田股教授の静かな生活
田股猛教授の専門は地球社会学だ。
しかしテレビで『よい脳みそ、悪い脳みそ』の話ばかりしているうちに、脳科学者だと思い込まれてしまった。
口達者な芸人に口数では負けるが、一言の強烈なツッコミのインパクトが強く、番組中に三言しか喋らなくても存在感があった。
とても穏やかな喋り方なのにその超然として奇天烈な言動が自称知識人たちの反抗心を煽り、彼のことを嫌う人は心底から嫌っていた。なんだか田股教授を見ていると自分が否定されている気持ちになってしまったのだ。
素直な心の持ち主はみんな田股教授を好きになった。面白いおじさんだ、物腰も柔らかい、この人の話を聞いていると自分が賢くなれそう。でも実際に賢くなったひとはあまりいなかった。
万能に憧れる学生からは、神のように仰がれたりもした。神の脳みそを持ちたくて、教授の著作を熱心に読み耽った。ハウツー本を読めば社長にもなれるが、教授の本を読むと底辺になった。頭のよさと社会的地位とは関係がなかった。
賑やかな時代が流れていった。
やがて人々は家に籠もりはじめる。
田股教授は一度結婚をした。
今は独りだ。
高級住宅街の一角に家を建て、猫とふたりで暮らしている。
「おまえも歳をとったなあ」
猫の頭を撫でると、猫は一言「うみゃあ」と答えた。
すっかり頭の真っ白になった教授は窓の外を眺めた。緑色の風が優しく吹いていた。春の気配がしている。
田股教授はただ猫を撫でる。アンティークな椅子に深く腰を埋めて。
田股教授が何を考えているかなんて誰にもわからない。
「静は歳を取らなかったなあ」
彼がぽつりとそう呟いたからといって、産まれてわずかで死んでしまった彼の息子、田股静のことを考えていることがわかるだけである。
重い障害を抱えて産まれて来た静が大きく育っていたら今頃どんなになっているか、そんな息子に会いたい、そう考えたのか──
あるいは重い障害を抱えて生きるよりは早くに天使の翼を生やして、今頃天国で軽やかに暮らしているだろうことが嬉しいのか──
それとも自分を息子に重ねて、あっという間に流れ去った時を惜しんでいるのか──
あるいはもっと超然と、彼らしく、人間の営みを脳の作り出す幻影と見ていて、彼の呟きも記号のひとつに過ぎないのか──
あるいは83歳の老人のただの恍惚とした呟きに過ぎないのか──
それは彼自身にすらわからないのかもしれない。
しかし、彼は猫を撫でながら、確かに今、生きていた。
穏やかな時に包まれて、何かを感じ取っていた。
もうすぐ彼の命も終わるだろう。
彼の中に、すべてを隠したまま。
彼のすべてを伝えたいけれど、誰にも正確には伝えられないまま。
穏やかな微笑みを浮かべて、田股教授はカメラに向けて人差し指を回した。