埋もれた逆鱗
乱雑に頭から何度も被せられるお湯。
細くやせ細った体に、それを支えることすら難儀するも、それ以上の気持ちよさが心の元気を取り戻させてくれていた。
(ああ……温かい)
乱雑に切りそろえられたぼさぼさの毛に纏わりついた水滴は、未だ湯気をあげていて視界をぼんやりと曇らせる。
(………………いつぶりだろう)
これだけの水を、温めるための薪を、自分のために用意することなど私には難しい。
手に、足にある大小の擦り傷に痛みが沁みゆくも、そんなの気にならないほどにこれは有難いもので、そここそ、最後に入ったのは、確か――。
◆◆◆◆◆
西方では魔物、東方では怪異と呼ばれるそれが古の時代より脅威として存在し続ける世界。
東の雄として知られるこの国では、術式――只の人の身では起こせぬ超常を顕在させるその力の源を受け継ぐ者達が貴族と呼ばれ尊ばれてきた。
そして、その中でも選りすぐりの一族である南雲。
私はそこの末席に位置する篠崎家の双子の片割れとして生を受ける。
本来であれば、そこそこの、平民からしてみれば比べようもないほどの贅沢ができるような恵まれた生まれだったのかもしれない。
でも、妹とは違い、その身に必ず刻まれるはずの術式を持たない私にとってはそうではなく、最初から呪われた子――忌み子として最下層の扱いを受けていくこととなった。
父と母からはなかったものに、瓜二つの顔を持つ妹からは殺したいと思われるほどに憎悪され、挙句の果てには家に仕えている下人からすらも、私はどう扱ってもいいモノだと、そう認識されている。
きっと、そのままであれば、私はただ動くだけの抜け殻として生きて、何も感じぬままに野垂れ死んでいただろう。
でも、そうはならなかった。
もしかしたら、そのせいで辛い世を今も生き続けてしまっているということもあるのかもしれないけど。
ただ唯一、私に深い愛情を注いでくれたかつての主人。
同じ忌み子でありながらも、気高くあり続けた、南雲 灯様と、出会えたおかげで。
◆◆◆◆◆
「ああ、汚い。ほんと、なんでこんなの選んだのかしら」
余りの気持ちの良さ。
そのせいで、過去に想いを馳せかけていた意識が急激に現実に引き戻される。
(…………ちゃんと、定期的に水浴びはしてたんだけどな)
その言葉は言えないまま、擦られれば擦られるほどに剥がれ落ちていく垢を黙って見つめ続ける。
「やっぱり、間違いじゃないの?」
「でも、旦那様はこっちだって」
「えー。もしかして本家の方は、贅沢し過ぎてゲテモノの方が好きになっちゃったのかしら」
痛いほどに擦り付けられ始める布に為されるがまま、その女中たちの蔑みともとれるような言葉を、時折自分の口から出ていく、くぐもった悲鳴と共に聞き流す。
(………………鱗を剥がされる時の魚って、こんな気分なのか)
赤くなる肌。それが、衣服で覆われるだろう所のみなところに、余計に悪意を感じる。
ある意味、日常を感じさせるその光景が、不可解な出来事に混乱した頭を、現実に引き戻してくれるというのは何とも皮肉なことだろうか。
「どうせなら、火凛様の方を娶ればいいのにね。お顔だけなら、瓜二つなんだし」
しかし、妹の名前が出たことで、一瞬体が強張る。
ある種トラウマになりかけてすらいるその存在を、この二人は知っていて口ずさんだのだろう。
仄かに、歪んだ口元に、何となくそんなことを思わされてしまう。
「そうよそうよ。術式を持たざれば人に非ず、お貴族様達は、そうじゃなかったのかしら?」
そう生まれたかったわけじゃないと、言い返せればどれだけよかっただろう。
もし、それだけで人ではないというならば、貴族ではない貴方達も同じではないかと。
(…………立場が違うのは、わかってる)
当然、貴族の家に生まれたくせに、術式を受け継がなかった自分こそが欠陥品なのだということは理解している。
でも、私だって人一倍は働いているのだ。
誰よりも早く起き、誰よりも遅く寝て、そのくせ与えられるものはそれに見合わず、食事すらも自給自足が当たり前。
それなりに教養を身につけた女中までとは言うつもりはない。
せめて、同じような仕事をしている下人程度の扱いはして欲しいというのは贅沢なことなのだろうか。
「こんなのが、本家の奥方様になって贅沢をするの?ほんと、腹が立つわね」
「………………………………………………」
何も言い返すことは、しない。
贅沢ができるかなんてわからないという、未来への不安も。
それが、何の解決にならないことは、痛みとともに思い知っている。
たとえどれだけ正しくても、理があっても意味がないのだ。
受け入れることが最善で、私に唯一のできること。そうやってずっと生きてきた。
――私の話し相手になってくれる人は、もういなくなってしまったから。
「…………そういえば、昔は本家にも、呪われたお方がいたそうよね」
「……ああ。そういえば、そうだったわ。確か、今のご当主様の――」
しかし、そうやって自分の心を落ち着け、絶望に目を背けながらも再び前を向こうとしたその時。
不意に、私にとって鬼門とも呼べる話題が飛び出て、相手を強く睨みつける。
「…………なによ?」
らしからぬ怒気を込めたせいか、一瞬怯えを滲ませた二人は、やがていら立ったようにそう問いかけてくる。
でも、いら立っているのはむしろこちらの方だ。
何事においても従順な私が、これにだけ噛みつくせいで、最近では誰もが触れてこなかった話題を、なぜ今更になって蒸し返してくるのかと。
それは、自分達よりも弱い、虐めの対象が家を出て行くからだろうか。
それとも、何の反応も示さぬ私を、もっと追い詰めたかったからだろうか。
いや、例えどんな理由であろうと許すわけにはいかない。
欠片すらも、侮辱させるわけには、いかなかった。
それこそ、怒りが――燃え滾り今にも吹き出してしまいそうなほどの激怒が、この体を支配しているのだから。
「……もし、それ以上言うのならば、舌を噛み切ってここで死にます」
自分でもぞっとするほど、平坦な声で伝えた言葉は、脅しだった。
ある意味それは、旦那様の威を借る方法。
普段なら、たとえ痛めつけられても、相手が気味悪がるまで向かっていくことしかできなかったけれど、商品となった今ならば、話も変わってきている。
「ふん。なにを…………っ」
浮かびつつあった酷薄な笑みが、だんだんと青く染まっていく。
恐らく、彼女達も理解したのだろう。
今この時点だけにおいては、双方は一蓮托生だと。
私が死ねば、誰が責を負わされるのか。
そして、決して使用人に優しいわけではない旦那様がどんな報いを受けさせるのか。
「どうしますか?まだ聞かされるようなら、私は耳を閉ざしますが。それこそ、永遠に」
わかっていたはずだと、その意味を込めて改めて伝える。
例え歯がかけるまで、骨が折れるまで痛めつけられたとしても、その話題にだけは牙をむくと。
私にだって、譲れないものがあるのだ。
たった一つしかない宝物。それを汚されるくらいなら死んでもいい言えるようなものが。
「…………立場が変わった途端。急に強気になるなんて、みっともないとは思わないの?」
「なんとでも、言ってください。いつものように。でも、私が突き付けるのは、沈黙か、双方の死か、それだけですよ」
謝罪も、反省も求めることはしない。
せめて、私の前でだけでも汚さないでいてくれれば、それで。
「くっ………………まぁ、いいわ。どうせ、もうこれでおさらばなんだから」
「ありがとうございます」
「っ!」
相手の答えに、ただ謝辞を述べすぐに引き下がる。
他に話すことなんてない、
どうせ、どんな答えだろうと、気に入らないのはわかっている。
(………………灯様。あの世とやらに行けば、またお会いできるんでしょうか)
そして私は、再び口を閉ざした。
薄れつつある、自分の中の宝物。
かつての主――今はもういない、その方との幸せな記憶をもう一度、噛みしめるように思い出すために。