突然、婚約破棄されました……
「オリビア、君との婚約を破棄する!」
息が止まりました。
私の婚約者のセオ様__いえ、もう婚約者ではなくなるのでしょうか__は確かにそう告げました。
ついに、このときが来てしまったのですね……
息が止まるほど驚くと同時に、諦めにも似た気持ちが私の胸に広がります。
私には前世の記憶があります。
それを思い出したのは、セオ様に初めて会ったときでした。
私、オリビアは伯爵令嬢でして、前世の記憶を思い出すまでは、なんでも自分の思い通りにならないと癇癪を起こすような、我儘な娘でした。
10歳で初めて政略結婚の相手、伯爵令息のセオ様を一目見たとき、私の心臓はドクンと鳴りました。
セオ様の輝く金髪と若草色の瞳をした端正な顔立ちは、まるで憧れの王子様のようで、私はすっかり一目惚れしてしまったのです。
そして、それと同時に、私はこの方を知っていると強く感じました。
そのとき、頭の中に、すごい勢いで前世の記憶が流れ込んできました。
私は思い出しました。セオ様は私が前世で読んでいた恋愛小説のヒーローで……私、オリビアはヒロインではありませんでした。ヒロインは男爵令嬢の美少女で、私は嫉妬して彼女を虐め、挙げ句の果てにはセオ様に婚約破棄される、いわゆる悪役令嬢でした。
突然、前世の記憶を思い出した私は、その場で倒れてしまいました。
それから、私はずっと婚約破棄されるのを恐れてきました。精一杯、そうはならないように努めようとは思っていましたが……もしも婚約破棄されたらそのときは、あの小説のようにみっともなく縋ることはせずに、潔く身を引こうと決めたのです。
そして今、ついに婚約破棄されるときが来てしまいました。
セオ様はまっすぐにこちらを見つめています。
せめて最後にあなたの目に映る私は、美しくありたいのです。
背筋を伸ばして、セオ様を見つめ返しました。
「わかりました。婚約破棄をお受けします」
何かを言おうとしていたのか、セオ様は口を少し開けたまま固まりました。
「では、失礼しますね」
立ち上がって、迎えの馬車に向かいます。
そういえば、私たちはさっきまで、二人でお茶を飲んでいたのでした。あの小説では、婚約破棄されるのは大勢の人がいる舞踏会で、ヒロインがセオ様の隣にいたはずでしたが……まあ、多少の違いはあるのでしょうか。
セオ様が私を呼んだような、都合のいい幻聴が聞こえたような気がしましたが、振り払って進みました。
家について、自室のベットに飛び込みました。
「うっ、ふっぐ、うう、うわあああああん」
堪えていた涙があふれ出して、止まりません。
セオ様が大好きでした。
一目惚れでした。でもそれだけじゃなくて、5年間、婚約者として一緒に過ごす中で、セオ様の好きなところをたくさん見つけました。
いつも私の目を見て話してくれるところ。
私の話を優しく頷きながら聞いてくれるところ。
冗談を言って私を笑わせようとしてくるところ。私が笑ったら、嬉しそうに微笑むところ。
それから……ああもう、ますます涙が出てきました。
私も前世の記憶を思い出してからは、心を入れ替えて頑張ってきました。いきなり人が変わったかのように振る舞う私に、初めは周囲も戸惑っていました。でも皆、今の私を受け入れてくれて、私は本当に人に恵まれていると思います。
セオ様に本当は愛されたかったけれど、ヒロインのようにかわいらしく天真爛漫に振る舞うことはできず、初めは話すだけでいっぱいいっぱいでした。
それでも、セオ様と過ごせる日々はとても幸せでした。セオ様はやっぱり優しくて、セオ様と一緒にいられることが当たり前だと勘違いしそうになってしまいました。このまま幸せな日々が続くのではないかと思ってしまいました。
ばかみたい。あの小説と同じように、セオ様とヒロインもきっと恋に落ちてしまったのでしょう。運命を知っていたのに、どうしようもなくセオ様を好きになってしまった私はなんて滑稽なのでしょうか。
いっそ、みっともなくてもいいから、セオ様に縋りつけばよかったのかもしれないとすら思ってしまうのです。あの小説での『私』の気持ちがわかってしまいます。私がずっと想ってきたセオ様を一瞬で奪っていったヒロインが憎い。こんな醜い感情を抱えた私は、本当に悪役令嬢になってしまうのかもしれませんね。
それからずっと泣いていたような気がしますが、時間は私を待たないもので、早数日が過ぎました。
あれから、なぜかセオ様がうちに訪ねてきたそうです。多分、正式な婚約解消のための手続きでしょう。でも顔を見たら今度こそ泣いて縋ってしまいそうで、会いませんでした。
そんなに早くヒロインと結婚したいんですね……
* * * * *
「オリビア、新しい恋を探すのよ!」
ライラはそう告げました。彼女は私の親友で、部屋に引きこもっていた私を訪ねて来てくれたのです。セオ様に婚約破棄されたという話を聞いたライラは憤慨していました。
「新しい恋、ですか……」
「そうよ!」
ライラはオレンジ色の髪をかきあげ、私をビシッと指差しました。
「さっそく、舞踏会に参加するわよ!」
「ええっ? でも、ライラには婚約者がいますよね」
「ええ、だから私は彼と一緒に参加するわ。でも婚約者がいない男もたくさんいるから大丈夫」
「でも……」
「ね、いいでしょ? きっとセオ様よりずーっといい人がいるはずよ……オリビアが落ち込んでるのは嫌なの」
きっとライラは私を心配してくれているのでしょう。強引なところもあるけれど、優しい人です。
「……わかりました。舞踏会に参加します」
* * * * *
そして、舞踏会当日__
私が選んだのは若草色のドレスで、以前、セオ様にいただいたものです。はい、未練たらたらですね……
それは別として、このドレスは本当にお気に入りなのです。
あの小説では、『私』は厚化粧をして、派手なドレスを好んでいました。しかし実際のところ、私は大人しめの顔立ちでして、あまり派手なものは似合わないのです。それなのに小説ではド派手な顔立ちになっていたのですから、小説の『私』はお化粧を頑張っていたのでしょうか。小説ではコテコテの縦ロールだった私が実は真っ直ぐな黒髪だったことには驚きました。
多分、小説の『私』もセオ様が大好きで、好きになってもらおうと必死だったんでしょうね。もちろん、虐めは決して許されることではありませんが。それにしても、努力の方向が間違っていた気がします。まあ、うまくいかなかった私が言えたことではありませんけど……
「オリビア、踊らないの?」
ライラが話しかけてきました。
私は壁の花と化していました。一応、何人かの殿方には誘っていただいたのですが……改めて気づかされました。やっぱり私はまだセオ様のことが忘れられません。この気持ちだけは、どうしようもないのです。
「ごめんなさい、ライラ。せっかく誘ってくれたのに……」
「ううん、私こそごめんなさいね。急に新しい恋なんて言っても、無理に決まってるわよね。あーもう、また突っ走ってしまったわ」
「いえ、私を心配してくれたんでしょう? ありがとうございます」
「オリビア……本当にセオ様はどうして婚約破棄なんて言ったのかしら! 見損なったわ!」
「……」
私は曖昧に笑うしかありませんでした。
セオ様はきっと、運命の恋に落ちてしまったのです。
「オリビアがセオ様を大好きなのは知ってたけど……セオ様もオリビアのことが好きだと思ってたのよ」
「まさか、ありえません」
「そうかしら……とにかく、話ならいくらでも聞くから、オリビアは私を頼ってちょうだいね!」
「ふふ、ありがとうございます」
胸を張るライラがおかしくて笑ってしまいました。ずっと泣いてばかりだったけれど、ライラのおかげで久しぶりに笑顔になれた気がします。
「オリビア嬢、お久しぶりですね」
私たちに、ライラの婚約者のカイン様が話しかけてきました。
「ごきげんよう、カイン様」
カイン様は微笑んで、ライラに向かいました。
「ライラが好きなケーキがあったから、取ってきたよ」
「まあ、さすがカイン様! 大好き!」
ライラは幸せそうにケーキを食べ始めました。
あらあら、大好きと言われたカイン様が赤くなっています。カイン様は物静かな方ですが、ライラの前だといろいろな表情をされますよね。
「とってもおいしかったわ! 私、もう一つだけ食べてくるわね」
あっという間に食べ終わったライラは、ケーキを取りにいきました。
「ふふ、ライラったらいつも楽しそうですよね」
私が笑っていると、
「そうですね……一緒にいたらこちらまで楽しくなってしまいます。そそっかしくて目が離せない……それが好きなところでもあるのですが」
カイン様が優しい目でライラを見つめながら言いました。あら、惚気られてしまいましたね。
「カイン様はライラが大好きなんですね」
「あ、いや……はい」
カイン様が恥ずかしそうに答えました。
「ライラもカイン様がかっこいい、大好きだっていう話ばかりするんですよ?」
「えっ、そうなんですか」
カイン様、ちょっと嬉しそうです。
「とても幸せそうで、羨ましいです」
私も二人のように、セオ様と幸せになれたら……なんて。
「はは、喧嘩もよくありますけどね」
「ええっ、そうなんですか?」
「はい、でもお互いに気持ちを伝えて、話し合うようにしています。以前、気持ちを伝えなかったせいで、ライラとすれ違いそうになってしまったものですから」
「そんなことが?」
意外です……二人はずっとうまくいっているように思っていました。
「ライラは俺のことが好きだとずっと言ってくれていたのですが……俺はライラに好きだと言うのが恥ずかしくて、避けてしまったんです。本当に情けない男でした。ライラに『言ってくれないとあなたの気持ちがわからない』と言われてやっと、思っていても言葉にしないと伝わらないことに気づいたんです」
「そうだったんですね」
そういえば私も、セオ様がヒロインを好きになってしまうのが怖くて、セオ様に気持ちを伝えたことはありませんでした。でも……もう一度会えたら、ずっと好きだったことを伝えてもいいでしょうか。今更で、迷惑で、ただの自己満足かもしれませんが、ずっと抱えてきた想いを伝えることは許されないでしょうか。
……セオ様に会いたいです。
「……でも、カイン様がライラを好きなのは言わなくてもわかりますよ? カイン様はいつもライラを愛おしそうに見つめていますから。ライラのこととなると意外と表情に出やすいんですね」
「な、そんなことは……」
「ありますよ、ふふふ」
カイン様はからかいがいがありますね、なんて考えていると__突然、後ろから腕を引かれました。
え、何ですか!?
混乱する中、私は誰かに後ろから抱きすくめられていました。
「オリビア、こんなところで何してるの」
すぐそばから聞こえるこの声は……
「セオ様!?」
また、息が止まるような心地がしました。
どうして、セオ様がここに!? それに、なぜ私はだ、抱きしめられているのですか!? こんなこと、今まで一度もされたことがありません!
あまりにも突然のことに固まっていた私の腕を取り、セオ様は無言で私を人気の無いバルコニーに連れ出しました。一体、どうなっているのでしょうか。確かにさっき、セオ様に会いたいと思いましたが、こういうことではありません。ましてや、この状況で告白するなんて絶対に無理です。
「あの、セオ様……」
「なぜこんな舞踏会に君がいるんだ」
セオ様が私の話を遮り、冷たく言いました。いつもなら私の話をちゃんと聞いてくれるのに……それに、それはこっちのセリフです。セオ様は私と早く婚約解消したいくせに、そんなことを言われる筋合いはありませんよね。
「セオ様には関係ありません。だって私はセオ様に婚約破棄されましたもの」
「……しない」
セオ様が何かつぶやきました。
「今、何か……」
「婚約破棄なんて絶対にしないよ」
セオ様がはっきりと言いました。頭の中が真っ白になります。
一体、どういうこと……? まさか、私と結婚して、ヒロインを愛人にするつもりでしょうか。確かに私はヒロインを虐めるはおろか話したことすらありませんし、一方的に婚約破棄する理由はないかもしれませんが……
「そんな……」
思わず泣きそうになってしまいました。たとえセオ様と結婚しても、他の人を愛するセオ様を見なければならないなんて、あまりにもひどいです。心が無くなってしまいそうです。
「オリビア……」
今日初めて、セオ様がちゃんと私を見てくれたような気がしました。
「っごめん……でも……」
こんなにもまだセオ様が好きなのに……
「僕はオリビアが好きなんだ」
え…………?
オリビアって誰ですか!? ヒロインはオリビアという名前では無かったはずですが。私の知り合いにもオリビアという方はいませんし……そういえば私の名前はオリビアでしたね……あれ?
「……オリビアも僕のことが好きなんだと思ってた。初めて会ったときから、目を合わせたら真っ赤になるし、僕といると幸せそうに笑ってくれたし……でもそれは違ったのかな。好かれていると自惚れていて、まさか婚約破棄を受け入れられるなんて思っていなかった」
待ってください、このオリビアって私のことですか? セオ様に私の気持ちはバレバレだったのですか!?
混乱しすぎて声が出ない私に、セオ様は話し続けます。
「想いを寄せられていると勘違いして、嬉しかったんだ。いつもオリビアの反応がかわいくてしょうがなくて、いつのまにか僕の方が君を好きになっていた。でも婚約破棄をあっさり受け入れられて、愕然とした……僕の気持ちは伝わっていなかったんだね。これから何度でも言うよ。オリビア、君が好きなんだ。お願いだから、僕と結婚してくれないか」
セオ様が嘆願するように言いました。話の内容が信じられません。だって、どうして……
「じゃあ、どうして婚約破棄なんて言ったんですか?」
「それは……しゃっくりを止めるためだったんだ」
はい????
しゃっくり ????????
「その前、オリビアのしゃっくりが止まらなくなっていただろう? だから驚かせて、止めようとしただけなんだ」
そういえば……婚約破棄されたことですっかり忘れていましたが、その前に突然しゃっくりが止まらなくなって、恥ずかしかったような……
確かに、突然の婚約破棄に息が止まるほど驚いて、しゃっくりなんて止まってしまいました。
「はぁ……」
まさか、そんなことだったのですか。
「オリビア……やっぱり僕との婚約は嫌だった?」
セオ様が不安げに私を見つめました。
「そんなわけありません。私はセオ様の婚約者でいられてとても幸せでした」
「じゃあ、どうして婚約破棄を受け入れたの?」
「だって……セオ様には他に好きな人がいるのではありませんか?」
……ヒロインを好きになってしまったのではないのですか?
「そんなわけないだろ……僕が好きなのは君だけだよ。どうしたら伝わる? オリビアが嫌でも婚約破棄なんてするつもりもなかったし、オリビアが他の男に笑いかけているだけで腸が煮えくり返りそうなんだ。どうしようもなく君が好きだ」
そう言われて……私は顔が熱くなるのを感じました。だって、ずっと好きだった人に好きだと言われて、嬉しくないわけがありません。婚約破棄されても諦めきれないくらい、どうしようもなくあなたが好きなのは私の方なのに。
「私は……セオ様がいつか他の方を好きになってしまうと思っていました。こんな、かわいく振る舞うこともできない私を好きになってもらえるなんて期待しない方がいいと……もしも婚約破棄されたら、潔く身を引こうと思っていたんです」
セオ様は若草色の瞳で私をじっと見つめながら、私の言葉を待ってくれました。
「でも、婚約破棄されて、セオ様を忘れることなんてできませんでした。セオ様に縋ってでも、婚約破棄を受け入れなければよかったと思うくらい……
……私もセオ様のことがずっとずっと好きです。あなたと結婚することが夢でした。これからも一緒にいさせてください」
そう言うと、セオ様に痛いくらい身体を抱きしめられました。
「オリビア……結婚式はいつにしようか」
「ええっ? ま、まだそんな」
「早く結婚して、オリビアを全部僕のものにしたい」
「せ、セオ様?」
抱きしめられて、もう頭がいっぱいいっぱいなのに……でも、幸せだと心から思います。
* * * * *
セオ様は断れない付き合いで舞踏会に行き、たまたまカイン様と話している私を見つけたそうです。
その日から、セオ様がいつも私に好きだと言ってきて、とても心臓がもちません。でも、私の方がもっと好きだと言う自信はあります。
ライラには笑いながらバカップルだと言われましたが、私はライラとカイン様も大概だと思っています。
そういえば、あの小説のヒロインは、子爵令息と婚約して幸せにしているそうです。
「オリビア」
考え事をしていると、セオ様が不意打ちで私の額にキスしてきました。
「せ、セオ様!」
やっぱり、セオ様といるとドキドキしてしまいます。
「オリビアはいつもかわいいなあ」
「そんなこと……」
反論しようとすると、唇を塞がれてしまいました。
「好きだよ、オリビア」
頬が熱くなります。セオ様ばっかりいつも余裕でずるいです。精一杯の仕返しに、セオ様の頬にキスすると……セオ様は頬に手を当てて、赤くなりました。
えへへ、してやったり。
突然、婚約破棄されました……と思っていました。
でも、悪役令嬢だったはずの私は、セオ様と私の物語のヒロインになれました。
それまで自分の気持ちを伝える勇気がなかった私ですが、これからは言葉にしていきたいです。
「セオ様、大好きです」
読んでくださってありがとうございました!