妻が消えた
妻が俺の奥歯のその奥で消えたのは昨夜のことだ。
「あらまあ。いやだわ。あららら」
そんな間抜けな声と共に俺の口中に消えていった愛しい妻よ。
俺は思った。君のことは忘れない。
「君のことは忘れないよ」
「馬鹿言ってんじゃないわよ。早く助け…」
俺がつい心の声をそのまま口に出し、それを聞いていたらしい妻の声がした。
それは信じられないが俺の口の中で聞こえた。
どういうことかと説明できるくらいなら苦労しない。
『俺の口の中を覗いていた妻がその場で消失した』
これがわかっている事実のすべてだ。俺だってわけがわからない。
俺は妻を飲み込んでしまったのか。そんなことはもちろんあり得ない…と思うが。
最小単位の粒子の振る舞いは妻の身体の質量にどう関与したのか。
素粒子はクォーク以外にも、電子やニュートリノなど、全部合わせるとおよそ17種類にも及んでいる。 現代の素粒子標準モデルと呼ばれるものだ。
だからこそ妻は消失したのかそれは解明できない。
先月、親不知を抜く手術を受けた。俺にとっては一大決心だ。
施術自体は1時間もかかっていない筈だし、麻酔のせいで思ったほどの痛みではなかった。
だが本当に苦しいのは翌日以降のことだった。
数日間はクスリを飲んでいてもなかなか痛みが消えない。
頬は2倍ほどに腫れ、2枚目であった筈の俺の顔は著しく変形していた。
ようやく口の中に疼痛や違和感がなくなったのは2週間ほどしてからだった。
要するに俺の細胞の外と内では濃度差があり、濃度の高いほうから低いほうに電解質が移って膜電位が変化すると、細胞は隣の細胞にシグナルを送る。 この現象が繰り返されて神経回路内で情報が伝わる。 これが覚醒時の脳の活動で、それを止めるのが麻酔薬である。抜歯の痛みをどう抑えるかということだ。
それから俺の奥歯はよくモノが詰まる。いや、異常なくらいだ。どれだけ大きな穴が空いているのだろう。医者は半年から一年くらいすると自然に塞がるから我慢しろと言ったが、それにしても食事の度に不快である。
俺の灰色の脳の扁桃体には、心地よい刺激に反応する細胞と不快な刺激に反応する細胞があり、扁桃体は、外界からの信号を処理して、それが俺にとって危険か安全か、何かいいことがあるのかそうではないのか意味づけを行う。俺にとって危険な刺激を検出すると不快感を感じることになり厄介なこと、この上ない。
とにかく歯磨きとうがいを頻繁にして、清潔に保とうと心がけるのだが「ゴロゴロ、ペッ」と水を吐くと、大量の食べカスがボロボロと出てくる。汚い話で申し訳ない。
まあ体調自体は悪くないのだ。どちらかと言えば快調だ。食欲はすごくあるし、仕事も以前の倍くらいの量ができているような気がする。食べカスのことを気にしなければ絶好調といっていい。
しかしおかしい。医者の言葉とは裏腹に奥歯に詰まっているモノがどんどん大きくなっているように感じる。米粒がスプーン一杯出てくるし、唐揚げは俺の一口分すなわち妻の半口分くらいがうがいと共に出てくる。
俺の口腔は歯・顎骨・舌・歯肉・口蓋・唾液腺などで構成されており、口腔内は粘膜で覆われている。 これらの構造を用い、咀嚼・嚥下・発語・唾液の分泌などの機能が果たされるといっていい。 唾液は食べ物の初期消化・口腔内の浄化・歯の再石灰化などの作用をもち、正常な機能を果たしていた。
だが事態は単に『食べカス』などという気楽なものでは済まなくなってきた。
ある日うがいをしたら、ゴロリとジャガイモが一個そのまま出てきて呆然とした。
翌日は何と木彫りの熊がニョロリと口から現れた。
俺はどうやってこれを吐き出したのだ。
明らかに俺の口よりでかい。何でやねん。
「恐怖だ。一体俺の口の中はどうなっているんだ」
俺は熊の木彫りを手に洗面所の鏡の前で立ち尽くした。
妻が少し引き気味に洗面所の外から半分顔を出して俺を見ている。『家政婦は見た!』様式だ。
「なあ、頼む。ちょっと覗いてくれないか。角度の関係か鏡では見ることが出来ないんだ」
「いやあよ。そんな不気味な口の中」
妻は露骨に嫌な顔をする。
「クリスマスにはロエベのバッグを買いに行こうじゃないか」
「見せてご覧なさい」
妻が乱暴に俺の口を開けて覗き込む。
「うがが。雑に扱うな。痛て」
「それにしたって」
妻は構わずグイグイと俺の口をこじ開ける。
「何で私があなたの口の中なんか覗かなきゃいけないのよ」
妻はブーブー文句を言った。
だが夫の俺が異常を訴えているのだ。もっと優しく、せめてブーブーではなくてニャアニャアなどと俺の好きな猫的なブー垂れ方だったらもうちょっと…そう今より5%くらい可愛いのにな、などと馬鹿なことを考えていたら、妻が妙な声を出す。
「あらまあ。いやだわ。あららら」
その瞬間、妻の姿が見えなくなった。
俺は周囲を見回す。
「君のことは忘れないよ」
「馬鹿言ってんじゃないわよ。早く助けなさ」
ごくか細い声が遠くというか、近くて遠い場所から聞こえる。
「どういうことだ。日頃の罰が当たったということか」
「失礼ね。罰とは何よ」
「ご、ご免なさい。…いや、どこだ。どこにいる」
俺はもう一度周囲を見回す。
信じられないことにその声はやはり俺の口の中から聞こえる。
自分の身体のことだからわかるのだ。
さらに妻の声は小さくなる。
「…ここは…どこよ。出し…いよ。このトー……ク」
間違いない俺の口の奥だ。あの親不知を抜いた穴から妻の声が響いている。最後のトー何とかっつうのはトーヘンボクという妻得意の罵り言葉に相違ない。
洗面所の鏡で懸命にその穴を見ながら妻に呼びかけようとするが、何しろ口を開けたままだから言葉にならない。
「ほひ、ろほひひるふんら。へんひほひろ」
俺の口腔内で粒子同士に強い結びつきができる量子もつれの現象が起こっているのか。
いったん二つの粒子に量子もつれの関係ができると、夫婦であっても、またそれがどんなに遠く引き離されても、なぜか互いのことが分かるらしい。
片方の粒子の状態が変化すると、それに応じてもう一方の粒子も瞬時に変化するというのだが。
そんなこんなで俺の親不知の裏の何処かへ妻は迷い込んだようだ…というのが話の始まりだ。
どうなんだ。
読んでいただきありがとうございました。
作者の今年一番大きな出来事のひとつは親不知を抜いたことです。この世の中には幾つか恐ろしいことがありますが、そのひとつが歯を抜くことです。
できるだけ素早く次話を投稿します。完結は来週末くらいを目指しています。この恐ろしくてくだらない話をぜひぜひ最後まで!