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◇◇



 王太子の婚約者となるユグランの王女が代々婚前に住まう瀟洒な白大理石の離宮の庭、やはり白い大理石で造られた東屋で、刃の形の月を見上げたイザベラは小さく溜息を零した。


 今宵、夜会で起きた騒動はある程度予測していた物だったとは言え、本当に実行されてしまった事が残念でならない。

 結果的に次代の王がよりふさわしい者に代わり、イザベラも彼に不服は無い。

 しかしそれでも、本来であれば自分が軌道修正し、このような事態にならぬようラインハルツを導かねばならなかったのにそれを果せなかった事が口惜しかった。


 別に彼を愛していたわけではない。

 顔合わせの時からいささか考えの浅い部分が見え、不安は感じていた。


 それでも、決して悪い人間ではなく、リーシャ以外の下級貴族や特待生として入学した平民の生徒とも親しく接し、当初その周囲に付いていた優秀な側近候補達も少々頼りない王太子ながらイザベラと共に彼を支え、導いていこうとしていたのだ。

 その頃はイザベラの言葉も聞いてくれ、拙いなりに提案や忠告を受け入れる姿勢があった。

 しかし、リーシャと出会ってからのラインハルツは次第に彼女の吐く甘い言葉にのめりこみ、耳に痛い諫言を遠ざける様になった。


 一般生徒やそこそこの貴族としてならばともかく、王としてはまだ足りぬ部分の学習を、リーシャの、あなたは生まれながらに誰よりも立派な人よ、だの、頑張りすぎないで、もうあなたは十分頑張っているわ、などというありふれた甘い言葉を盾にして拒み、いつの間にか交流を持ち始めた同じ様にリーシャに篭絡された者、或いは次代の王に取り入り、愚かなままにして傀儡にと望む者達に誘われるまま浪費と遊興にふけるようになった。


 心底ラインハルツの為を思っての諫言が、暴言や、時に軽い暴力でまで退けられるようになってから側近候補達は櫛の歯が抜ける様に去った。

 ヴィクトールは最後まで諫言を続けていたが、結局リーシャに関わる諫言に激怒し、更にはリーシャがヴィクトールを篭絡しようと媚びを売る様に嫉妬したラインハルツによって打擲された上に接近を禁じられ、イザベラに謝罪しながらも彼を見放した。


 イザベラとて去れるものなら去りたかったが、国の定めで婚約者となった以上逃げる事は出来ぬまま、出来るだけ優しい言葉でたしなめるもラインハルツはそれを疎み、話し合いの席には勿論交流の為に定期的に設けられる茶会にすら現れなくなった。


 学院ではリーシャに幾度も絡まれ、その度にラインハルツとその取り巻きに激しい非難を浴びる日々が続く。

 ヴィクトールや他の高位貴族の令嬢、令息達はかばってくれたが、留学生外交の為に滞在する官吏の類はいても母国の様に信を置ける同国人は僅かしかいない、常に国の代表として見られるこの国で、双方の国の未来という重荷を共に背負うべき婚約者がこのありさまではイザベラの心労が絶える筈が無い。

 決して誰にも打ち明けはしないが、父の言葉に縋って母国に帰りたいと、幾度思っただろうか。


 幼い頃から隣国の王妃となるべく愛情深くとも厳しい教育を受けて来た身の事、その苦しみを表に出すことは無いが、そうやって涼しい顔をしていたのがよりラインハルツの怒りを煽ったのかもしれない。


 彼の抱く劣等感や焦りは解っていたから、それを刺激しないよう注意はしていたのだ。イザベラとて。


 だが、いずれ彼が王となる以上、リーシャの様にただ甘やかす事は出来ない。

 彼一人の事で済むならいくらでも甘やかすが、それがセルイムとユグラン、二国の未来に関わる以上、ただ甘やかし続ける事は愚策に他ならない。


 セルイムの国王と王妃は良く出来た人物で、今回の事態もこちらが恐縮する程に深く詫びてくれたし、今宵に至るまで、幾度となくラインハルツを厳しく叱り、軌道修正を試みていた。

 そんな両親の元で何故ラインハルツがあのように育ったかと言えば、イザベラと彼が三歳程の頃に起きた飢饉が要因に他ならない。

 

 飢饉が起こったのはユグランだが、その金銭的、物質的な援助など、セルイムも対処に追われる事になる。

 更に、飢饉や災害のおおまかな周期を敵国が知らない筈も無く、いつもこの時期には侵攻が始まるのだ。

 だからこそ、飢饉や侵攻が始まる前から両国の宮廷は多忙を極め、まだ幼く、本格的ではなくともよいラインハルツへの王太子教育は後回しとなった。


 乳母として雇っていた子爵夫人が国王の乳兄妹であり、その母親の代から信頼されていた事もあって、幼い子供の事を一任していたのが誤りだったのだと国王夫妻は項垂れていた。


 密かに国王に想いをよせ、身分に合わぬ王妃の地位を望んでいたのだという乳母はラインハルツの乳母になる為だけに結婚し、折よく孕んでその地位を勝ち取った。


 そして、国王夫妻が多忙であるのを良い事に本来行うべき教育を自分の裁量で変え、国王の信頼を盾に嘘を並べ立てて、都合の悪い愛情と厳しさを併せ持つ教師や愛情深い侍女を追い出し、虐待まがいの教育を行う教師や子供嫌いな侍女を引き入れて、自身はラインハルツを蜜の海に沈める様に甘やかして育てた。


 理不尽に厳しい教師に心身ともに痛めつけられて勉学や教育全般を恐れる様になったラインハルツは、侍女達にも慇懃に、しかし冷たくあしらわれる中で唯一彼を甘やかす乳母に依存し、実の母子ではないかと思うほどに懐いたという。


 その誤解に乗じて乳母は激務の間を縫って会いに来る王妃を、愛し合う王と乳母を身分を盾に引き裂き、虐げ、実の母たる乳母からラインハルツを奪った悪女と教え込んだ。


 それも、他者に知られれば実母たる乳母と引き離されてしまう、と秘密を強いていたから、その誤解が発覚するのに実に四年を要したのだと言う。


 二年にわたる飢饉とその前後を含めて断続的に繰り返された侵攻の後始末が終わるまで、乳母の凶行は密かに続いていた。

 嗜虐心と虚栄心の強い教師は未来の王となる幼子を支配下に置く愉悦ゆえに乳母と口裏を合わせたし、子供嫌いの侍女達は職務以上の関心を寄せず、乳母が与えるちょっとした融通や金品を喜んで違和感を覚えてもそれに蓋をした。


 やがて、母である王妃に強く反発するラインハルツを不審に思った両親が調査の手を入れ、事が明るみになってから、乳母は即座に引き離され、詮議の上毒盃を与えられた。


 ラインハルツにも、彼女がラインハルツより一か月早く彼女と瓜二つの娘を産んでいる事、また、彼女の血統ではラインハルツの色彩は生まれない事などを説明し、一応理解はしたと言う事なのだが、蕩ける程に甘やかしてくれた乳母とは違い、愛情を注ぎつつも時に厳しく接することもある王妃に対してわだかまりがあるままなのだと言う。


 そして、教師が一新された後も勉学への苦手意識や恐怖は変わらず、また、乳母によって吹き込まれた、王は何をやっても良い、王子である以上生まれながらに尊く、王国の全ての人や物はいずれ彼の物になり、何を言われても従うものだという刷り込みが完全に消える事もなかった。


 思えば、身分が低いリーシャとラインハルツの間を王女であるイザベラが引き裂こうとしていると言う言い掛かりをあっさり信じた辺りにも、乳母の刷り込みが生きていたのだろう。


 最後まで一人息子の軌道修正を試み、必死になりながらも愚かな女の妄念によって彼を失う事になった国王夫妻はここ一月ばかりでめっきりと老け込んでしまい、同情せざるを得ない。

 せめてラインハルツが毒杯を与えられぬ程度の処置で終われば良いが、どちらにせよ、生涯外に出る事は叶わない身になるだろう。


 嫁ぐために異国へやってきたイザベラに親身に接し、息子との仲を取り持とうと心を砕いてくれた優しい王妃がこれ以上悲しむ事にならねばよいと思い、その助けになれなかった自身の未熟を悔やんだ。


「……殿下」


 少し離れた所に控えていたセラがイザベラを呼ぶ。


 その声に顔を上げ、示された方を見れば、ヴィクトールが籠を手にした侍従を従え、セラの隣に立って軽く手を振っていた。


「ヴィクトール様……。ご機嫌うるわしゅう」


「良い夜だね。そちらに行っても構わないかな?」

 立ち上がって膝を折り、一礼したイザベラは頷いてヴィクトールを東屋に招く。


「遅い時間にすまない。……多分、眠れないのではないかと思ってね」


 イザベラの向かいに腰を下ろしたヴィクトールに、微笑みを向けた。


「……お気遣い、ありがとうございます。ヴィクトール様こそ、今夜はさぞお疲れでしょうに」


 内定していたとは言え、公爵家の嫡子から一夜にして王太子になるのだ。

 夜を徹しても足りぬ程すべき事があるのに、イザベラを気遣う余裕があるとは思えない。


「ある程度準備はしていたのだけれどね、まあ、目が回る様な忙しさだ。とはいえ、明日からはもっと忙しくなる。その前に、君と二人できちんと話をしておきたかったんだ」


 言いながら、ヴィクトールはセラと共に離れた場所へ控える侍従から受け取ってきていた籠を開き、中からボトルとグラス、蓋つきの白磁の皿を取り出した。


「あの後振舞われた菓子にワイン、私たちは味わえなかっただろう? 少し分けて貰って来たんだ。ああ、ワインは果汁で割って、軽くしてあるよ」


 東屋の真ん中に据えられた卓の上に手際よく並べ、美しい切子模様の入ったグラスに透き通った赤い液を注ぐ。

 果汁で割られているせいか、赤ワインよりも淡い色は月と魔石燭台の灯りの中で美しくきらめいた。


 皿の蓋を取れば、生地や果物、砂糖で形作られた繊細な花を飾った一口大のケーキや小さなガラス器に満たした果物のジュレ、愛らしい動物を象ったショコラなどが数種類、生花と共に盛り付けられている。


「まあ、とても綺麗……」


 女性なら誰でも喜びそうな愛らしい菓子に、イザベラの顔が綻んだ。


「この菓子はワインにも合うそうだけれど、紅茶も持って来てある。さ、難しい話はあとにして、今は互いを祝い、労うとしよう。卒業おめでとう、イザベラ姫」


 グラスを軽く掲げて微笑むヴィクトールに、イザベラは微笑んで同じように返す。


「ありがとうございます、ヴィクトール様。ヴィクトール様も、ご卒業、おめでとうございます」


 祝辞を返してグラスを傾ければ、上質な赤ワインの豊かな風味を残したまま、若者には少々早い渋みを上手く柑橘の果汁で和らげた心地よい味が口の中に広がって、まだ張り詰めていた心を少なからずほぐしてくれた。


 勧められるまま取り皿に取ったケーキは程よい甘みのクリームと酸味のある果実を合わせて柔らかなスポンジを包んであり、その甘さが疲労した体に心地よく染みわたる。


 ヴィクトールもやはり疲れていたのだろう。

 しばしの間、無言でワインと菓子を、途中からは紅茶と菓子を味わい、人心地がついた所で、どちらからともなく言葉を交わし始めた。


「まずは、改めて謝罪を。この度の騒動、イザベラ姫には大変な心労をおかけしてしまった。この国の民として、王太子として、心よりお詫び申し上げる」


 腰を上げ、改めて向き直ったヴィクトールが深々と頭を下げる。


「謝罪を受け入れます。それに……謝罪しなくてはならないのはわたくしも同じですわ。結局、ラインハルツ様の道を正すことが出来ませんでしたもの」


「君が負う事ではないよ。あれは、私達セルイムの人間がやらねばならぬ事だったんだ。それに……リーシャの影にはグレン王国の影がある可能性が高い。猶更、君の責は無いよ」


 ヴィクトールから告げられた言葉に、イザベラは目を見開く。

 当初、イザベラもかの国の関与を疑いはしたのだ。

 だが、リーシャがあまりにも愚かで即物的だった為、王太子の地位と金、そして見目好い男性を欲しがっているだけ、と判断していた。


「……もしや、あの言動が全て演技でしたの……?」


 常も、そして今宵は特に常軌を逸していた発言の数々を思い出しながら問うと、ヴィクトールは苦笑する。


「いや、あれは本心の様だよ。彼女自身には何の自覚も無い。ただ……彼女がくわ……ああ、いや、『親密に』していた男たちの中に、彼女をそそのかして上手く動かしていた者がいる様だ」


 白磁に紺と金で幾何学的な模様を絵付けしたカップに口を付けながら、ヴィクトールはつづけた。


「元々男遊びが派手で、見た目が良く、頭の悪い男を捕まえるのが上手かったリーシャに近づいた男の中に怪しい者が数人いる。夜会に参加した貴族達から情報が回る前に、彼女と関係を持った男、関係を持たずとも近い位置にいた男全員の身柄を確保したから、特に怪しい者には既に尋問が、他の者は聴取が始まっている筈だ」


 同盟の破綻を目論む者達によってあんな風になってしまったのかと一瞬同情しかけたが、どうやら元々の性格や行状であったらしいと聞いて苦笑する。


 ただ、父がイザベラを嫌っていると言う話についてはリーシャのでっちあげではなく、その者達に吹き込まれたのかもしれないとは思った。


「そうですの……。ですが、それならば、ああも的確にラインハルツ様の弱点を突けた事……かつての乳母の件も、洗いなおした方がよろしいのではなくて? それから、彼女に応じなかった人気役者達についても」


 かの乳母の件は内密に処理され、知っているのは上層部のごく一握りの人間と、ラインハルツの行状を受けて説明されたイザベラ、そしてともにそれを聞かされたヴィクトールのみ。


 そうでありながらリーシャが的確にラインハルツの刷り込みを刺激出来たのが偶然でないならば、上層部に内通者がいるか、もしくは乳母の凶行も何者かにそそのかされた結果だった可能性が高い。


 だからと言ってラインハルツの罪が軽くなることは無いが、敵国の手が王宮に入り込んでいる可能性を考えればしっかりと背後関係を洗う必要があった。


 リーシャが金で相手をさせていた若手の役者達も勿論拘束されているそうだが、むしろ彼女が妄信的に言う事を聞いてしまう様な相手となれば、金でどうにか出来る相手よりも袖にされ続けた人気役者の誰かが関わっている可能性が高い。


「ああ。それについても既に陛下とエイデン公爵家の者が動き始めているよ。乳母自身は幼い頃からの片思いをこじらせただけの様だが、王太子となる王子を愚かに育てるのは確かに良い手だ。ユグランでも不審な動きが無いか厳しく見極めると、大使殿が仰っていた。役者達については無関係な者の名誉が傷付かぬよう、とある大掛かりな舞台のオーディションと言う名目で、昨日から該当する者を含めてまとめて隔離し、夜会の前に該当者は確保してある」


「手抜かりはございませんのね。……いけませんわね。わたくし、十八年も婚約者であった方が失墜したと言うのに、ヴィクトール様との会話があまりにも速やかで、安堵してしまいました……」


 あまりにも薄情だと苦笑すると、ヴィクトールが微かに肩を揺らして笑う。


「薄情ではないさ。イザベラ姫がどれ程彼の為に努力していたか、私も、周囲の者達も良く知っている。大手を振って喜んでも非難される事じゃない。……それなのに君が疲弊し、傷付いている事に気付かなかった事を心から情けなく思っているよ」


 僅かに沈黙を置いたヴィクトールが再び頭を下げた。


「苦労を見せぬのが王族の務めですわ。皆さまが気付かずにおられたなら、わたくしが上手く振舞えた、というだけの事です」


 微笑みと共に謝罪は必要ないと言えば、ヴィクトールは首を左右に振ってからそっとイザベラの手を取る。


「君が強く、王族としても女性としても素晴らしい人だという事は、良く解っている。そんな君がこの国の王妃となってくれる幸運も。だが……夫となる私の前では、王族としての節度を守らなくても良い……いや、素の顔か、それに近い形で接して欲しい。私もそうしたいと思っている。……私と君は、敵の多い立場にあって最も近しい、最も信頼出来る味方でありたいし、あるべきだと思う。君も、そう思ってくれないだろうか」


 両手で緩くイザベラの手を包み、目をしっかりと合わせながら告げられる言葉は真摯で、嘘は感じられなかった。

 じっと若葉色の瞳を見上げながらイザベラは思考を巡らせ、そして僅かに肩の力を抜く。


「……そう、ですわね。わたくしは、ヴィクトール様の最も信頼を置ける味方となりましょう。決してあなたを裏切らず、傍で支え、時に諫める者に」


 今なお張り詰めていた心を少しだけ緩め、微笑みを浮かべると、ヴィクトールが僅かに眉を上げ、息をつめた。


「…………なんと言うべきか……」


 しばらく沈黙したヴィクトールが不意に口元を押さえ、顔をそむけて呟く。


「どうなさいましたの……?」


 見慣れぬ反応に首を傾げ、問いかけるとさらなる沈黙が返された。


お読みいただきありがとうございました。

誤字報告いつもありがとうございます。

自分で見るとどうしても見落としがあるのでとても助かっております。

評価・ブクマなどいただけますととても嬉しいです。


明日の13時に続きを投稿予定です。あと3回位かと思いますが、よろしくお願いいたします。

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