溶けゆく宝石
今日も繰り返された長い一日が終わり、未だ慣れることのない柔らかく、温かい布団に体を横たえながら天井を見つめる。
(きっと…………文句を言ったら、罰が当たるのだろうけど)
肥え太らせるためか、慣れさせるためか、今まで食べたことのないような豪勢な食事を与えられ、その合間に知識や礼儀作法を叩きこまれる日々。
最も長い時間を共に過ごす女中達との関係性は絶望的で、あからさまなほどの敵意を向けられてはいるが、彼女達もわが身が可愛いのだろう。
最初の頃、双方の死か、生か、その極端な二択をちらつかせながら噛みついて以降は、小言くらいしか言われなくなった。
ある意味では、いつにないほど平穏、そう喩えても間違いではないのかもしれない。
(でも、なんとなく……落ち着かない)
約束の日まで、この身を僅かでも傷つけるなとの当主の厳命により、以前はしていた作業の一切が禁じられている。
手持無沙汰になり、唯一自分の知っている娯楽である読書をしようにも、この屋敷にあるのはほとんど歴代当主たちの自伝ばかりだ。
目も当てられないほど仰々しく賛美されたそれらを、とてもではないが、読み進める気にはなれなかった。
(………………他にあるのは、夜伽にまつわるものだけ、か)
ぺらぺらとめくっては見たものの、自分の顔は赤くなったり、青くなったりするだけで、欠片も頭に入ってくることはない。
というより、実父も含め、異性とほとんど触れ合ったことがないというのに、何段飛ばして教え込もうとしているのだろうか。
あからさまなほどに、旦那様の思惑が透けて見えるも、どうにも自分にできることとは思えなかった。
「……………………そもそも、呼ばれることなんてあるの?」
忌み子の特徴である、灰色の髪。
体を重ねたものもまた呪いを受けるという言い伝えもある中で、着物を着るにも苦労しないこの平な体を最後の相手にしようという勇者は、例え女に飢えた下人達の中にも現れることはなかった。
(…………どこが魅力なんて、私でもわからないくらいだし)
体はおろか、相手を喜ばす会話さえ知らない。
表情も硬いし、ただ横にいるだけでも相手が楽しいと思うことはないだろう。
(うーん。できるとしたら、やっぱり雑用くらいかな?)
長年連れ添った固い手のひらは、夜伽には向かないにしても、それ以外の作業になら有用だ。
鍬を長い間振っても血まみれになることは無いし、熱い物であってもそれほど熱さを感じずに持てる。
適材適所、私を使おうとするならば、きっとそちらの方が相応しいだろう。
「………………辛いのは慣れてる。痛いのだって」
儚く短命か、しぶとく長命。
忌み子と呼ばれるその理由の一つでもある特徴の内、後者の性質を持って生まれた私は、痛みや毒、病に呪い、そういったものに異常なほどに耐性がある。
それがあるからこそ、加減を知らぬ仕打ちを受けてきたというのもあるのだろうけど。
でも逆に、これがあったから、お側に仕えられた。
どれだけ抑えようとしても、その身を蝕む呪いを、無意識のうちに放ち続けることしかできなかった私だけの主様――灯様に。
「……だから余計に、幸せの味は格別だったんだから」
例えこの後に続く全ての時間が、不幸に塗れたものであったとしても。
それだけで、全てのことにお釣りが来ると、そう思うような幸せ。
そして、私はそれにまた縋るために目を瞑った。
いつもと同じ夢。優しさに包まれたあの場所へと今日も還るために。
◆◆◆◆◆
朝日を迎えると、同じような一日が始まる。
温かい食事を食べ、身を清められ、そして…………妹と顔を合わせる。
「ああ、臭い臭い。家の中に、家畜でも入り込んでいるのかしら」
鼻を摘まみながら言われる台詞は白々しくて、わざとやっているのがはっきりと分かった。
しかし、よくもまぁ、こんなことを飽きずに続けられるものだと、最近とりわけ不機嫌そうな瓜二つの顔にそんなことを思う。
「……………………」
妹、と呼ばれるのは例え心の中のことであっても嫌がるのだろう。
同じ顔、されども他のことは残酷なほどに違う。
恵まれた体に、恵まれた力。
加えて、親の愛情を一身に背負って育ってきた彼女にとっては、唯一私という存在だけが汚点であり、憎悪の対象になっている。
自らの手を汚さずにというのなら喜んで殺そうとするほどに。
「ふん…………無視とは、良いご身分になったことね」
それでも今は、旦那様の厳命で私に直接危害を加えることはなくなった。
むしろ、そのせいで鬱憤が溜まりつつあるというのもあるのかもしれないけど。
「…………まだ、今日は発言の許可を頂いておりませんので」
しかし、許可を出すか、問いを投げかけるまでは、自分と同じ顔で話すなという言葉は、もう忘れてしまったのだろうか。
そう思いながら伝えた言葉は、それすらも悪く取られてしまったようで、相手のこめかみに青筋が浮かび始めた。
「っ…………まぁ、いいわ。ほら、許してあげるから、何か喋りなさいよ」
そう伝えられはするものの、あまりにも抽象的過ぎて困惑してしまう。
今は、何に対しての会話なのか、家畜という単語?それとも、良いご身分?
時間をかけることすら悪手だとはわかりつつも、何を言っても相手の機嫌を逆なですることになるのが容易に想像できてしまい、口を噤む。
というよりも、そもそもこの婚姻は、私が決めたことじゃないのだ。
そのことでこれほど不機嫌になられても困ると、とりわけ理不尽さがました最近思うようになってきた。
(ううん……そうだからこそ、余計に腹立たしいのか)
選ばれることのない私が彼女を差し置いて選ばれたこと。
しかも、それがあり得ないほどのお相手からの申し出だ。
自己顕示欲の塊である彼女にとっては、とても許せたことではないのだろう。
(…………でも、それなら、どうすればいいの?)
選ぶ権利のない私に、何を言ったところで無駄だと、頭のいい彼女ならわかっているはずなのに。
「言葉も喋れないの?早く何か言いなさい」
「………………文句は、お相手にお申し付けください」
「おのれっ!…………くっ、もういいっ!どうせ、すぐに追い出されてお終いよ」
そんなことを思っていたからだろうか、そんな言葉が出ていってしまったのは。
しかし、言ってしまったものはもうどうしようもないと、足取り荒く立ち去っていく妹と、それに慌てて付いて行く女中の姿を黙って見送る他ない。
(はぁ、もうどうでもいい…………私はただ、灯様との約束を守れれば、それで)
自死は選ばず、可能な限り生きる。
端的に言えばそんなものだ。
『……………………炭玲は、残酷ね。でも、いいわ。付き合ってあげる』
普通なら、それに幸せにという言葉もつけられるのだろうけど、そうはしなかった。
生きる。たったそれだけのことが、その時の私達にとってはどうしようもないほどの壁になっていたから。
(…………見ていますか?私は、まだ思い出せますよ)
貴方の痩けた頬も、掠れた声も、氷のように冷たい手も、全部。
もはや、この約束に意味なんてない。
そもそもこれは、灯様に死んで欲しくないために、私のわがままで始まったものだ。
『ふふっ。もしかしたら、私の方が長生きしてしまうかもしれないわよ?』
でも、守らなければいけないし、守りたい。
きっと、薄れゆく記憶の中、それすらも失ってしまえば、私は宝物を失ってしまう。
(…………それに、貴方に比べればまだマシですよね)
年を越えられないと宣告された後も、最期の最期まで足掻き、吐いてしまう食べ物を無理やりにでも詰め込んで、三年も生を繋いだ灯様。
今際の時にあっても、私のことを案じてくれた、生涯の主。
ほぼ唯一といっていいほど、私の名を口ずさんでくれたお人。
『貴方のこと、飽きたの…………だから、もう、ここには来ないで。いえ、来ることは許さない。知ってた?今まで、お情けで付き合ってあげていたけれど、内心ずっと馬鹿にしてたのよ?本当に、愚かな子だってね』
その拒絶ですら、優しさに溢れていて。
強まる呪いに、私の身を案じてくれたことは、明らかだった。
『…………はぁ。もういい、わかった。ほら、私の負けよ。貴方がそこまで強情だったなんて知らなかったもの』
力を持たぬ私でもわかるほど捻じれた空間に、それでも温かさを感じた。
ここで死ぬなら本望だと、そう心から言えてしまうくらいに。
『………………炭玲。貴方は、私の太陽。下らないこの世界で、たった一つだけ価値のあるものだった。だから、どうか、それに見合った幸せを手にして頂戴』
なら、私はその気高き姿に恥ずかしくないよう、生きていくべきなのだ。
溶けゆく宝石を繋ぎとめるために、自分の内に留めておくために。
原型の無いほど歪められてしまった灯様の風評すらも、呑み込みながら。