僕と8畳間と薹葉
僕と薹葉が出会った日の話。
昔ふと自分の中で浮かび上がってルーズリーフ1枚に押し込んでいたお話を、思い立って書き上げてみました。
多分私の家にいるであろう、薹葉へ。
それは偶然だった。
いつもの8畳間。
冷房の効いた部屋で、麦茶の入ったグラスがカランと鳴った。
音につられてふと集中が途切れる。目下のノートにはいくつかの数式と、それを正す赤い文字。
何を思うでもなく視線を少し上げる。8畳間と、仏間を繋ぐ襖。
そこに空いていた小さな隙間から、小さな目がこちらを見ていた。
それに恐怖を覚えなかったのはなぜなのか。
その瞳に浮かび上がった好奇心や知的さを含んだきらきらとした輝きを見つけたからだと思う。
僕は無意識にその子に向かって「おいで」と声を掛けていた。
話しかけられた事に驚いたのか、ぱちぱちとその目を瞬かせると静かにススス...と襖を開けた。
襖の向こうから現れたのは幼稚園児くらいの小さな男の子。赤子のような丸さをまだ残したふくふくとしたほっぺ。
手足も幼児特有の柔らかい白さがあり、手は紅葉のようにちいさい。
大体4歳くらいだろうか?今年4歳になったばかりの従兄弟を思い出す。
にこにこと陽だまりの様に笑い、ころころと転がる鈴のような可愛らしい声。
すべての信頼を預け、拙く名前を呼ぶ姿を脳裏に浮かべ笑顔が溢れる。
ほんの30センチほど開けた隙間に上半身をひょこっと覗かせたその子は、まだぱちぱちと目を瞬かせていた。
ちょっとした困惑と、好奇心と、ほんの少しのどきどき。
「君はだれ?」
僕はその子に話しかけた。平然と話しているようで、僕の胸もとくとくと軽やかな鼓動を刻む。
「とうのは」
小さな、それでも通る透明な声が耳朶に届いた。
「君のなまえ?」
こくりと小さな頭が頷く。とうのは。人の名前としてはなかなか聞くことのない響き。なのになぜか、優しく耳に残る。
「漢字は?どうやって書くの?」
僕がそう聞くと、ややあって困ったような表情になった。漢字がわからないのだろうか?
そんな風に思っていると、その子は襖の隙間から僕の隣に移動してまたその小さな声で「かみと、筆、かして」と告げた。
筆は持ってないから、鉛筆でもいいだろうか?手元にあったルーズリーフと鉛筆をそっと前に置くとちょっと驚いた顔でそれを見て、なぜか少し嬉しそうに鉛筆を握った。
薹葉
小さな手で書かれた名前は、その子に似合った雰囲気をしていた。
画数の多い難しい漢字なのに、なんでこんなにも優しく見えるんだろう?
「とうのは」
それを指差して言えば、その子は優しく目を細めてにっこりと笑った。
年相応の笑顔であるのに、不思議と良くできましたと褒められたように感じてしまう。
「いい名前だね」
僕も笑いながら彼を見た。
視線が混ざり会う。こんなに人の目を見るのは久しぶりだ。
いつもの不自然な動悸は息を潜め、穏やかにリズムを刻んでいる。
それから僕は彼と薄暗くなるまで一緒にいた。
勉強中の僕を後ろから横からそっと覗き込んだり、一緒にちょっと落書きをして遊んだり。決して騒がしくはない静かで賑やかな時間だった。
気がつくと明るくはっきりとしていた僕たちの輪郭がぼんやりとしていて、僕は勉強道具を片付け始める。
薹葉も筆箱にペンや鉛筆を片付けてくれる。
僕が一式をまとめて持つと、薹葉が廊下に繋がる障子を開けてくれた。
「ありがとう」
お礼をいうと、薹葉はにっこりと笑った。
「またね」
薹葉は小さく手を振って、障子を閉めた。
僕と薹葉はこうして出会った。
僕の心の傷は、穏やかに静かに、少しずつ溶かされていく。
読んでくださりありがとうございます。
まだ続きが書きたいもの。まだ続きのあるお話です。
とりあえずは、今回は短編で。
【登場人物?】
薹葉 とうのは
家の八畳間に現れる子ども。
4歳くらいの男の子の姿。くりくりの目がかわいい。
物静かでほとんどしゃべらない、多分人ではないから。
座敷わらしのような存在。
そっと障子の向こうから覗き混んでくる。
たまに現れては、勉強をしている自分の姿を見ている。
結構好奇心が強いらしい。何をしてるのか気になってる。
僕
薹葉と関わる人物。視点主。
出会うのは中学の頃。多感な時期に虐めのような事に会い、どこか心に重石を抱えながら生活していた
一番落ち着く家の八畳間で勉強中、薹葉に出会う。