七 教会と旅する人
はた、と気がついた。
どちらかと言えば目が覚めた感覚に近い。相当量の情報を詰め込まれたはずであるが、不思議とそこまで疲労感はなかった。
ゆっくりと長椅子から立ち上がる。めまいもなければ耳鳴りもなかった。
(『世界の取引』、ねえ)
つい眉間にしわが寄った。
複雑そうに顔を曇らせた半人半馬の精霊の姿を思い出す。彼の精霊は、おそらくこの現象と呼ぶべき『取引』に納得していない。
死の記憶の返却からしてその意思がくみ取れた。己の生が終わる記憶をああもしっかり返却されては、人によっては心がぽっきりと折れることだろう。
曖昧だった記憶の輪郭をなぞる。
流れ出る体温と、血液で滑り落ちた武器。それから春斗の最期まで守り切ろうとあがいた友人の背――そんな記憶を思い出して、知らず口角が上がっていたことに気がついた。
ろくな記憶ではないことは確かだが、かといって悪い記憶というわけでもない。
あり方を人間より精霊やら妖精やら神秘の存在のそれに寄っている春斗は、『自分の生の終わり』について非常に客観視して捉えていた。
息を一つ吐いて、教会から出ようと扉の方へつま先を向けた。
「おや、異邦の方」
「さっきの……神官」
「はい。『旅するものの守護神』にお仕えする、ライムンドと申します」
ライムンドは柔らかに微笑むと、星もお喜びになるでしょう、と続けた。
ポラールの名乗りを思い出して、その名前が北極星を示す言葉であることに今更気がつく。
北天に輝くしるべの星の名は、なるほど確かに旅人たちの守護精霊としてふさわしい名だろう。
「ん?ここで奉ってるのはポラールなのか」
ひゅっ、と息をのむ音が聞こえてから春斗は顔をこわばらせた。
(口を滑らせたか、いや神学者とかほら吹いとけば乗り切れ……だめだな、嘘はつけない。彼らの信頼に関わる)
一瞬脳裏によぎった考えを全力で捨て去ると、春斗は覚悟を決めてライムンドの顔を見た。
「い」
「ライムンド?」
「いいなあ……」
ため息をつくような、うっとりとした声であった。春斗は困惑した表情を浮かべてライムンドをもう一度見てみる。
青い目は羨望の色を浮かべ、両手は祈るように胸の前で組まれていた。
春斗に対して祈るかのようなポーズはやめていただきたい。抗議の意味を込めてライムンドをにらみつければ、はっとした様子で、申し訳ありません、と照れくさそうに笑った。
「守護神様と言葉を交わすことができるほどの旅人様であるとは知らなかったものですから、つい。いえ、私自身は旅など無縁な身ですし、諦めてはいるのですが」
別に春斗も旅らしい旅をしているわけではないのだが、そこは口を閉ざすことにした。わざわざ訂正する必要も無いだろう。
そもそも、あの半分神様の領分に浸かっている精霊が何を『旅』と定義しているのかすら分からないのだ。春斗に自覚がなくとも、彼らからすれば立派な『旅人』として扱っている可能性は高い。
しかし、ポラールはちょこちょこ顔は出すタイプらしい。我ら、という一人称からして、ポラールという精霊を形成するものの中に人好きななにかでも居るのだろう。
そんなことを考えてから、それじゃあ、と立ち去ろうとする。
「あっ、ちょっと待ってください!」
それを後ろから慌てて呼び止められて、春斗は首をかしげながら振り向いた。足を止めたことに安心したらしく、ライムンドはほっと息をついていた。
「守護神様とお話しできるほどの旅人様であるのなら、大変申し訳ないのですが、一つ、依頼をしたく」
「依頼……」
「もちろん、報酬はお支払いします。教会は各ギルドとつながりもありますから、報酬の相場もきちんと分かっていますし」
どうでしょう、と不安そうな声が落ちた。
春斗は眉間にしわを寄せて視線を僅かに下げた。考え込むときの悪い癖でしか無いのだが、不快にさせたと感じたらしい、ライムンドは少し慌てたように報酬は割り増ししますので、と付け加える。
「いや、そこじゃないんだが――」
言いかけて、口を閉じた。やはり常識の一つくらいはもらっておくべきだったかと思ったが、首を振る。
悲しいことに、春斗は生来はお人好しな質であったが、そのたどった生のおかげで少々疑り深い部分もあった。
(まあ、いいか。金銭にしろ、食料にしろ、何であれこの世界のものがもらえるというのなら受けない理由もない)
春斗は小さく息を吐いて、詳しく聞かせてもらえるか、とライムンドの青い目を見て言った。
彼はぱっと明るい表情を浮かべて、助かります、と頭を下げた。
「こんなところで話し込むのも他の方に迷惑がかかりますから、お昼でもどうでしょうか。私がおごりますので」
できれば旅の話が聞きたい、という副音声が聞こえたような気がして、春斗は硬い仕草で頷いた。元の世界での――前世での体験をそれっぽく話せば納得してくれるだろうか。
(……血なまぐさいか)
うきうきと扉を開ける神官の背を見てため息をつく。
「羊の崖、というお店なのですが、なかなかおいしいんですよ。王都の一流料理店にだってひけをとらないこと間違いなしです」
なぜか誇らしげな声が早く早くと急かしている。それがなんとなく暖かく感じられて、それは楽しみだ、とライムンドの後を追った。