縁談
疲れ果て、這う這うの体で戻ってきた自分の住まい。
真っ暗な中、決められた位置にいつもある網掛けの筒を数度叩くと、その中にいる月光虫達が仄かな光を灯し始めた。
「ふぅ、やっと終わった」
そして、木くずを集め火を起こし、それが柔らかい灯を揺らしながら大きくなる中。
限界間近の手足を伸ばし、少しでも明日の作業に影響がないように解きほぐしていく。
「確か、塗り薬は……」
「炭玲はおるかっ!」
「っ!」
しかし突如、蹴破られるように開かれる扉に驚き体が跳ねる。
同時に、この相棒とも呼べるボロボロの納屋も驚かされてしまったようで、至る所から軋む音を響かせているのが聞こえてきた。
「………………こ、これは、旦那様。このような出迎えで申し訳ございません」
旦那様――一応は父であるその人の、先触れすらない突然の来訪に、内心驚きながらも深く頭を下げ出迎えの姿勢を取る。
会うのは、いつぶりだろうか。いや、名前を呼ばれたことすらあっただろうか。
すぐには思い出せないほどの遠い記憶に、しかし、たとえ分かったのだとしても意味はないことだとすぐに考えることをやめる。
「うっ……なんだ、この臭いは…………いや、今はそれどころではないな」
血抜きされた獣、すり潰された薬草、隙間から入ってくる砂ぼこり、挙句の果てには浴びる水すら碌に確保できぬ汚い身だ。
よくぞここまでと揃えたそれらが入り混じった臭いは、清潔な本邸で過ごし慣れた旦那様にとっては、顔を顰めるほどのものだったのだろう。
とはいえ、その気になれば使用人に指示して――もしくは、その術式に力を込めて、潰してしまうこともできるだろうこんなあばら家に、今なお何もせずに留まることがそれだけ大事であるということを暗に示していた。
(なんだろう。旦那様が直接なんて…………………………)
積極的に関りを持ち、こちらの存在を否定したいという意思を見せる妹とは違い、そもそも存在を無かったものにしたいと常々思っているだろう旦那様が私に関わってくることは無いに等しい。
私が今日もいつも通りの生活を過ごしていたことを考えると、自身では知る由もない、外から持ち込まれた出来事なのかもしれなかった。
「よく聞け……お前の嫁ぎ先が決まった。しかも、お相手はあの南雲家だっ!これほど嬉しいことはない」
「それは、おめでとうございます」
上機嫌そうな声色に、刷り込まれた合いの手が口から出ていく。
それはそれは、喜ばしいことだ。不機嫌で手を挙げられることがないだけでも、私にとっては望ましいと、内心そんなことを思っていたその時。
――ふと、会話の中に違和感のある言葉が置かれていることに、気づかされる。
「…………………………ぇ?」
嫁ぐとは、どういう意味だっただろうか。
昔、教えて貰った言葉。
確かそれは、本来は私に縁のない意味を持つものだったはずだ。
「これで、お前にも価値が生まれた!目出度い、本当に、目出度いぞ」
しかし、戸惑い、理解の追い付いていない私の様子など眼中にないらしい旦那様は、声だけでもわかる上機嫌さで会話を続ける。
恐る恐る視線を上げ様子を窺うと、頬は子どものように紅潮していて、興奮していますというのが一目瞭然だった。
(嫁ぐって、私を嫁に貰うってこと?…………ありえない)
しかし、そうは思うもののこの異常なほどの機嫌の良さは、それが事実に近いだろうことを物語っている。
確かに、旦那様にしてみれば願ってもない話。
ある意味、そこらへんに転がっている石ころを気まぐれに懐に入れていたら、それが宝石の価値で引き取られたのに等しい。
いや、もしかしたら石ころほどの価値すらこの人にとってはなかったのかもしれない。
「…………おめでとうございます」
独り言のように続けられる会話に、何かを尋ねるということは求めていないのだろう。
正気を疑ってしまうような内容に混乱するも、それでも私に許されることはただこの返事だけ。
刷り込まされた言葉を返すことしかできなかった。
「術式を持たぬ忌み子が生まれた時はどうしようかと思ったが、慈悲をかけてやってよかったというものだ。ははははっ、寛大な主人でよかったのう」
「…………………………ありがとう、ござい、ます」
主人……その言葉に反応しかけた体を押さえつけ、ただ俯いて血が滲むほどに唇を噛みしめる。
――幼少期、ほんの少しの間だけでも、幸せだった記憶。
大事に大事にしまい込んで、毎日のように夢で見るその光景を、今この時だけは思い出すべきではないと蓋をするために。
(………………言い返せるようなことじゃない。だから、ダメ)
蠅のたかったゴミを食事だと投げ込まれ、毎日手足が動かなくなるまで働かされる日々。
感謝の言葉、あるいはねぎらいの言葉すらもかけられたことはなく、蔑まれ、物として扱われ、無視され、虐げられ、心を凍らせてやり過ごす日々。
そのなものであったとしも、ここで飼われているということに変わりはないのだ。
例えそれが、普通の奉公であればお釣りとなって返ってきているだろう働きを既にしているのだとしても。
その慈悲だの宣うそれが、本当のものを知った後では侮辱に等しいものだと理解していたのだとしても。
「しばらくの間、本家に奉公に行かせたのは、やはり英断だったようだ。一応、焔様とは面識があるのだろう?」
「っ……まさかとは思いますが、お相手は、焔様なのですか?…………いえ、申し訳ございません」
「ははははっ。まぁ、今日ばかりは許そう。お前が驚くのも、無理もないからな」
「………………ありがとうございます」
あまりにもあり得ないこと。
思わず、相手の意にそぐわぬ言葉が出ていってしまうほどに驚かされるものの、すぐに我に返って謝罪をする。
恐らく、普段であれば私がそんなことをすれば罰を免れることはできなかっただろう。
しかし、旦那様は未だ上機嫌なままで、鳥肌が立つほど気味の悪い笑顔をこちらに向けてきていた。
「夢のような話ではあるが、確かにお前の相手はあの焔様だ。それこそ、これ以上の良縁などとても望めぬ」
由緒正しき『南雲』の一族。
遥か遥か遠縁ではあるものの、我が家も一応はそこに連なってはいるらしい。
しかし、私の相手はその中でも雲上人といってもいいお方だった。
南雲本家、二十一代目当主。南雲 焔様。
帝すら頼りにする当代最強の術師であり、それを抜いても戦では負け知らずの軍神。
その上、抱えた精兵以外は数手遅れているとされていた領地を、他の名家と遜色ないほどに発展させた実績もある。
まさに神に愛された天才。
先代当主を力で排斥したという血塗られた過去があるにも関わらず、ここから南雲は始まるのだと、初代様よりも上位に置く分家もいるほどだと女中たちが噂しているのを聞いたこともあった。
(…………どう背伸びても、釣り合わない。それに、面識があるとはいったって、そんなの)
確かに、灯様に仕えていた頃に僅かばかりの面識はあった……あったけれど、悪い印象のものに過ぎない。
しかも、相手にとっても、自分にとっても。
なら、こんな正気を疑うような縁を繋いだのは旦那様の方なのだろう。
よくもまあ、そんな怖ろしいことを相手にいえたものだと正直感心してしまう。
「………………よく、先方がお許しになりましたね。さすがは、旦那様です」
皮肉交じりの言葉に、賛辞を付け加えて誤魔化す。
口に出すことすら狂気の沙汰なのに、今私にその話をしている以上、旦那様はそれを通してしまったのだろう。
これまでのことを帳消しにして、ある意味尊敬の念すら湧いてきてしまうほどだった。
(きっと何か、裏があるのだろうけど)
南雲本家にとって、何か旨みのある話がなければ相手が承諾することはありえない。
とはいえ、その裏事情とやらが私に知らされることはないので考えるだけ無駄だ。
どちらにせよ、頷く以外の選択肢が私には許されていないというのもあることだし。
(…………何か指示があるなら、それをすればいい)
出来ることの少ない私にそれほど求めることはないだろうと、頭を空にして再び頭を深く下げる。
「ん?」
「え?」
しかし、そのまま粛々と話が続くのだと、そう思っていた時。
どこか噛み合わないとでもいった風に、会話が止まってしまう。
「………………ああ、そうか。なるほど」
「……何か、お気に触ることを申し上げてしまいましたか?」
「いや、そうではない……そうだな。それは違うとだけ、伝えておこう」
「違う、ですか?」
「そうだ。そもそもこれは、焔様ご自身によって、反対を押し切ってでも進められた話だ。それこそ、条件は破格過ぎて、恐ろしいほど。逆に、心当たりはないのかと私が聞きたかったくらいなのだぞ?」
「………………………………………………………………え?」
そして、やがて得心の言ったような声色で話し始めた旦那様は、これまで以上に不可思議なことを私に伝えてくる。
もしかしたら、これは冗談で、愛想笑いを浮かべるところだろうか。
そうしばらく待ってみるも、若干戸惑いがちの顔は変わらず、それが事実だということを物語っている。
(……心当たり?私に?そんなの、あるわけ、ない)
過去に自分がしたことを思えば、嫌われていてもおかしくないような相手。
好かれていることなど、どれだけ都合よく考えてもありえない。
もしかしたら、仕返しをしたいという線はあるのかもしれないが、それでもわざわざ嫁として迎え入れることなどないはずだ。
いや、むしろ、下人としてならまだしも嫁として、こんな見すぼらしい女を一時的にでも引き取りたいなどと、私でも絶対に思わない。
やせ細り、年齢を伝えれば誰もが驚くだろう小さな体。
全身は擦り傷だらけで、長年の積み重ねのせいか女性らしい肌の柔らかさは欠片もない。
そのくせ石を削って作った短刀で揃えた毛先は箒のように枝分かれし、指で漉けないほど凝り固まっている。
(………………こんなの、その辺の集落から子どもを連れてきた方が、まだいい)
ありふれた村落の子であっても、汚れと、臭いがしないだけ、幾分かマシだろう。
だからこそ、本当にその理由がわからなかった。
「…………そんな……私には、見当も」
「だろうな。だが、事実だ。既に、本家の家紋付きの書状も頂いている」
そして、そのことは旦那様にもわかっているのだろう。
私の方に理由はない。あるなら、それ以外のことなのだと。
「……申し訳、ありません」
「よい。どちらにしろ、することは変わらぬ。今日からは、本邸の方に住め」
「……かしこまり、ました」
「世話役もつける。引き渡される時までは、何もせず、ただ教えられることを覚えよ」
「……かしこまり、ました」
何度自問自答しても、理由の糸口すら見えてこない不可解な出来事。
どこか心ここにあらずといった調子で、頭をぼんやりとさせる私に対して、旦那様の方はその利のある商談をなんとしてでも物にしたいのだろう。
外に待たせていたらしい使用人を呼びつけ、矢継ぎ早に指示を出し始める声が聞こえてきた。
「受け渡し日までに、ものにしろ。今回は、金に糸目を付けずともよい」
「はい、旦那様」
「………………ふむ、そうだな。身に着ける物は全て赤で統一する。炎を司る南雲家には、それが相応しいだろう」
「かしこまりました」
そして私は、その日を境に自室にしていた納屋から追い出され、私物を一切処分され、まるで人形のように世話をされ始めた。
まるで、店頭に並べる商品を、少しでも見栄え良く見せるため、足掻くかのように。