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「ライ、駄目よ。幾らなんでもイザベラ様がかわいそうだわ。幾ら酷い人だって娼婦だなんて……元はと言えば私がライを愛してしまったせいだもの。私、とてもつらかったけど……でもっ、でも……っ、謝罪さえしてもらえればそれでいいの……」
潤んだ声が不意に上がり、一同の目がそちらへ向けられた。
その視線の先には先程からラインハルツの腕にしがみついていた少女がいて、声だけではなく大きな瞳まで潤ませて王太子に訴えている。
「リーシャ……君はなんて慈悲深く優しい人だ。君こそがこの国の王妃に、そして国母にふさわしい。ずっとこの言葉を君に捧げたかったが、あの忌まわしい女のせいで叶わなかった。だが、今こそ告げよう。君を心の底から愛している。僕の求婚を、受けてくれるね?」
感極まった様に少女を抱き締めたラインハルツが名残惜し気にその身を離し、跪いて求婚の言葉を告げると少女は愛らしい仕草で口元を押さえ、感動の涙を零す。
「ライ……っ! 私達、もう素直になって良いのね……!? ええ、私も愛しているわ……!」
少女の言葉に再び立ち上がったラインハルツが彼女を抱き締めると、歩み寄ったユランが豪奢な板の上に置かれた羊皮紙を差し出す。
二人が寄り添ったまま金のペンでそれに署名し、再び受け取ったユランはそれを誇らしげに掲げて周囲へと示した。
薄々予想のついていた事だったが、掲げられたのは神殿が発行する正式な婚約証明書。
前述の通り非常に重要な書類であるそれは無記名の書類の持ち出しですら正規の神官の立ち合いの元でなくては許されず、当然署名する際にも正式な立ち合いが必要で、無許可で行えば大罪となる。
大神官のあまり出来の良く無い三男がその難関試験に若くして合格したと言う話は誰も聞いた事が無い。
「ユラン様……いつの間に正神官試験に合格なされましたの? 十代での合格となれば百年ぶりの快挙ですもの、当然わたくしの耳にも入る筈ですけれど」
宗教を同じくする二国の王女であれば当然規則は知っているであろうイザベラが、呆れた口調で問いかけるとユランはまたしてもあざ笑う。
「私は殿下が即位したあかつきには大神官となる事が決まっている。まだ正神官ではなくとも未来の大神官、いずれは教皇も望める私の立ち合いがあれば十分だろう?」
傲慢なその言葉に大人達は天を仰いだ。
男爵令嬢でありながら婚約者でもない王太子や隣国王女を名前で呼ぶ、高位令息達を侍らせるだの、そういった常識的な事はもはやどうでもいい程に酷い事態に失神する婦人の数が増える。
各国の神殿の長を務める大神官は当然王が任じる物ではなく、総本山である神聖国メイルラーンの中央神殿を統べる教皇が任ずるもの。
腐敗していた前教皇までの膿をすべて断ち切って就任し、失墜しかけていた神殿の権威を復活させた、汚職とは無縁と名高い現教皇がこんな愚かな子供を大神官に任じるなどありえないし、この不祥事で誠実な人柄で知られる現大神官や二人の兄達の地位すら危うくなった所だ。
今すぐ騒ぎの只中に飛び込んで馬鹿者どもの首根っこを引っ掴みたい所だが、つい先ほど密かに会場内を手出し無用の伝言が回っていていかんともしがたい。
ちらりと見遣ればこの国の高位貴族達、そしてユグラン国大使は怒りを通り越して笑みを浮かべ、肉食獣が獲物を見る様な目で静観しているし、傑物と名高いイザベラ王女もまた、最低限の口出しでその動向を見守っている。
この先に何が起こるのかへの好奇心と、今後の国難を思ってギリギリと胃が痛む感覚を大人達はただひたすら堪えた。
しかし、予ねてより少女に篭絡され、取り巻いていた側近や高位貴族の令息達はそんな大人達の胸中などまるで気付いていないらしく、婚約成立に歓声を上げて拍手し、居並ぶ来客たちにも拍手を促すが、当然それに応じる音は上がらない。
その事を訝しんでか首を傾げながらも、ラインハルツはイザベラをきつく睨めつける。
「さあ、未来の王妃たるリーシャにひれ伏して謝罪しろ! 謝罪するならまともな娼館へ送ってやるが、あくまでも謝罪しないならば最下級の娼館へ行く事になるぞ!」
周囲の空気にまるで気付かぬまま高圧的に言い放つ王太子に大人達は頭を抱えるが、対峙するイザベラは相変わらず動じた様子も無かった。
「王妃……にございますか? まあ……わたくし、寡聞にして存じ上げなかったのですけれど、ミンツ男爵家は随分な資産家ですのね?」
僅かに目を見開き、首を傾げて言う王女の言葉にリーシャの目からぼろぼろと涙が零れる。
「酷い……! ライ様、イザベラ様はいつもこうやって、私の家が裕福で無い事を馬鹿にするの。私……っ家は貧しくても心だけは豊かに、って、勉強だってお作法だっていつも頑張ってるのに……!」
貧しい、という割に、随分と豪華かつ高級な、しかし誰の意見が入ったものかいささか飾り立てすぎて品の無いドレスを着た上、良く見れば取り巻き令息達の家の家宝であるブレスレットだのネックレスだのを値段の順に上から選んだ様なてんでばらばらさで身に着け、神殿の宝物や王家の所蔵品に見た事がある気がする豪奢な指輪とティアラを付けた少女が叫ぶ。
ちなみに勉強や作法を頑張っていると言うが、王太子の浮気相手の成績は二百人の同級生の中で丁度真ん中程度、作法は日常的な振舞い……高位令息達にすり寄る問題を理由に補習を言い渡された時、王太子が強引に及第点とさせた事は社交界の噂で殆どの貴族が知っていた。
「あら、裕福では無いのですか? わたくしを退けて王妃になると言うならば、随分と経費が掛かる筈ですが……当然ご用意できるからこそのお話でしょう?」
「リーシャは王妃になるのだ。金に困る事ある筈がなかろう! どちらにせよ娼婦になる貴様にはもはや関係の無い話だ! シュルツ! あの女を拘束しろ! 腕の一本や二本、折っても構わん!」
「はっ!」
王太子の言葉に進み出たのは近衛騎士団長の次男。
長身の少年が大股に階段を降り、醒めた目で見遣る王女を捕えようとした所でその両脇に二つの影が現れ、彼を阻んだ。
「殿下に下賤な手で触れるな」
低く告げたのは濃緑に銀の刺繍を施したジュストコールを纏う黒髪の少年で、彼よりも背の高いシュルツを容易く押さえ込んだまま壇上の王太子を青い目で睨む。
「殿下、私の後ろへ」
落ち着いた声で囁くのはやはり濃緑に銀糸のドレスを纏った黒髪の美少女で、彼女もまた王太子を睨みながらその背に王女をかばおうとしたが、イザベラは首を左右に振ってそれを退けた。
「ありがとう、セラ、ジェラルド。わたくしは大丈夫よ。……時にラインハルツ殿下。ミンツ嬢がお金に困ることは無い、と仰いましたが……わたくしと婚約を解消し、ミンツ嬢を王妃に据える為には二国間の協定により、わたくしの母国が協定に従って用意している資金や兵力を全てミンツ嬢のご実家が用立て、同時に協定により決められた額の母国への賠償金及びわたくしへの慰謝料をラインハルツ様、ミンツ嬢双方からお支払いいただくと決まっておりますのよ? 殿下にもわたくしにも、協定については幼い頃から知らされている筈ですけれど……もしやお忘れですの?」
驚きも顕わに、といった表情で問うイザベラに、王太子の眉根が寄る。
「そんな話は聞いた事が無い! 万が一それが真実だとしても我が国の資産で賄えばいい事だろう! だいたいその男はなんだ!? 私と言う婚約者がありながら不義を働いていたのだな!?」
己の浮気を棚に上げて責め立てるラインハルツに、周囲が呆れた目を向けた。
イザベラが告げた協定については隠されている事でもなく、むしろ両国の人間が長い年月同盟関係にある二国の歴史を少しでも学べば必ず詳細を知る事になるもの。
当然の事過ぎて学園では教えられる事も無いが図書館にはそれを記した本が必ずあるし、当事者である王太子にその教育が施されないなどありえない事だった。
王太子は確かに聡明ではなかったが、ここまで愚かではなかった筈なのに、といっそ訝しむ視線が注がれる。
お読みいただきありがとうございました。
明日の13時ごろに続きを投稿予定です。