世界が増殖した
「ふむ。ここは大学の研究室」
教授が眼を瞬かせた。
俺たちは先ほどとまったく同じ格好同じ姿勢で同じ場所にいる。
「ウムム。特に変化はないように感じるけれど」
俺が身体のあちこちを触ってついでにストレッチして確認する。裏返ったりはしていないようだ。
「やはり信じるのではなかった。こんな与太話」
医者が繋いでいた俺と助手の手を振りほどいて憮然としている。
「帰らせてもらおう」
「何の変化もないようだが」
装置から顔を外した俺が言うと、教授はジロリとこっちを見る。
「本当にそうか。何か変化はないのかね」
そして俺の頬のあたりを指さした。
俺は歯科医が出て行こうとするのを押しとどめた。
「ま、待ってください。親不知が。お、親知らず」
医者は機嫌の悪さを隠そうともせず、俺を押しのけようとする。
「いい加減にしなさい。クレーマーの患者と誇大妄想の教授助手ペア…最悪だ」
「逆の左側に親不知が生えています」
俺は医者の前で口を大きく開ける。
「馬鹿なことを…」
「はっへ、はっへ。ほはほは」
タイミング良く助手が手渡してくれたペン型のライトで俺は自分の口の中を照らす。
「忙しいんだ、私は!これ以上邪魔をすると告訴を…おろ?何だ?親不知…右は抜いてある」
歯科医は俺の口の中を凝視する。
「どういうことだろう。右側だけだった筈の親不知が左に…見落としたのか」
「どうやら」
教授が腕を組んだ。
「予想通りあなたはこちらの世界のあなたと同期して表裏一体化しているようですな」
「…?」
助手がいつの間にか背後にいる。
「体重を量ってみましょう」
「こんな時に何を」
俺は無理矢理体重計に乗せられた。
「140㎏」
馬鹿な。先週の倍あるぞ。
教授が嬉しくてたまらないというように貧乏揺すりをしながら言う。
「やはり」
「やはり私の理論通りだ。あなた自身が裏表をつなぐ通路となると同時にその特異点で一体化したわけです」
「い、一体化って。つ、つまり…どういうことですか」
俺はどうなってしまったのだ。
教授は何を思ったか笑いを堪える。
「あなたはこの世界で唯一の…う、裏表のない…ププッ、裏表のない男です。プーーッ!」
何がおかしいのか。何ひとつ理解できない。
「おそらくだが…」
マッド教授が言う。
「今回の事態の根本的な原因は親不知の抜歯だ。『裏宇宙の君』と『この宇宙の君』が大きく違う行動をしたことから裏表の『ズレ』が発生した。本当なら裏表の君は98,5%以上同じ行動を取る筈だが」
何だその細かい同期率。
「わ、私が勇気を振り絞って親不知の抜歯に臨んだところにクラインの壺やらメビウスが媒体となって、裏宇宙への扉が開かれたと」
わけもわからず言ってみたけど、やっぱりわからん。
俺が嘆くと医者も言う。
「わ、私が卓越した技術で高度な施術をしたため、親不知の穴がきれいに残ってしまったのが原因と」
何か鼻につく。
「…ま、そういうことだ。さて次は」
教授がそこまで言ったところでいきなり研究室のドアが開いた。
そこに現れたのは別のマッド教授と助手…すなわちこの世界の二人だ。
「な、何だ。君たちは!」
両教授が一瞬だけ驚愕の表情をするが、すぐに平然と説明をし合う。
「これこれしかじかだ」
「ふむ。そうか。納得した」
早くない?
「そんな簡単に納得出来るのモノなのですか」
歯科医が唖然とする。
「天災は天災を知る。私の理論は正しかったのだ。ワハハ」
「天災は天災を知る。私の理論は正しかったッス。ワハハ」
教授二人が98,5%口を揃えた。天災については表記違いではない。
この部屋にはマッドな教授が二人と助手が二人、親不知が再び生えた体重140㎏の俺と巻き添えを食った歯科医の6人がいる。
俺は教授と助手を改めて見回す。
まったく同じのようでいて、そういえば違うところもある。
教授のハゲ頭に生えている白髪の量、表宇宙は左が微妙に多いが裏のは右の方が多い。助手のネクタイの柄にある矢印模様が逆を指している。教授の白衣の染み…右左が逆だ…うん?何かおかしいな。
「それと」
いきなり助手が俺の方を向いた。
「この眼鏡が違います。彼女の方は右に、私は左に乱視の補正が入ってます」
別に聞いてないよ。見た目わかんないし。
すでにどっちがどっちかわからないが、どっちかの助手が何かをメモしながら続ける。
「多分彼女は骨格も内臓もすべて私と逆の配置なのではないでしょうか」
「あの…」
俺は二人の助手が左右別の手でメモを書いているのを見ながらおずおずと尋ねる。
「まさか、裏表というのは文字通りの鏡面仕上げなんでしょうか」
「ふむ。まさかとは思ったが世界は予想以上に単純だった」
教授は数字が逆に並んだカレンダーを見て答える。
「見たまえ。この本の文字列も逆並びで、勿論文字だって鏡文字だ」
もう一人の教授が頷く。
「私にはそれが自然なのだが、君たちには読みにくいことこの上ないということだな」
「私はそれほど不自然でないというか、どちらも普通なんですが」
俺にはこのあべこべ世界もまったく違和感がないのだ。どういうことだ。
「そりゃあそうだろう。君はこの宇宙で唯一の『裏表のない人間』なのだ。…プッ」
真面目な顔で言って吹き出す教授はその1の方だろうな。何が面白いのか知らないが。
「変に騒ぎになると面倒だ。手早く済ませた方がいい。何しろ特異点は放っておけば、周囲を巻き込んでいくに違いないからな」
教授その1が言うとその2も頷く。
「うむ。間違いない。さすがワシだ。そうなる前に裏表の差異を埋めることだ」
「すると…」
俺は首を傾げる。
「私は何をしたら」
「決まっているでしょう。こちらで抜歯をするのです」
助手が何でわからないのかという顔をする。
「えええっ。あんな痛い思いをしたのに」
「馬鹿もん!泣き言を言うな!」
教授その1が木彫りの熊を壁に投げつける。
「クマもん!泣き言を言うなッス!」
どこからかキャラクターのぬいぐるみを教授その2が投げた。絶対わざと差を出してる。
「うう。また抜歯とは…。あっ、そうだ」
俺がこの世界に来た理由を今思い出した。妻には気の毒だが、今まで忘れていた。
「あの、妻は。私の妻はどこに」
「ふうむ」
教授その1は腕を組んだ。
「声が聞こえたのだから、無事には違いはあるまい」
教授その2は脚を大きく組み替える。
「声が聞こえたのだから、無事には違いあるマイケル、フォーッ!」
こっちの教授の方が若干アホだということはわかった。
教授その1は何故か背筋を伸ばして胸を張り、もう一度言う。
「きっと大丈夫だ。もう一度親不知を抜けば高確率で次元相違点的なモノが多分消失し、位相幾何学的なナニが正常に近い状態に戻る可能性がある筈だ。そこでマルチバース的な座標変換的なことがおそらく発動し、そしてそれぞれおのおのあるべきところにあるべきものが移動するであろう。きっと多分メイビー」
教授その2は諦めたようだ。
「きっと大丈夫。以下同文」
…何だこいつら。
その時ノックの音がした。
「マッド教授、おいでですか」
「ふむ。なんじゃろうか。今日は来客はないはずだが」と教授その2。
「ですよね。教授には友達もいませんし」と助手2。
哀しい話はさておき、助手が立ち上がって対応する前にドアがガチャリと乱暴に開けられた。
「ここにいる皆さんは動かないこと。公安のものです。皆さんは今から日本国政府の管理下に入ります」
いきなり乱入してきた黒服サングラス…テレビでやってる鬼ごっこ番組のあの追いかける方にそっくりの男達が3人。
「何と。どういうことか説明しなさい。ここには秘密も謎も不思議も隠し事も何もないぞ」
しかし教授その2と教授その1、同一人物が並んでいる時点でずいぶん謎の光景だ。
「以前から教授が提唱していた『マルチバース裏表二元論』の証明ということですね」
黒服の後ろから入ってきたのはあらびっくり教授その3とその4…?だろうか。
おなじみのハゲ頭にボワッと広がった両側頭部の白髪、この部屋にあの映画のドクが4人となった。
「隣の世界線の裏表二人…だッスな」
教授その2は俺に感想を入れさせないくらいに素早く見抜いた。
「まあ、全員自分みたいなものだから理解は早いな」と教授その3。
「というわけで、我々はその男…『怪人裏表一体』を確保に来た」と教授その4。
俺は部屋の全員が俺に注目しているのを見て、初めてその『表裏一体』という妖怪が俺だと気づいた。
「失礼な。お前達のようなマッドサイエンティストの実験動物になってたまるか」
「部屋にいる人間の過半数ほどに失礼な発言ですけどね」
ボソリと助手のどれかが呟いた。
黒服の一人が俺に言う。
「我々の知る限り、あなたは全宇宙で唯一の表裏が合体した人間です。あなたには生物学的物理学的経済学的に大変価値がある。悪いことは言いません。我々の実験動物になりなさい」
「すでに悪いことになってるじゃないか」
「あっ、うっかり」「ワハハハハハ」
黒服3人が一斉に笑う。
俺は破れかぶれで大口を開けて教授その3と4および黒服の方に近づく。
「飲み込んでやる」
「うおっ」「危ない」
四人の顔色が変わった。
その隙をついて俺は研究室を飛び出た。
後方から教授だか黒服だかの叫び声が聞こえたが、俺は構わず大学の廊下をひたすら駆ける。
めちゃくちゃ速い。どうやら二人分の脚力もあるようだ。
追っ手の声が遠くなる。
読んでいただきありがとうございます。
何か終わらなくなってきました。
どうしましょう。
次回は日曜日に投稿できたらいいなあと。ぜひぜひ!