帰郷
朝起きてすぐ、心臓が飛び出そうなほどに驚いて、体が跳ね上がる。
「っ!?…………ああ、そっか……私、帰ってきてたんだ」
しかし、だんだんと昨日の記憶が蘇っていき、その懐かしく、幸せな記憶の宿った場所に戻ってきたのだということを理解すると、胸の奥がじんわりと温かくなっていく。
「………………残ってて……本当に……本当に…………よかったぁ」
我慢できずに流れ始めた涙を、何度も、何度も袖で拭う。
しかし、それでも、どんどんと雫は止まることを知らず、ただ袖を重くしていくだけだった。
「うっ、ただ…だだいま…………もどびっ、ひぐっ……まじだ」
視界の端。
そこには、よくこんなものを喜んでくれたものだと思うような下手くそな主従の絵が、襖の方に描かれている。
それに、あの時できた私の精一杯……紙でかたどられた花々に、落書き染みた太陽が天井に若干色褪せつつも残っているのが目に映った。
(………………あの時のまま、変わってない)
何もかもというほどにそのまま残されている空間に、だからこそ余計に涙が溢れてくる。
ようやくここに戻ってこれたのだという喜びと、もう灯様は戻ってこないのだという切なさ。
両方がいっぺんに押し寄せて、どうしようもないほどに心が揺らされてしまっていた。
「まだ…………まだっ……わだじは、あなたとのっ…………………………」
灯様が、恥ずかし気に任じてくれた、一の臣下。
一番最初の、たった一人の――『かけがえのない』私は、たった今、ここに舞い戻ったのだ。
誇れるものの無い私にとって、それはどれほど誇らしいことなのだろう。
でも、本当は、褒めて欲しかった。
おかえりと、そう言って欲しかった。
「………………………………ぅうっ。うあぁぁ」
もう大きくなった私にはそれが、叶わぬことだと、あり得ぬことだと理解できていても。
それでも、私は――また、会いたかったのだ。
あの優しくて、気高くて、何よりも自慢の、『かけがえのなかった』主様に。
◆◆◆◆◆
ほとんど窓の無い、薄暗い部屋。
子どもすら通れないほど小さな隙間から取り込まれる外の光が、どれだけの間私の泣き顔を照らしていたのだろうか。
既に声は枯れ、袖の先は鼻水と涙でズシリと重くなってしまっていた。
「……………………ああ、どうしよう。これ」
昨日の夜は眠すぎて、この屋敷に戻ってきたことしかほとんど覚えていない。
でも、今着ているものが昨日とは変わっており、触れるのすら憚られるほどに上等なものに入れ替わっているのだけは確かだった。
「…………さすがに、殺されまではしないよね?」
昨日の今日で、もう花嫁期間は終わりだということになっていないと信じたい。
しかし、昔火凛様のお気に入りの手鏡を割った女中が、どこかに売られたという話を聞いたこともあるので、もしかしたらと、身震いしてしまった。
「…………灯様。どうか、どうか、私をお守りください」
神様の代わりである私の信仰の対象に手をこすり合わせながら、祈り続ける。
昨日の様子だけ見れば、焔様は温厚な人のようではあるが、もし怒らせてしまったら、もうとりなしてくれるような人はここにはいないのだ。
(昔の無礼も足したら………………何があってもおかしくないもの)
許せない一言に、思わず手を挙げてしまったことを、未だ焔様は覚えているのだろうか。
今思えば、何もお咎めなしというのは奇跡に近かったはずだ。
確かあの時も護衛は刀を抜く寸前だったような記憶もあるし。
「………………………………出会い頭の、土下座。それしかない」
「あー……奥方様?いったい、何をなさっておいでなのです?」
「ひゃあっ!!ど、どなた、ですかっ!?」
しかし、誰もいないはずの部屋に声がして思わず飛び上がる。
ここの廊下は誰かが通ると音が鳴るようにできているはずなのに、全くといっていいほど気づかなかった。
「これはこれは、驚かせて申し訳ありませぬ。某の名は翠嵐。非才の身なれど、御屋形様より侍大将の役を任じられておる者です」
未だ心臓はうるさいほどに喚き散らしているも、相手の静かな声に段々と落ち着きを取り戻していく。
しかし、侍大将いえば、確かお侍衆の一番上。
聞いた知識ではそうではなかったが、もしかして女性がなってもおかしくない役職だったのだろうかと疑問に思う。
「……あっ、申し訳ありません。私は、炭玲。昨日からご厄介になっています」
「……………………某の顔に何かついておりますか?怪訝そうな顔をされていましたが」
「えっ!?あ、そうではなくて。ただ…………いえ。なんでもないです」
「ただ、なんでしょうか?」
近づけられる顔に、後ずさる。
というより、身長差がとてもあるのですごい圧を感じる。
「あ、その」
「ただ、なんでしょう?」
どうやら、聞かずに納めるという選択肢は一切無いらしい。
それこそ、どんどん隅に追いやられる私と、それを追いかけるように迫ってくる相手。
もう逃げ場はすっかりなくなり、観念して答える他なくなってしまった。
「もし、失礼なら、お聞き流し頂けますか?実は私、そういった常識に疎くて」
「お約束します。何でもおっしゃってください」
笑顔ではあるけれど、その身に纏った鋭さが若干の恐ろしさを抱かせる。
けれど、それ以上に立ち振る舞いに気品があって、どこか灯様に通じた雰囲気を感じた。
(…………灯様も、途中まではちゃんとした教育をうけていらっしゃったみたいだし)
紅色の髪が、まだらに、やがて灰色に。
私とは違って後天的にそうなった灯様は、それ故名門の姫に相応しい所作を身に着けていた。
というより、きっと最初から呪われた身で生まれていたならば、私のように卑屈のはずで、あれほど芯の強い方にはならなかったのだろう。
(まぁ、最初の半年は冷たい態度で邪険にされてたけど……あっと、今は目の前のことに集中しなきゃ)
懐かしい場所にいるせいで、きっかけさえあれば過去に想いを馳せてしまう。
私が、意識を戻すために大きく頭を振ると、不思議そうな顔で相手がこちらを見るのがわかった。
「その………………侍大将とは、男の方がなるものだと思っていたので」
「…………………………………………どうして、某が女性だと?」
「もしかして、違いましたか!?申し訳ありません、申し訳ありません」
「……いえ、確かに女なのですが」
「あっ、やっぱりそうですよねっ!よかった」
「……………………………………………………」
性別を間違えたなんてことがあれば、どれほど失礼に当たるか想像もつかない。
そもそも、異性に関わったことがないことからくる特有の緊張感も感じないので、実は男だと言われたら何を信じたらいいのかわからなくなるところだった。
「それで?どうして、某が女性だと分かったのです?」
「……あえて言うなら、言葉遣いと、立ち振る舞い。そんなところに女性らしい柔らかさを感じたから、でしょうか?それこそ、昔仕えていた方に、とてもよく似てるんです」
「…………なるほど、御屋形様の…………しかし、よく覚えられているものですね。かなり昔のことなのでは?」
「その通りです…………でも、毎日といっていいほどよく思い出しているので」
「………………………………それは、その赤くなったお顔にも関係があるのですか?」
「えと……はい。お恥ずかしいことに」
鏡すらないこの部屋ではわからなかったが、やはり私の顔はひどいものになっているらしい。
まぁ、それも当然か。
あれほど泣き喚いて、そうでないはずもないのだから。
「……………………あと、一つだけ教えていただきたい」
「え?あ、はい。どうぞ、いくらでもお聞きください」
「……………………奥方様を動かすものは、なんでしょう。何を抱いて、生きておられるのか」
「それは、どういう――」
「お答えください」
聞き返そうとした言葉を、かき消すようにして再び問われる。
あまりにも強引で、あまりにも不可解で。
しかし、それ以上に真っ直ぐさを感じる。
(…………この人は、強い人なんだな)
きっと、私にはないものをたくさん持っているのだろう。
自分に自信があって、だからこそ、これほどまでに強く生きていける。
(でも、私にだってある。この人に負けないもの)
自分の生きる目的。
道標のように輝き続ける、その光。
「…………約束……ううん。忠義……いや、親愛?尊敬?…………申し訳ありません。改めて言うとなると、難しいものですね」
なんて喩えたらいいのか、それはよくわからない。
けれど、確かにあるのだ。
誰にも渡しくない、私だけの宝物が。
「ふっ。弱々しい態度の割には、欲張りな御方のようだ」
「他のものならどうとでも。でも、これだけは、決して譲れぬものなのです」
「……それは、死んでも、ですか?」
「死んで譲れるものなら、当の昔に私はこれを失っているでしょう」
花嫁に選ばれる以前。
口答えすれば、何をされてもおかしくなかった頃。
私が言い返すのは、決まって灯様のことだけだった。
例えそれでどれだけ罵られようと、どれだけ痛めつけられようと、何度も、何度も。
それこそ、その執念とすら呼べる想いに、火凛ですら気味悪がって口出ししなくなったほどだ。
(大事なものがたった一つしかないのなら、きっと皆そうするはず)
他のものなら、全て渡してもいい。
むしろ、これを守り切れぬ位なら、何もいらないのだ。
約束すら無ければ、生にすら執着せぬような私なのだから。
「なるほど、永久の忠義…………どうやら、某は失礼な思い違いをしていたらしい」
「あの……なんのことでしょう?」
「汚した償いは命を……と言いたいところですが、既に御屋形様に捧げましたものですのでご容赦を。代わりに、この左手を差し出しますゆえ」
「へ?…………いやっ、ダメです!ちょっ……待ってっ!待ってくださいっ!!」
「これも某の短慮の致すところ。お止めくださらぬよう」
「いや、止めないなんて無理です。ほんと、やめてっ。誰かっ!?誰かいませんか!?」
抜かれようとする刀を全身で抱え込んで何とか抑える。
しかし、体は細いのに何という怪力だろうか。
こちらは全力だというのに、怪我させないようにという相手の配慮が無ければ、きっと一瞬で吹き飛ばされているはずだ。
(ど、どっ、どうしよう、どうしよう、どうしよう…………この人、目が本気だ)
少々変わった人だと思っていたがそんなものじゃない。
手綱の無い暴れ馬、もしかしたらそういってもおかしくないような人だ。
というか、意味がわからぬまま、片腕を落とされでもしたら、トラウマになってもう安らかに眠れる日などこなくなってしまうだろう。
「奥方様を食事に呼びに来てみれば…………どうして、侍大将がここにおられるので?練兵場は真反対でしょうに」
「丁度よい」「丁度よかったっ!!」
「…………………………待った」
「奥方様を」「翠嵐様をっ!」
「…………………………待ってくれ」
「腕を」「腕がっ!」
「…………あーくそ。ほんと、なんで……こうなるんだ」
そして、刀身を見せ始めた刀に、もう些かも猶予の無くなってきた時。
不意に現れた見事な体躯の男性に必死に助けを求めると、彼は面倒そうな顔で天井を仰ぎ見た後、理由も聞かずにこちらの加勢をしてくれたのだった。
それこそ、もう慣れたというように、淡々と。
まるで能面のような感情の抜け落ちた無表情で。




