっても知りません。いや知ったこっちゃありません」
歯科医は眼をパチパチさせてから黒い笑みを浮かべる。
「ふむ。確かに。わかりました。あいつらが出来るだけ大変な目にあうように祈願して、バチコンと乱暴に抜きましょう」
「いや、そんな…」
俺たちの会話にまたも妻達が口を挟む。
「あら、今から抜歯じゃ、カレーとか無理っぽくない?」
「いいわよ。甘口なら大丈夫でしょ」
「そうよね。甘口で柔らかめに煮込めば」
「ホント子供舌でやんなっちゃう」
「ねえ、アハハハ」「ねええ、アハハハ」
この人達はどの世界線でも変わらない気がする。本人同士、気が合っているようで何よりだ。
俺と歯科医は病院に向かった。収拾のつかなくなった世界とこの物語の始末のために。
そして何としてもこの狂った物語を次回には終わらせようと。
それは全宇宙の作者の願いでもある。
次回はいよいよ最終回、予定通り…です。本当です。信じてください。
数日以内に何としても終わらせます。できれば読んでいただきたいと。