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通すべき筋【翠嵐視点】

 

 夜警に万全を期すため、しばらくはここにとお連れした自身の居館。

 少し驚いたように周りを見渡す奥方様を見ていると、やはり一度御屋形様に話に行った方がよいかと思わせられる。


(……奥方様が相応しき器を(しか)と示された以上、某がこれでは話になるまい)


 仕える御方よりも立派な居を構えるなど、以ての外だ。

 いくら陪臣の者が多いとはいえ、これ以上の特別扱いは許されることではない。



「申し訳ございません。直に、この屋敷は引き払いますゆえ」


「…………え?なんのことですか?」


「……奥方様のお住まいに対して、某のここは明らかに過分。それを正そうかと」


「……へ?い、いえ。私は、好きであそこにいるので全然かまいませんよ?」


「なりませぬ。やはり、筋はしっかりと通しておかねば」



 取るに足らない相手であるならば、追い出そうと考えていた。

 しかし、奥方様はそうではない。

 少なくとも、その心根は強く、真っ直ぐ芯が通っており、この境遇でよくぞここまでといっていいほどに、美しく磨き上げられている。 

 であるならば、こちらもそれ相応の態度で臨まねば失礼に当たるだろう。



「………………いえ。やっぱり、このままで大丈夫です」


「しかし、それでは――」


「会って間もない私を、翠嵐様はいつも心配してくれました。今日も、わざわざここに招いて、守ると、そうおっしゃってくれたんです。だから……筋なら、もう通ってると思います」


 

 静かな、それでいて、凛とした声が響き、自分が言いかけた言葉を塗りつぶしていく。 



「………………そんなことは、当然ではございませんか」



 見極めは既に終わり、結果は言うに及ばない。

 武も知も何もかも恵まれた南雲においては、無駄に出しゃばらず、主を貞淑に支えられるということが求められる。

 そして、そこに照らし合わせるならば、この健気さと、奥ゆかしさを持つ奥方様は最上といってもいいだろう。

 しかも、その小さな体には強さと弱さが絶妙な加減で混ざり合っていて、個人的にも好ましいと感じているほどだ。

 

(忌み子など、些事でしかない。もし、呪いが牙を剥くと言うならば打ち破ればいいだけ)


 御屋形様に加え、自身も含めた三羽烏さんばがらすと呼ばれる傑物。

 それが揃った今の南雲に、人も怪異も相手になるものなどいるはずもない。

 それこそ、いにしえより語り継がれる上位の怪異ですらもここを恐れて近づくことはなくなっている。



「いついかなる時も……たとえこの身を盾にしようと、某は貴方様をお守りするでしょう」



 絶対の自負がある直感が、この方が是だと、そう言っている。

 ならば、迷う必要もない。

 自身の道は、西園寺を出たその日から常に正しき道を歩み続けているのだから。 



「…………あり、がとう、ございます」


「っ!どうなされました!?何か、失礼なことでもっ」



 しかし、思いを新たに、再び忠義を正そうと思ったその時。

 何故だか奥方様が目元に涙を浮かばせ始め、戸惑う。



「…………ごめっ……ごめん、なさい。ただ……嬉しくて」


「嬉しい、ですか?」


「……………………はい」


 

 会話を思い返しても、可笑しなところなどない。

 ただ、主従の当然の義務を果たそうとしているのみ。

 余計に混乱する頭に、もしかしたらそれが表情に出ていたのだろうか。

 奥方様は涙を流して真っ赤になってしまった目を一度擦ると、はにかむように笑いかけてきた。



「…………当然だって……守るって。そう言って貰えて…………嬉しかったんです」


「っ!」


「………………それは、今まで灯様といる時しか味わえなかった幸せだったので」



 その言葉に、その笑顔に、痛いほどに胸が苦しくなる。

 今まで自分は何を見ていたのだと、殴りつけたくなる。


(…………何をどうしたら、こうなるのだ)


 報告書には一通り目を通し、ある程度は理解していたつもりだった。

 しかし、もしかしたら、自分が知っていた気になっていたのはその上澄みでしかなかったのかもしれないと思わせられる。

 

(集めた情報は、使用人達の主観が多くを占める…………ならば、挙げられなかった部分は……それが異変と思われぬほどに日常になっていたということだ)


 そこから考えていくと、感じていた違和感が、徐々に結びついていく。

 変形したように見える指の関節、傾きがちの体幹、目が合うと弱気に逸らされる視線。

 恐らく、湯あみをするときになれば、より多くの暗い記憶がそこには刻まれているのだろう。


(………………いや、過去はいい。今は、ただ)


 高まる怒りに空気が震え始め、一度息を吐いて感情を落ち着ける。

 怯えさせることになっては、本末転倒だと、そう言い聞かせながら。



「…………………………これからは、炭玲様とお呼びしてもいいでしょうか?」


「え?」


「…………お嫌でしたら、これまで通りお呼びしますが」



 何故か、そう呼びたいと思った。

 いや……違う。きっと、この自分のことを全て二の次にしてしまうお方は、奥方様と呼び続ければ本当に奥の奥でじっとしてしまうとわかったのだ。

 慣れぬ環境で、慣れぬ立ち位置で、それを台無しにしないように身を引いてしまうと。


(…………不敬なのはわかっている。しかし、それでも、某は)


 奥方様ではなく、一人の人として、接したい。

 御屋形様と出会った時のように、強く惹かれてしまったから。



「いっ、いえっ!嬉しいです、とても!!」


「ふっ……はっはははは。そこまで大声で言わなくても、聞こえておりますよ」


「あっ、その………………………………申し訳ありません」



 短く切りそろえられたくすんだ灰色の髪。

 そこから顔を覗かせる耳は、これほど人は赤くなれるのかと思えるくらいに茹で上がっていて、なおさら笑いがこみ上げてくる。


(御屋形様、申し訳ありませぬ。どうやら某は……また負けてしまったようです)


 二度と負けぬという言葉と共に捧げた臣従の誓い。

 しかし、きっと我が主はそれを咎めることはあり得ないだろう。


(…………いや、御屋形様も負けておるのだ。某が勝てるはずもない)


 この家でもっとも強き御方の心を手に入れし者。 

 ならば、結果など既に最初から決まっていたのだ。



「ははははっ。本当に、貴方というお方は…………狂おしいほどに愛らしい」


「………………………………揶揄わないでください」

 


 抑圧されることに我慢できず、家の外へと飛び出した自分。

 それに対して、ただひたすら耐え続けてきた目の前のお方。

 

(…………次は、幸せを。逃げなくても、耐えなくても、いいように)


 そして、無意識に動いた体が相手を強く抱きしめる中。

 通りかかった女中が腕の中でぐったりとする炭玲様に気づくと、屋敷の中に大きな声が響き渡ったのだった。








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