完璧な相手
放課後、外のグラウンドで部活動に励む生徒たちが走り回っているなか、校舎の片隅にある新聞部の部室の扉を、サッカー部のユニフォームを身に纏った凛々しい顔つきの男子生徒が開けた。
その男子生徒が扉を開けると、部屋の中には女子生徒がふたりパイプ椅子に座って彼が来るのを待っていたようだった。彼女たちの目の前にあるテーブルの上には筆記用具やメモ帳、ICレコーダーなどが置かれている。
「網走先輩」
一年生の女子新聞部員、小波紗季は椅子から元気よく立ち上がると、部屋に入ってきたサッカー部部長の網走結城に向かって顔を紅潮させながら頭を下げた。
「新聞部の小波紗季ですっ。それとわたしの隣にいるのは……」
紗季がもうひとりの女子部員を紹介しようとすると、結城が微笑んだ。
「知ってるよ、瀬田さんだろう。去年クラスが同じだったんだよ」
「久しぶりだね、網走くん」
紗季の隣の席に座っている新聞部副部長の女子生徒、瀬田まことは結城に向かってニカッと笑って白い歯をみせた。
「ごめんね、大会直前なのに時間とらせちゃって。練習中だったんでしょう」
「いまウォームアップが終わって抜け出したところだけど、気にしなくてもいいよ。そうだ、直人は今どうしているんだい」
結城が友人である新聞部部長の名前を挙げた。
「ああ、直人ね。彼、今日のお昼休みに椅子の上に置いてあった自分の眼鏡を、うっかりお尻で踏んづけてダメにしちゃってさ」
「それでいま、眼鏡屋さんに行って新しいのを買いに行ってるみたいです」
「へえ。それは災難だったね」
「まっ、あのバカのことは放っておいて、話に移るとしますか。網走くん、そこのあたしたちの向かいの椅子に座って。それと紗季、いつまで立ったままでいるつもりなの?」
「あっ、はいっ」
そういって慌ただしく席につく紗季に、結城はふふっと笑って自分も椅子に座った。
「練習中だってことだし、パパッと手短に済ませようか。紗季、どんな質問をするのか前もって網走くんに教えておいた?」
「はいっ、学級新聞に先輩へのインタビュー記事を載せたいので取材をさせてくださいって、部のほうにお邪魔してた時に、一緒にメモを渡してきました」
「ならよかった。網走くんもどう答えるか考えてきたよね」
「ああ」
「よし、それじゃあ始めよう」
まことは机に置いてある部の備品のICレコーダーの録音ボタンを押し、紗季は自分のメモ帳を手にとった。
「では網走先輩。まずはサッカー部の地区予選優勝、おめでとうございます」
「ありがとう」
「インターハイを目前に控え、いまはどんな心境ですか」
「そうだね。ここまでやってこれたのはサッカー部のみんなで一丸となって、ひとつひとつの試合を大切にしてきたからだ。サッカーっていうスポーツは当然だけど団体競技で、僕一人の力だけではここまで来ることはできなかった。だからこそ、インターハイでも信頼できる仲間とのチームワークを重視していきたいと思ってるよ」
サッカー部の部長として模範的な受け答えをする結城に紗季は感心すると同時に、メモ帳でシャーペンで書き込む手を止めて、どこか爽やかな彼の風貌に思わず見惚れてしまいそうになった。
「紗季、どうしたの」
まことの一声で、紗季ははっと我に帰った。
「いえっ、何でもないです。では次の質問なんですが……」
そういいながら紗季はメモ帳の次のページをめくった。
「ええっと、うちの学校のサッカー部にはちょっと変わったルールがありますよね」
「変わったルールというと」
「定期テストで八十位以内に入っていない部員は、レギュラーメンバーになれないってルールです。聞いたところによると、このルールを作ったのは網走先輩だそうですが、なぜこのような試みを行なっているのでしょうか」
「うん。まず僕は練習中、部員は必ずサッカーのことだけを考えていなければならないと思っているんだ。当たり前のことだけどね。だけどもし成績が悪かったら、頭の片隅で次のテストに対する不安とかができてしまって、それが大きくなると練習や試合中にその選手の集中力を侵す原因になってしまう」
「確かに、それはかなりの致命傷になってしまいますね」
「十一人いる試合メンバーのうちのひとりでもそういった状態になってしまったら、その隙を相手に一気に突かれてしまう。そもそも勉強を根気強くできない人間が、根気強くトレーニングに取り組むことなんか出来るわけがない。だからまずは部員全員にきちんと勉強をさせること、そしてそのうえで部活に全力投球する。そういった環境をつくるために僕はこのルールを作ったんだ」
「厳しいですねえ」
「ただ脱落者が出たら元も子もないから、テスト期間には部員みんなで集まって勉強会をしているんだよ。お互い得意教科を教え合って、苦手を補い合うんだ。僕が思うチームプレーっていうのは、こういう助け合いを含めてだと思ってる。だからこそいまの部の状況は、とても理想的なんだ」
「なるほど、それがうちの学校のサッカー部の強さの秘訣なんですね」
ふむふむと紗季がしきりに感心しているなか、横にいるまことが口を開いた。
「やっぱり。さっきから思ってたけど網走くん、お姉さんにそっくりだよ」
「えっ?」
呆気にとられた紗季がぽかんと口を開いた。
「網走先輩、お姉さんがいるんですか」
「ああ、大学二年生の姉がひとりね。だけど瀬田さん、どうして姉のことを知っているんだい?」
結城がまことに訊いた。
「網走くんのお姉さん、この学校の出身でしょ。それで女子バレーのキャプテンをやってた」
「その通りだけど」
「あたしが一年生の時にね、インターハイに女子バレーが出場するってことで、ちょうどいまの紗季と同じような感じでお姉さんに取材をしたんだよ」
「へえ。先輩のお姉さんって、どんな人でした?」
「僕も気になるな。どんな感じだったんだい」
紗季と結城が興味津々といった体でまことに尋ねた。
「そうだね、本当にいまの網走くんとそっくりだったよ。人当たりがよくて、ルックスも良かったし、それに部活の仲間を大切にしていて……あっ、思い出した」
「思い出したって、何を?」
「さっき網走くんがいってた、テストで点取らないとレギュラーに入れないってルール、お姉さんもバレー部で同じことやってたんだよ」
「ということは、網走先輩はお姉さんのやりかたを手本にしてるってことですか?」
紗季が指摘すると、結城は照れ笑いを浮かべた。
「いやはや、手本にしているっていうか、そのまま真似ているだけだよ。ただ、ものすごくいい考えだと思ったから、うちの部でもやってみることにしたんだ」
「それでさ、網走くんのお姉さんはこういったわけだよ。部長である自分がこのルールを決めている以上、自分がいちばん部活と勉強を両立できていなきゃいけないって。実際その言葉通り、お姉さんがキャプテンをした年のバレー部はインターハイに出たわけだし、お姉さんの成績は学校で一番だったんだよ」
「へええ、すごい人だったんですね。それじゃあ弟の網走先輩も、ものすごく頭がいいとか……」
「いやあ、そんなことはないさ」
謙遜する結城をみて、まことが意地悪そうな笑みを浮かべた。
「嘘だあ。直人から聞いた話じゃ、前の期末テストも学年一位だったらしいじゃん」
「うわあ、凄いですねえ」
「やめてくれよ、そんなに褒められると恥ずかしくなる」
結城が苦々しい笑みを浮かべた。
「あっ、すいません。話を戻しますね」
話が大いに脱線していることに気がついた紗季が、取材に話題を戻そうとした。
「それでは最後の質問です。全校の皆さんになにか言いたいことがあれば一言、意気込みなどをお願いします」
「はい。部を代表して、これまで応援をしてくれたみなさんにお礼を言わせてください。本当にありがとうございます。そしてまもなく始まるインターハイに向けて、引き続き僕たちサッカー部に応援をよろしくお願いします」
「はいっ、ありがとうございました」
紗季がテーブルの上にあるICレコーダーの録音を切った。
「これで終わりかな」
「はい、これで以上です。ただ……」
「ただ?」
「学校新聞に載せるのとは別に、わたしから先輩にちょっと訊きたいことがあって」
「ダメだよ紗季。ただでさえ大事な部活の時間をとってるんだから」
そういってまことは紗季を咎めたが、結城は気にも介していないようだった。
「少しくらいなら別にいいけど」
「判りました。それじゃあ、単刀直入にお訊きします」
紗季はごくりと生唾を呑んだ。
「ずばり、質問です。網走先輩に好きな人っているんですか」
紗季の意外な質問に、結城は目を丸くした。
「ちょっと待ってよ。それ、どういう意味の質問なのかな」
「どういう意味って言われても、そのままの意味なんですけど」
困惑する結城をみて、まことが紗季を冷やかした。
「紗季、あんたもしかして、網走くんのことが好きでそんな質問を?」
「違います! 網走先輩とお話をすることになったって友達に話したら、先輩に好きな人がいるのか訊いてきて欲しいって頼まれたんですっ」
「本当かなあ」
「本当ですよ。先輩、うちのクラスの女子にも人気あるから、みんな気になっているんです」
紗季の言葉に、結城はほとほと参ってしまった。
「ううん、嬉しいことは嬉しいけど。僕に好きな人がいるかなんて、そんなことを訊かれてもなあ」
困り果てた結城の様子を見て、紗季の顔は沈んだ。
「ごめんなさい、迷惑でしたか」
「いいんだよ。好きな人がいるかどうかって話だね……」
結城は口に手をあてて伏し目がちになると、ぼそりと呟いた。
「いるにはいるよ」
「えっ、いるんですかっ」
「まじ! 誰なのっ」
身を乗り出してきた紗季とまことに、結城は戸惑った。
「いやいや、それだけはちょっと勘弁してよ」
「さすがにそれは言えませんかあ」
「知られたら大変だからね」
「だけど色々なところで完璧な網走先輩のことだから、やっぱり好きなひとも完璧なひとなんでしょうか」
「よしてくれよ、僕は完璧な人間なんかじゃないんだから。だけど……」
「だけど?」
紗季が間の抜けた声で鸚鵡返しをした。
「僕の好きなひとは、完璧なひとだといえるかもしれないな」
「わあお。それじゃ、あたしや紗季なんかはお眼鏡には敵わないってわけだねえ」
「さりげなくわたしを馬鹿にしないでくださいよ」
「ごめんごめん。だけど紗季、あんたの友達はどう? 好きな人がいるか頼まれたってことは、網走くんのことが好きだってことになるけど」
「どうでしょうね。みんな宿題を全然やってこなかったり、授業中に寝まくってますけど」
「じゃ、無理か」
目の前にいるふたりのやりとりを、結城は苦笑しながら眺めた。
「話せるのはこれくらいかな。頼むけど、この件は全部オフレコでね。みんなに知られたら恥ずかしいからさ」
「あっ、はい。了解です。だけどわたしに頼んできた友達には、なんて報告すればいいのかな」
「網走くんに彼女を作る暇なんかないとでも伝えておけば?」
「そうですね、それがいいかも」
納得したところで、紗季は「さて」といった。
「変な質問をしちゃってすいませんでした。それと、先輩に好きな人がいるって話は誰にも言いません。内緒にします」
「助かるよ」
「ごめんね、網走くん」
まことが結城にいった。
「わざわざ時間取らせた上に、後輩の変な話に付き合わせちゃって」
「いいんだよ。それじゃ、僕はそろそろ僕は部活の方に戻るから」
「はいっ、先輩、本当にありがとうございました。大会のほう、頑張ってください」
「こちらこそ、どうもありがとう」
結城が席から立ち上がって部屋を出ようとした時、背後から紗季の声が聞こえた。
「それと先輩の恋が成就するの、陰ながら祈ってます」
結城は紗季に微笑むと、そのまま部屋から出た。
数時間後、部活の練習を終えた結城はサッカー部の部室で部活動日誌を書き終えると、それを教官室にいる顧問の教師に渡した。
後片付けを終えて校門から出ると、外にいたクラスメイトたちが結城に声をかけてきた。彼らは携帯電話でゲームをしていたようだった。
「結城、これから帰り?」
「ああ。これから真っ直ぐ家に帰るところだけど」
「ふうん。時間が空いていたら、カラオケにでも誘おうかと思って」
「あたしたち、いまさっき放課後のセンター演習をやったばかりでさ。これからカラオケで気分転換しに行くところだったんだけど。結城くんはどう?」
「遠慮しとくよ。部活終わりでクタクタでさ」
「そうかあ。そうだよねえ」
近くにいる友人たちは一斉に頷いた。
「とっくに部活を引退した俺たちと違って、結城はこれからが本番だもんなあ」
「それじゃあさ、また大会が終わったら遊びに行こうよ」
彼らの申し立てに、結城は首を横に振った。
「ごめん。大会が終わったら勉強のほうに専念するつもりだからさ。遊びに行く暇は、たぶんないかもしれないな」
「真面目だねえ」
「まっ、そこらへんが結城らしいといえばらしいけどさ。とりあえず、部活の方頑張れよ」
「ありがとう。それじゃあまた明日」
友人たちと別れると、結城はひとり家路を辿った。学校から数百メートル先にある駅まで歩いて、そこから電車で七駅先まで乗ったあと、降りた駅から一キロほど歩いた場所にある住宅街に彼の家はある。
駅まであと百メートルほどというところで、歩道を歩いている結城の横に一台のミニバンが停まった。
「結城」
ミニバンの運転席のガラスが開き、中にいた女性が結城に声をかけてきた。彼女の声を聞いて、結城は呆気にとられた。
「姉さん、どうしてここに?」
車に乗っていたのは結城の姉、薫だった。結城の姉というだけあって、薫はとても整った顔立ちをしている美しい女性だった。
「ちょうど近くまで用事があってね。用事が終わってこれから帰ろうって時に、結城が歩いているのが見えてさ。送っていこうか?」
「もちろん」
結城が薫の運転するミニバンの助手席に座ると、彼女のほうから結城に話しかけてきた。
「どう、部活の調子は」
「上々ってところだよ。姉さんのほうは? いまは何の研究をしているんだっけ」
「説明すると長くなりそうだから、ざっくり説明すると脳細胞の研究だね。こっちの調子も上々だよ。論文も教授にほめらちゃったし」
「相変わらず、大活躍みたいだね」
姉のやることに、結城にはこれ以上なんとも言いようがなかった。
「それとね、この話は家に帰ってからみんなにしようと思っていたんだけど……」
「どんな話?」
「なんと、教授からドイツの大学への留学を勧められたのです」
「留学だって?」
結城が素っ頓狂な声をあげた。
「いつから?」
「早ければ夏休み明けにでも、だって。どう思う?」
「どう思うって、すごいに決まってるじゃないか! ……ただ留学ってことは、しばらく会えなくなるってことだね」
「教授の話だと、一年くらいだって。日本を離れる前に、いろいろこっちで思い出作らなきゃだね」
「ああ、そうだね。それにしても……」
「それにしても?」
「いや、やっぱり僕の姉さんは完璧なひとだ、って思ってさ」
この物語はフィクションです。




