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「ミンツ男爵令嬢。君に名を呼ぶ許可を出した覚えは無いよ。そもそもイザベラ姫の名を呼ぶ許しも与えられていないだろう? わきまえなさい」
「ヴィクトール様……イザベラ様に脅されているのね……可哀相……っ! イザベラ様、お願い、もう心を入れ替えて、優しい人になってください……! このままじゃ私にも庇えなくなっちゃう……!」
ラインハルツの腕を離し、豊満な胸の前で手を組みながら悲し気に目を潤ませる少女の理解できない言動を受け、不快気に眉を潜めたヴィクトールはそれ以上反論する事なく彼女を無視してイザベラに顔を向けた。
「エイデン様。今頃出ていらして、どうなさいましたの?」
つんと顎を上げて詰るように言うイザベラの声に棘は感じられず、ヴィクトールもまた気にした様子も無く肩を竦めた。
「ヴィクトールと呼んで欲しいな。姫。すぐにでも姫君を助けに馳せ参じたかったのだけど、君の叔父上と私の伯父上から制止されてね。そもそも、君も助けを求めていなかっただろう? それに連中の嫌がらせや妙な噂からは友人としてこれまで庇ってきたつもりなのだがね」
肩を竦めて笑うヴィクトールに、イザベラは微かに笑う。
「ヴィクトール! リーシャを無視するとは何事だ! 未来の国母の言葉を無視するなど、エイデン家の嫡子とて許される事では無いぞ!」
リーシャのたわごとを、感涙せんばかりに褒め称えていたラインハルツが無視されている事に気付いて怒鳴るが、二人はそれを一顧だにせず微笑みあった。
「ええ、エスコートを突然断られた時、あの方たちに責めたてられた時、その噂で恥をかいた時、友人として助けて頂いたことは理解しておりますし、感謝しておりますわ。ヴィクトール様。しかし……叔父様ばかりか陛下からも制止がありましたの? では本格的に変えてしまわれるのね」
「まあ、私にとっては願ったり叶ったりだ。エイデン公爵家は弟が継いで、私は王位に。そして美しく聡明な君を妻に迎えられる。今日は生涯最良の日かもしれないね」
悪戯っぽい笑みを浮かべ、舞台めいた仕草で両手を広げて高らかに告げられた言葉に周囲の貴族たちは国王と大使の意向を知ってほっと安堵し、自然と拍手が沸き上がる。
拍手をしながらちらりと壇上を見遣れば、一行は何を言われたのか理解できないのかしたくないのか、訝し気な顔をしていた。
「お上手ですこと。わたくし、エイデン様に恋はしておりませんけれどよろしいのかしら? もっとも……エイデン様も同じでしょうけれど」
扇を開いて口元を隠し、くすりと笑って問うイザベラにヴィクトールは朗らかな笑みを浮かべた。
「確かに姫に恋焦がれてはいないが友情は感じているし、妻になる人は尊敬出来る聡明な女性がいいと常々思っていたんだ。姫君の事は出会った頃から尊敬しているし、家柄も政略的な意味も申し分ないどころか最高の相手だろう? 幸い僕は他の誰にも恋をしていないしね。ラインハルツの婚約者でなければ、次期王妃でなければすぐにでも求婚していたとも。それに、夫婦になってから愛を育むのも悪くは無いだろう?」
微笑んで言うヴィクトールの声にも眼差しにも恋の熱情は感じられないが、もとより貴族の婚姻など九割がたがそんなものだ。
ましてや王族の結婚に恋情など立ち入る余地が無いし、立ち入らせたいならば婚姻に足るだけの理由と国益を作るか、廃嫡を望むしかない。
政略結婚から不幸になった夫婦も一定数存在するが、大多数は互いに尊重してそれなりに幸せに、そして中にはこの上なく幸せになれる夫婦もいる。
それ故、少なくとも現在互いに尊重し合い、双方共に友情を感じている二人の会話を見守る貴族達の目は温かかった。
「そんな……っ! 愛の無い結婚なんて駄目です、ヴィクトール様! しかもイザベラ様が相手なんて、ヴィクトール様が不幸になっちゃう! 私……そんなの辛すぎるわ……っ!」
空気を読まないリーシャが叫ぶが、二人は一切反応を示す事無くそれを無視した。
「そうですわね。わたくしの……いえ、王族の婚姻に愛情など考慮されぬ事は幼少より承知しておりましたが……それでも伴侶となる方が尊敬出来る方、心から支えたいと思う方であればいいと、そう思っておりましたの。継承権を持つ皆様の中で、ヴィクトール様であれば支えるに不足はございません。これから長い年月、友人として、夫婦として共に助け合って歩みましょう。……よろしく、お願い致します」
静かな、しかしよく通る声で告げたイザベラは扇を閉じ、その手を緩く下ろして他方の手を扇を持つ手の甲に添えると、不意に肩の力を緩めてふわりと微笑んだ。
これまでの儀礼的かつ完璧な、しかし温度の低い微笑から一転した花が綻ぶような微笑みは、既に女性としても王族としても完成されている彼女がまだ年若い少女であると知らしめるに余りある可憐さと美しさで居並ぶ貴族や生徒たちの心を男女問わず射抜く。
もともと母国では人気の高い王女だったと伝え聞いているが、その割には硬質な印象であると思われていた彼女の本来の性質がこの笑顔であるならば、故国での評判の高さもうなずけるものだった。
「……驚いた。君、そんな風に笑えるんだね」
流れ矢を受けた背後の貴族達がそうなのだから直撃を喰らったヴィクトールが驚かない筈も無く、呆然と目を見開いてから白皙の頬を赤らめ、気を取り直そうとするように呟く。
「ふふ、やはり慣れない環境では気苦労も多く……つい表情が硬くなりがちでしたわ。叔父様や叔母様にも随分と心配をかけてしまいました」
その言葉と共に浮かぶ微笑みは、先程のそれよりは控えめであるもののやはり柔らかい。
環境の変化だと言ってはいるが、実際の所彼女の笑顔を固くしていたのは不出来と言う程ではないが出来が良いとも言えぬ、リーシャに落ちた前後からはみるまに悪化し、方々で失態を犯してはイザベラがフォローに回って事なきを得ていた王太子との関りが精神的な疲労を与えていたのは明白。
彼女があまりにも優秀で、美しい微笑みすら浮かべながら軽々と事態を収めていくので周囲の者達は彼女が王妃ならばどうにかなる、と安堵していたのだ。
しかし今になって思えば彼女もまだ一八歳になったばかりの少女にほかならず、大使夫妻と護衛騎士や侍女のほかは全て異国の人間しかいない環境と頼りにならない婚約者に精神的な疲労や落胆を感じていて当然だったと気付いたセルイムの貴族達は深く反省する。
「……イザベラ姫。私は王太子、ひいては国王として、そして貴女の夫として生涯君を支え、期待に応えられるよう努力する。同時に、君が重責に疲弊した時には安らげるような、責務ばかりではない関係を築く事も。勿論、私の事も支え、安らげてくれると嬉しいよ。君が妻となってくれるのだから、心配はしていないけれどね。私の名と、王太子の地位にかけて誓う。……一緒に、幸せになろう」
跪き、これまでよりも熱を込めて捧げられた言葉を受けて僅かに目を見開いたイザベラは、その真意を窺う様にじっとヴィクトールを見詰めてから差し伸べられた手を取ると柔らかく微笑む。
「お受けいたしますわ、ヴィクトール様。わたくしも……あなたとであればより良き国を築いていけると思いますの。……ふふ、少し気恥しいですけれど、いずれ国王と王妃になるわたくし達の円満は民の幸せにも繋がります。……幸せになりましょう」
「ああ。良い夫婦になろう。民が子なら、親たる私達の夫婦仲は良くなくてはね。……そして、良い夫は妻を守って矢面に立つものだ。この後は任せてくれるかい?」
その手の甲に口付け、立ち上がってイザベラを抱き寄せたヴィクトールが問い、イザベラが頷いた。
「ええ。では私は良き妻として夫の背を守り、国王の共闘者たる王妃になる者として敵を叩き潰すべく援護いたしましょう」
内容は少々物騒だが声音は穏やかな二人に居合わせた一同の心がほっとゆるみ、再び拍手が沸き上がった。
初めて見るイザベラの自然な微笑みに、壇上で呆然と見惚れていたラインハルツはその音に我に返るとがなりたてる。
「な、何を言っている! 王太子はこの私だ! 騎士ども! この反逆者をひっとらえろ!!」
「イザベラ様、権力でヴィクトール様を脅してあんなことを言わせたのね!? なんてひどい人! ヴィクトール様、私が王妃になるんだからイザベラなんて怖がる事ないわ! さあ、こっちに来て!」
先程のヴィクトールの言葉を理解できない、というより理解しないようにしているのだろうラインハルツとリーシャが叫び、側近達も同調するが広間に控える騎士たちは微動だにしない。
「ラインハルツ。君はもう王太子ではないよ。先程陛下が正式に決定され、既に書類に署名もなされた。
立太子の儀は日を改めて、となるけれど、第二位の王位継承権を持つ私が陛下の養子となり、王太子に任じられるとこれから公示される。陛下は現在その手続きに当たられているゆえ、この場においでにはならないが、私が代行を任された」
「ふざけるな! 父上がその様な事を仰るはずが無い! 騎士ども! 早くこの簒奪者を捕えぬか! 命令だ!」
「そうよ! ライが王様になるんだから! ああ、そうだわ! きっとイザベラは悪魔に取りつかれているのよ! その力で皆に言う事を聞かせてるんだわ! ライ、やっぱり火あぶりにしないと国が滅んじゃう! 騎士さんたち、リーシャの為に早くイザベラを捕まえて!」
青筋を立てたラインハルツの怒鳴り声とキンキンと耳障りな声がしんと静まり返った広間に響くが騎士達は困惑の表情すら見せず、無表情に彼の言葉を無視した。
「騎士達には今朝の段階で、君が愚かな事をした場合の処遇及び命令権の喪失について指示されているからね。もう何を言っても聞き入れられはしないよ」
苦笑しながら、ヴィクトールは言葉を続ける。
「君の処遇についてはユグラン国王陛下とも相談の上決める事になるが……まあこれまでの醜態で姫の御父君はいたくお怒りでね。生易しい処遇にはならないと覚悟していたまえ。ああ、ミンツ男爵令嬢ならびにその取り巻きの者達も、だね。取り巻きの君達についてはそれぞれの親元と話もついている。ミンツ男爵令嬢についてはご両親が爵位の返上並びに君の勘当を申し出ているよ。これ以上は耐えられない、と。……この夜会に出席する前に両親から随分と説得されたのではないかい? まあ、君は煩がって一週間も前から家を出てあちこち泊まり歩いていたようだけど」
「……ご両親の同行も許可もなく外泊をなさっていたの?」
淡々としたヴィクトールの言葉に、イザベラが目を見開く。
貴族の令嬢が、親や親族と同行する事無く外泊をする事は、よほどの緊急事態を除けばまずありえない。
しかも許可を取らず、となれば醜聞の極致に他ならなかった。
「その様だよ。ラインハルツがうつつを抜かし始めてから王家が彼女に付けた監視者によれば、外泊の初日はユランの家が持つ別邸で、二人きりで寝室に籠っていたそうだね」
「は?」
ヴィクトールの言葉に、ラインハルツと、ユランを除く取り巻きが声を上げる。
「その翌日は自宅に帰ると言ったその足でジュストと共に朝から高級宿へ……寝台が一つだけの部屋で翌朝まで過ごしたようだね。その翌日はダッカスと彼の家の別邸で、やはり部屋に籠ったまま過ごしたとか?」
「なっ……どういう……っ」
今度はユランを含む一同が狼狽え、リーシャは言葉を失った。
「その翌日は……ああ、もう名前を上げるのも面倒だね。面子は……上は伯爵位から下は舞台役者まで、年齢も様々だが姿が良いか、金がある、少々頭の足りない男ばかり。貴族や豪商から巻き上げた金で若手役者の男三人を呼び寄せて、君の支払いで豪勢な宿で連泊、更に宝飾品をプレゼントしているな。チェックアウトの朝は満足そうに四人で宿を後にしたとか。そして昨日はラインハルツと共に離宮に籠りきり。ああ、でもラインハルツが出かけた隙に、侍従の一人と庭園の木立の奥で楽しんでいたようだね? 毎日毎晩違う男性と過ごしているとは驚くほどに強靭な体をもっているのだね」
「えっ……な、なんでっ! でたらめ言わないで! あ、そうだわ、イザベラが言わせてるのね!」
苦笑したヴィクトールの言葉にリーシャが悲鳴を上げながらもイザベラへ罪をなすりつけようとし、女性達ばかりか男性陣までが引いた顔で彼女を見上げる。
そんなリーシャをラインハルツとその取り巻きは共に言葉も無く呆然と見ていた。
「ラインハルツ。伯父上や伯母上が何度も仰っただろう? ミンツ男爵令嬢について良くその動向を見て、調べろと。調べるためなら王家の影もお前の裁量で三人まで使って構わない、と。そしてイザベラ姫との婚姻が持つ意味も。記録されているだけでこの二年間に二十五回、記録に残されない場では更に告げられていた筈だ」
冷たい言葉に、ラインハルツが狼狽を深める。
「そ、それは……リーシャに聞けば十分……だと……」
「……お前はこの国で最も権威ある国王陛下のお言葉の、一体何を聞いていた? 何故調査しなかった? 彼女の素行は一般生徒の間ですらある程度は知られていた事だ。舞台演劇を好む者達の間でも、社交界での評判が命の看板役者には相手にされないからと、見目好くも売れない若手の役者に金品を与えては寝台へ引き込む娘だと有名だった。その金は学園や夜会で作った取り巻きに貢がせた宝石や服を売って作ったものだそうだ」
白い目で言うヴィクトールの言葉に、リーシャにねだられて何度も劇場へ伴っていたラインハルツや取り巻き達は青ざめた。
早めに終わらせて次の話を投稿したいので、一度に投稿する量をちょっと増やしました。
誤字報告、いつもありがとうございます。とても助かっています。
ちなみに今回の「肩の力を緩めて」は、公式の席のこんな場面なので完全に肩の力を抜くことは出来ない、との意味を込めて敢えて「緩めて」にしています。突っ込まれそうなので先に説明しておきました。
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また、日間ジャンル別にて一位を頂きました……!総合でもランクインさせていただきました。
こんなに評価を頂けるとは思っておりませんでした。
本当にありがとうございました。
明日も13時に更新予定です。よろしくお願いします。