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ちょっと短めです。
「……なんと言うべきか、その、君の微笑みは……反則だな。……とても綺麗で、愛らしい」
思いもよらぬ言葉に目を見開き、呆気に取られてヴィクトールを見上げると、ちらりとこちらを見た少年が目を瞬いてから小さく噴き出した。
「っ……ふふ……今日は、君の色んな顔を見るな。……正直な所、少し不安だったんだ。私はイザベラ姫を心から尊敬しているけれど、私も同じ血が流れているから、ラインハルツの様に恋に狂って愚かな事をしてしまうのではないか、と。でも……どうやらその心配は無さそうな気がしてきた」
「そう……ですの? ヴィクトール様は初めてお会いした時から理性的で聡明な方でしたもの。きっと他の方に恋をしても、手順を踏んでくださると信じておりますわ」
良く解らないまま、イザベラは告げる。
王と言う立場にあれば政治的な理由でも側室を持つ事はあるだろうし、実際リーシャについても側室か愛妾として迎えるのであれば拒否するつもりは無かった。
最もそれは彼女が貞淑であれば、の話であり、夜会で明らかになった行状では許すわけにはいかなかっただろうが。
「うん……どうもね、私は君に恋をしてしまいそうなんだ。いや、もうしてしまったのかもしれない。あの騒動の時、君の笑顔を見て目を奪われていたけれど……今の笑顔を見てから、動悸が早くなって止まらない。……どうしたものかな、こんな感情は初めてなんだが……これが恋という感情なんだろうか」
口元を押さえたまま視線を伏せて言うヴィクトールの耳元が仄かに赤く染まっている。
イザベラは予想外の言葉に目を見開いたが、その意味に理解が及んだ所で、湧き上がって来た狼狽に思わず目をそらし、扇子で口元を隠そうとして、今は持っていない事に気付く。
生まれた時から婚約者が決まっていて、揺らぐ予定の無かったイザベラに、こんな風に想いを告げる者などこれまで一人もいなかった。
本人が気付いていないだけで想いを寄せる者はいたのだが、彼女の強い意志と志、背負う使命を慮って各々の胸に秘められたまま伝えられたことは無い。
ゆえに、いずれ王妃となった時に狼狽えないよう閨での知識などは簡単に教えられていてもイザベラに色恋沙汰の経験は皆無だった。
真似事程度に恋の経験を積んでみるか、と教師からの提案もあったがいずれ夫となる人への不実はしたくない、と断ったものの、今思えば受けておけばよかったと思う。
そんな風に思ってしまうほど、今の状況はイザベラの手に余り、一体どう反応するのが正しい事なのか解らない。
一旦気持ちを落ち着ける為に口元を隠すにも扇子が無くては難しく、仕方なく曲げた指で隠し、顔を僅かに背けて若葉色の瞳を避けた。
「……困らせてしまったかな。すまない。だが……そうやって狼狽えている君を見るのは初めてだ」
微かに笑う声に羞恥が増し、頬が熱くなる。
「……みっともない姿を……申し訳ありません……」
王族として決して感情を揺らしてはならぬ、それを表してはならぬと律していたのに、こんな些細な事で容易く崩れてしまった事が酷く恥ずかしい。
「みっともなくなど無いよ。私は、とても可愛らしいと思った。……私に想われるのは、嫌かな?」
可愛いらしいと言われて再び頬が熱くなるのを感じながら、ヴィクトールの言葉をよく考え、己の心を探すが嫌悪や不快感は見当たらず、むしろ初めて告げられた言葉に対する気恥しさや戸惑い、そして不思議と浮き立ったような、ふわふわとした感覚があるばかり。
「……嫌では、ありませんわ……」
視線を落としたまま答えると、ヴィクトールがほっと息をつく気配がして思わず目を上げる。
見上げた先のヴィクトールはひどく安堵した表情をしていて、その顔に滲む緊張の名残、つい先ほどまできつく握り締めていたらしい掌底の爪痕から、彼がかなりの勇気を奮ってこの一連の告白に臨んだのが読み取れた。
「……良かった。…………みっともないのは私の方だな。こんなに、緊張する事だとは思わなかったよ」
視線に気付き、額の汗をぬぐいながらきまり悪げに笑う顔は、これまで学友として接してきた間に見た如何にも高位貴族らしい理知的な笑みとは違う、年相応のあどけなさが感じられて、イザベラの胸がどきりと鳴る。
そのまま早くなる動悸を訝しみ、知識をさらうと参考に、と数冊読んだ恋愛物語の描写が浮かんできて、イザベラは更に動揺した。
義務と責任に誇りを持って縛られる彼女が恋に憧れた事は無かったが、それでも、今己の心をかつてない程に揺らしているものが恋物語の中で描写されたものに酷似しているものだと気付かざるを得ない。
まさか、と否定しようともしたが、しかしラインハルツの婚約者であった頃ではなく、ヴィクトールの婚約者となった今、彼に恋をしても政治的な問題は無いのだと思い至って頬が熱くなる。
ただ、恋と勘違いは紙一重とも侍女に聞いた事があるから、この想いが本当に恋であるのか、慎重に見極めなくては、と心を引き締めた。
一度小さく息をついて心を落ち着けると俯けていた顔を上げ、ヴィクトールの瞳を見上げる。
「みっともないだなんて、思いませんわ。……わたくし、恋という物がどのようなものか、まだ解りませんの。でも……ヴィクトール様のお言葉、とても、嬉しく思いました」
真摯な言葉には真摯な言葉で答えねば、と、言葉を選びながらも告げるとヴィクトールの緊張が僅かに和らぎ、笑みが浮かんだ。
「ありがとう……今は、その言葉だけで嬉しいよ。これから私も王太子教育が本格的に始まるし、互いに忙しくはなると思うけれど、こんな風に二人だけで話せる時間を持ちたいと思っている。改めて私の事を知って、君の事も教えてくれると嬉しいな」
「わたくしの事……ですか?」
基本的な事は公示されているから知っているのではなかろうかと思って首を傾げると、ヴィクトールはくすりと笑う。
「うん。公示されている事は知っているけれどね、例えば子供の頃にお気に入りだった絵本だとか、疲れた時に食べたいお菓子、この国に赴くときも手放せずに持って来た宝物だとか、そんな他愛のない事を知っていきたいんだ」
「その様な事を……?」
「その様な事を、ね。私の幼い頃の話や、ちょっとした嗜好について君が興味を持った時は聞いてくれると嬉しいな。例えば子供の頃に抱いていないと眠れなかった宝物の熊のぬいぐるみの話だとか、君以外には少し恥ずかしくて言えないような事をね」
その言葉に首を僅かに傾げ、幼いヴィクトールが大きなぬいぐるみを抱いて眠っている姿を想像し、さぞかし愛らしかったであろうその姿に微笑みが浮かんだ。
「ふふ……想像してみるととても愛らしいですわね。……わたくしにも、特別な猫のぬいぐるみがおりますの。子供っぽいかとも思ったのですけれど、どうにも離れがたくて……この国にもこっそり連れてまいりました。……どうか、他の方には秘密にしてくださいましね?」
声を潜めて囁くと、ヴィクトールの目が柔らかく細められる。
「私もね、実はまだ大切に部屋に置いてあるんだ。十歳を超える頃に弟か妹に譲ろうと思ったのだけれど、亡くなった母がくれたものだから手放し難くてね。王宮に移る時も連れて来るから、近いうちに君のぬいぐるみに紹介させて欲しいな」
「ええ。その時にはその子の名前も教えて下さいな。……ヴィクトール様。わたくし達、ラインハルツ様の様な情熱的な恋はあまり向いていないかもしれませんけれど……少しずつ互いを知り合って、良い夫婦になりましょうね」
先程まで疲労と自責に沈んでいた心が、ヴィクトールとの会話で温められたのを感じながら微笑むと、これまでに知っていたものよりもずっと優しい笑みが返され、手が差し伸べられた。
「ああ。……でも、案外私は情熱的な恋に向いているかもしれないと、少し思い始めているよ。勿論それに溺れて道を失うような事をすればイザベラ姫に見放されてしまうから、そこは気を付けるけれどね」
言外に告げられた想いに思わず頬が染まるのを感じながら、イザベラはヴィクトールに求められるままその手を取る。
「イザベラとお呼びくださいませ。……わたくしも、ヴィクトール様の優しさに溺れぬ様気をつけねばなりませんわね。こんなに甘やかされたのは、物心ついて以来初めてではないかしら」
父は溺愛しながらも教育に関しては厳しかった。
手元に置けるならともかく、いずれ隣国に嫁ぐイザベラが己の力で地位を築けるだけの強さを与えるのが、父の愛の形だと理解している。
それに対して、今ヴィクトールから感じるのは始まったばかりの恋故のものなのか、蜜で包み込むような感情が強く、元々疲弊していた心が思わず甘えてしまいそうになった。
「では私の事もヴィクトールと。イザベラに甘えて欲しいし甘やかしたいと思うけれど……それを自分に許す君でもないか。甘えたくなったらいつでも甘えて構わないけれどね。……いけないな、微笑みがきっかけでも、逆境に自ら立ち向かう強い君に恋をしたと思ったのに、そのまま甘やかし続けて私無しではいられなくなった君も見てみたいと思ってしまった」
「まあ……」
目を見開いたイザベラは、それ以上言葉を紡げないまま頬を赤らめる。
勿論その言葉に従うつもりはないが、ラインハルツと顔合わせをして程なくから、自分に対して生涯向けられることは無いだろうと思っていた情熱的な言葉に、持ち合わせが無いと思っていた乙女心が騒ぐのを感じて再び狼狽が沸き上がった。
「そうやって頬を赤らめてくれるという事は、私にも望みがある、と思って良いのかな?」
笑みを含んだ言葉に目をあげると、若葉色の瞳が悪戯っぽい光を浮かべて見下ろしていて、思わず渋面を作る。
「酷い方。わたくしをからかわれましたの?」
僅かに唇を尖らせて詰ると、ヴィクトールはくすくす笑いながらイザベラの指先に口付ける。
「イザベラのいつもと違う顔があまりにも魅力的でね。でも、決して嘘偽りのない本心だ。君がラインハルツの婚約者ではなくなった今、改めて言葉を交わせば交わす程、君に惹かれていくのを感じるよ。不思議なくらいに、ね」
ともすれば軽薄に聞こえかねない言葉は、そのまなざしによって真摯な物であると信じられた。
再び頬が熱くなるのを感じながら、イザベラはそれを見られたくなくて顔を再び俯ける。
「……ああ、でも、もしかしたら、私はずっと前から君を好きだったのかもしれない。僕の物にはならない人だから、気付かない様にしていたのかな。ラインハルツの元を去る時、頭にあったのは残らざるを得ない君への心配ばかりだったんだ。……確とは判らないけれど、無自覚なうちに君に惹かれていたのだろうか……」
不意にヴィクトールが呟き、己の心を探るように沈黙した。
「わたくしは……わたくし自身と恋は縁の無いもの、と思っておりましたの。恋をするならば夫となる方のみ、と思っておりましたけれど、ラインハルツ様には出来ませんでしたし、あの方も、私の事は苦手としていらしたので、向ける事も向けられる事も、生涯縁の無いもの、と断じておりました」
未だヴィクトールの手に包まれたままの指先を見下ろしながら、イザベラは言葉を紡いだ。
「今宵、ある程度想定はしておりましたけれど、ヴィクトール様……いえ、ヴィクトールに婚約者が代わって、やはり恋情などは無くとも、前よりは良い関係を築いていけるのだろうと、そう思っておりました。ですから……思いもよらぬ言葉をいただいて、本当に嬉しく思っております」
一度言葉を切って紅茶で唇を湿すと、再び口を開く。
「ただ、わたくし……まだ、自分の心を図りかねているのです。その、情熱的な言葉を頂いて……心が浮き立つのを感じましたが……それが、恋と言う物なのか、それとも思いもよらぬ言葉に驚いているだけなのか、まだ解らないのです。私が己の心を理解するまで、もう少しだけ、お待ちくださいますか……?」
真摯で誠実な言葉にあやふやな言葉を返す事は出来ず、若葉色の瞳を見上げて伝えると、ヴィクトールは微笑んで頷いた。
「勿論だよ。私もまだ、己の心を図りかねている。私達にはこれから先、沢山の時間があるんだ。ゆっくり、お互いを理解して行こう。これが恋ではなくても、私達は友人として互いを尊重し、大切に出来る筈だ。……これからもよろしく頼むよ、イザベラ」
穏やかな言葉にほっと安堵したイザベラは微笑みを浮かべる。
「はい。よろしくおねがいいたします、ヴィクトール」
その言葉に微笑みを浮かべたヴィクトールはイザベラの手を取って甲に口付けを落とすと、空になっていたカップに紅茶を満たした。
注ぎ足された香り高い茶を楽しみながら見上げる月は、先程、一人で見上げた時の様に寂しい光を浮かべてはいない。
その事をいっそ不思議に思いながら、イザベラは茶と菓子が尽きるまでの間、政務やあの事件から敢えて離れた、他愛のない会話を楽しんだ。
お読みいただきありがとうございます。
一旦二人の話は終わりで、明日は裏側の話となります。
誤字報告、いつも本当に!ありがとうございます!
沢山あってお恥ずかしい限りです。
明日の13時に続きを投稿予定です。よろしくお願いいたします。