選り好みで浄化する星
人の死ほど興味がわくものは無く、人の死程意味のある物はない。
一日何人人が死んでいるのだろう?
そんな風に思う。
交通事故や殺人、自殺や病死に事故死…。人が命を落とすきっかけはいくらでもある。
知らない人間からしたら、知らない人間の死など見向きもしない。
自分のことではないから。
それがなんと、身近な人やましてや血縁であれば、人は死に対して深く考える。
なぜその人だったのか?
なぜそのようになったの?
いつ、どこで、どのように…。
こうしてみてみると、非常にも思えるが、全てが全ての死に対して向き合ってしまえば、それはそれで問題なのである。
人は死に対して鈍感でなくてはならない。
そうでなければ、生き物として成立しないからである。
ではなぜ、人々は興味の無い死を、ニュースやネットで探し見たがるのか?
画面の向こうにいる芸能人や政治家ならともかく、どこぞの老人や若者の事故死など、見なければ良いのに。
応えはいくつもあるが、だいたいは興味。
そしてその興味とは、意味があるものだからである。
他人の死に鈍感であれ。
名言したにも関わらず、意味があるものだともいう。
全くの矛盾。
しかし、矛盾でもないのだ。
人の死とは、意味がある。意味があり過ぎるからこそ、鈍感でなければならない。
他人の死を、ただの情報だとして認識するくらい鈍感でなければ、この星はやっていけないのだ。
死を軽んじてはいけない、だが鈍感でなければいけない。
至上なわがままではあるが、この星が成り立つため、生き物として成り立つためには必要なことなのである。
「我々死神には、な。」
「いや、先輩。ただただうまい魂が食いたいだけでしょ。」
「そうでもないさ。うまかろうが、まずかろうが…我々は魂を喰らわないと存在を一定にすることができない」
「でも食べるなら、おいしい方が良いでしょ?」
「…なぜ我々に味覚があると思う?後輩よ。」
「えー…元が人間だから?」
「 」
さて、星の浄化を始めよう。