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今回も短めです。
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王都でも名高い複数の劇場、劇団が関わる大掛かりな舞台の、主演を決めるオーディションの為に用意された居心地の良い部屋で、精霊の如き神秘的な美貌と優美な体格を持つ青年は認めた手紙を小さく丸めて鳩の足に括りつけた筒に入れ、鈍色の空に放った。
どこにでもいるありふれた薄灰色の鳩が空に舞い上がる姿を見送っていると、不意に黒い影が過る。
「……!」
大きな黒い影に怯えて逃げようとした鳩は敢え無くその強靭な足に掴まれ、しばし自由な翼で羽ばたいていたが、程なくして動かなくなった。
どこぞの鷹匠に使われている証である細長い革紐を足に付けた鷹が鳩を掴んで悠然と去っていく姿に歯噛みし、即座に身を翻した彼の視界で扉が開かれ、地味な装いの男達が部屋に踏み込んでくる、
「ルーディン一座のマルコシアス・ディオン殿に相違ないな? 貴殿に少々伺いたい事がある。王宮までご同行願おう」
セルイムの騎士団の印章を示した男の静かな声と共にその配下が室内に入り込み、退路が断たれた。
この部屋に入った時から、違和感は覚えていたのだ。
通常ならいくらでもある隙や逃げ道があまりにも少なく、廊下を含めて数か所を人で塞げば退路も進入路も完全に断たれてしまう。
しかし、本来高位の貴族や王族がお忍びで使う宿と聞いていたから警備しやすい作りにされているのだろうと思っていたし、実際それもあるのだろう。
自身の正体を思えば嬉しくない場所だったが、それに異を唱えるのは不審に思われる。
部屋を誰かほかの候補者と変えようかと思いもしたが、オーディションに臨む俳優の中で最も等級の高い部屋を与えられた、つまりは主役としてほぼ内定していると見られるこの部屋とそれ以下の部屋の交換を申し出るのは、役者と言う職業につき、王都でも抜きんでた人気を誇る人間が持つ高いプライドを考えれば有り得ず、実行すればやはり不審がられてしまう。
このオーディション自体が一年前には告知され、既に四回の予選を超えて来た最終選考であった事も疑惑を緩めていて、それ故この部屋に甘んじていたのだが、どうやら全てが罠だったらしい。
「これはまた物々しい事で……私にご協力出来る事でしたら、なんなりと」
狼狽えるのは矜持が許さずあまたの男女を虜にしてきた甘い微笑みを浮かべて応じるが、当然男達はそれに動じる事も無く、逃げられぬ位置を確保しながらマルコシアスを促した。
悠然とした態度を崩さぬまま歩きながら、マルコシアスは胸中で舌打ちする。
今夜、学院で開かれる卒業パーティであの娘が事を起こすと言う連絡は受けていた。
愚かな娘のやる事ゆえ、失敗するのは目に見えていたが、目的はリーシャを王妃にすると言う荒唐無稽な事では無くセルイムとユグランの強固な同盟に楔を打ち込むに足る亀裂を入れる事。
この国の法を鑑みれば王太子は廃嫡され、リーシャともども処刑されて第二位の継承権を持つヴィクトールに世継ぎを挿げ替えるだけで終わるだろうが、それだけの愚か者を育てたセルイムに対してユグランの心象は悪くなる。
王太子の好みを調べ上げ、自分に言い寄る彼と同じ年頃の娘の中から愚かななりに狡猾で、男性関係に緩く欲深いリーシャを選んで密かに部屋に招いたのは三年ばかり前の話。
演劇界で生き残るために決して人に知られてはならないと言い含め、幾人もの仲介者を経て逢瀬を重ねながらも完全に心を掴んだと一切感じさせぬ事で激しく執着させ、マルコシアスの言葉であれば如何なる物でも聞き入れる様仕向けた。
その上で、自分がラインハルツの密かに廃された異母兄であると吹き込み、彼女と同じ男爵令嬢でありながら王に愛されるあまり正妃にと望まれた母を嫉妬に駆られた王妃に殺され、本来得られた物を全て奪われたのだと悲しみを見せた。
ある程度当時の情勢を知り、知らずとも良く考えて聞けば多少年数が合わないし、辻褄がそこかしこで合わない杜撰な嘘なのだが愚かな娘はそれを信じ込み、母の無念を果たす為にも、自分は王位に就けずとも自分の子に王位を与えたい、密かにマルコシアスを逃がし、今も気にかけてくれる国王もそれを望んでいるのだと言えばすぐさま協力を申し出た。
元々尻軽で、マルコシアスの部屋に招かれるまでにも他の木っ端役者や見目の良い男を咥え込み、金のある貴族や商人も咥え込んで貢ぐ金を稼いでいたリーシャに、彼女と同学年であるラインハルツを篭絡し、王妃となってからマルコシアスの子を産んで欲しいと言えばすぐさま頷いた。
役者としてだけではなく、王の落胤として存在が知られれば命を奪われるゆえ、決してマルコシアスとの関係を余人に知られてはならぬと言い含め、かつて別の間諜が操った乳母が作った刷り込みに基づく綿密な指示と共に検出されにくい程度の軽度な薬物、少女たちの好む気休めのまじない程度に偽装した軽い魅了効果を持つ宝飾品などをリーシャに与えて近づかせれば、王太子はあっさりとリーシャにのめりこんだ。
それにつれて優秀な側近がその傍を離れて行くと代わりとして予めリーシャに篭絡させておいた血筋は良いが愚かな令息達を引き合わせさせれば、愚か者同士勝手に暴走してくれた。
マルコシアスの中では失敗を前提とした、しかしリーシャを通してマルコシアスにそそのかされた愚か者達だけは成功すると信じている断罪の後のイザベラ王女の処遇については、どうせ実行出来はしないだろうが出来るだけ陰惨にしておいた方がユグランの心象を悪く出来る。
それ故、予め彼女が母国や父王に嫌われていると嘘を吹き込んだ上で娼婦落ちを提案してみれば、美しく気品と知性に溢れる王女を目の敵にしていたリーシャは嬉々として計画を立て、生まれた時から間諜として育てられて陰惨な世界をつぶさに見て来たマルコシアスですら辟易とする様な残酷な算段を整え、他の間諜伝いに接触を持たせた裏社会の人間に手配させていた。
断罪が実行され、ラインハルツとリーシャが失脚した後はイザベラ王女を溺愛するユグラン国王の怒りで両国の関係は揺れるだろう。
優秀なヴィクトールに王位が移るのは有難く無いが、どの道十五年前に仕込んだラインハルツは出来が悪すぎ、何のきっかけで廃嫡されるとも知れなかったからせっかくの手札が無駄になる前に有効的に破滅してもらい、まだ混乱が収まらぬ内にヴィクトールを暗殺して、彼よりも扱いやすい相手を王位に据えるのが上の狙いらしい。
しかし、こうしてマルコシアスに手が回ったと言う事は相当深い部分まで計画が知られていたのだろうから計画は頓挫、そして自分は無事に逃げ延びる事など不可能だし、よしんば逃げ延びたとしても祖国に切り捨てられるのは明白だった。
これから受ける拷問を思えば今のうちに自害した方が良かろうと思い、微笑んだまま奥歯に仕込んだ毒を噛もうとした所で口の中に剣の柄を乱暴に突きこまれる。
「ぐっ…………がっ……!!!」
前歯が折れる痛みに呻いた隙に口の中に布の塊をねじ込まれ、剣の柄を抜いてから腕を縛り上げられた。
「自害は許さぬ。全てを白状するまで、貴殿に死が認められる事は無い。覚悟召されよ」
痛みに眉を顰めつつも、元より体術や武術は護身程度、諜報や裏工作、美貌を生かした敵勢力の攪乱を専門としていた自分では、これ以上の抵抗は無意味と考えて力を抜いた体を騎士の一人が担ぎあげた。
親の顔も、どこで生まれたのかも知らず、物心が付いた頃には既に間諜として厳しい訓練を受け、抜きん出た美貌と演技力を生かした役目を幾つとなく与えられて生きてきた。
己の名すら、マルコシアスは知らない、というより最初から持っていない。
今の名は旅役者の子として生まれ、王都で役者になる事を夢見ていた、今は土の下で一座もろとも朽ちているだろう少年の物だし、選択の余地も無く忠誠を誓わされた母国の王族は顔すら見た事も無く、祖国への愛着も無く、ただ道具として扱われるばかりの人生だった。
自分を捕縛した騎士達はマルコシアスから情報を得ようとしているのだろうが、彼が知っている事など僅かなものしかないからさぞ落胆するだろう。
さしたる感慨も無く騎士の肩で揺られながら遠からず終わるだろう人生を振り返るうちに、幾度か劇場に現れ、楽屋にも見学とねぎらいに訪れたイザベラ王女の面影が脳裏をよぎった。
気品と共に慈愛ある微笑みを浮かべる美しい王女の傍に控えた、双子と思しき男女の護衛は物腰からして間諜、影としての教育も受けた者だろう。
眼差しからあふれ出る程に強い心からの忠誠を王女に向け、その主からも大切に扱われる彼らを羨んだ感情は、マルコシアスにとって数少ない人間味のある記憶だった。
自分もあのような主に仕える立場に生まれていれば、違う人生もあったのだろうかと漠然と思う。
どちらにせよ、もう終わった事だ。
物として育てられ、物として生きた自分の人生が終わっても世界には何の影響も無いし、自分自身にすらさしたる情動は無い。
聊か乱暴な足取りに時折頭を打つ事さえなければいっそ眠れたのに、とすら無感動に思いながら、マルコシアスは蒼玉と称えられた瞳をゆっくりと閉ざした。
その夜、王都でも一位と言われる絶大な人気と美貌、高い演技力を誇る役者の一人が人知れず姿を消した。
彼に傾倒する、男女問わぬ多くの信奉者達は大いに悲しみ、道ならぬ愛の為に駆け落ちしたのだとか、あまりの美しさに神が御許に呼び寄せたのだとか、或いは敵国の間諜であり、発覚を恐れて逃げたのだとか様々に噂されたが、やがてその名は忘れられ、華やかな演劇界の歴史の中に埋もれていった。
お読みいただきありがとうございました。
投稿を開始してから書いていなかった部分を改めて書き足しました。
リーシャはとても欲深かったので自業自得は自業自得ですが彼と出会わなければ大それた罪は犯さず済んだ筈です。
ただしそのままでも結局身を持ち崩していたかと思いますが。
書いているうちに気に入ってきて美形度が増してきました。作中一番の美形です。
本筋に関係ないので省きましたが名前を奪った少年の一座は人里離れた場所で全滅させられ、全員が間諜に入れ替わった後経営難を理由に解散の届け出をされて、全員が任地に散りました。
明日は13時投稿予定です。明日は登場人物達ののその後の話となります。