生意気な小娘
深夜にあんな事件があったとは思えないような、清々しい朝だった。
まだ太陽に熱を与えられていないひんやりした潮風の中、ジュールは御者が操る二頭だての馬車と、馬に跨がった二人の男を引き連れて、セナンクール家に戻ってきた。
「ったく……。どうして、こんな厄介なことになってしまったんだ。こうなると分かってて、俺をここに差し向けたのか? いや、そんなはずはないか」
降りたばかりの青毛の愛馬の首を軽く叩きながら、ジュールはぼやいた。
彼は昨晩の濃紺の上下ではなく、黒のズボンにブーツ、白のシャツを身につけ、グレーのマントを羽織っていた。
簡素な旅装であるが、仕立てはよく、彼自身も貴族ということもあってか品よく見える。
マントの裾からは長剣の鞘がのぞいていた。
しばらくして、館の主たちが慌てた様子で出てきた。
簡単な挨拶の後、ロドルフがジュールの連れてきた者たちを不思議そうに見回した。
「そちらの方々は?」
「港の警備兵から、腕の立つ奴を借りてきた」
その説明通り、連れてこられた男たちは、ありふれたシャツとズボンといった出で立ちだったが、腰からは長剣をさげ、まくり上げた袖からは筋肉質の太い腕がのぞいている。
明らかに、一般人ではなかった。
「もしや、王都まで、あの馬車で行くのですか?」
「ああ。王都まではかなり距離があるからな。女連れでは仕方がない」
その返答に、夫婦は顔を見合わせて、困ったような顔をした。
もう出発するというのに、どういう訳か、その場に問題の娘が来ていなかった。
ジュールは彼女の姿を探して、周囲に視線を走らせる。
「レナでしたら、すぐに参ります」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、軽い足音が聞こえてきた。
生成りのシャツとチェックの吊りズボン、くたびれた編み上げのブーツ。
頭の後ろに揺れる長い髪を除けば、まるで少年のような姿のレナエルが、瞳を輝かせて駆け寄ってきた。
彼女は周りの人々には眼もくれず、少し離れた場所で立ち止まると、そこからはゆっくりと一歩一歩、近づいてきた。
どうも様子が変だ。
彼女の眼に映っていたのは、朝日を浴びてぬめるように輝く、力強く美しい漆黒の馬だった。
騎士馬とも呼ばれる、普通の馬より一回り以上大きな体躯を持つ大型種。
よく鍛えられた、しなやかで均整のとれた筋肉がついたジュールの馬は、彼女がこれまで取引中にさんざん見てきた、どんな軍馬よりもすばらしかった。
「その馬、あんたの?」
上気した顔で、うっとりとした眼を馬に向けながら、レナエルがジュールにたずねた。
小娘に「あんた」呼ばわりされた騎士は、むっとした表情になる。
「ああ。そうだ」
「触っても、いい?」
「だめだ。シモンは気難しい……って、おいっ! 待て!」
制止したにも関わらず、彼女はふわふわとした足取りで、馬に近づいていく。
「シモン? あなたシモンっていうの? すっごく綺麗ね」
馬に対しては「あなた」と呼びかけながら、レナエルが手を伸ばして艶やかな首をぽんぽんと叩いた。
そして、ゆっくりと首を回した馬の鼻筋を、親しげに撫でて、無邪気な笑顔を見せた。
気難しいはずの馬は、穏やかな瞳を彼女に向け、なすがままになっている。
「いい子ね、シモン」
「シモン。お……まえ」
嘘だろ?
ジュールは自分の愛馬とレナエルが触れ合う様子を、唖然と見ていた。
普段、世話をしている者にすら、めったに鼻面を触らせることのない、気位の高い馬だ。
初対面の娘を、すんなり受け入れていることが信じられなかった。
「レナ。君、自分の馬を放ったらかしで……」
近づいてくる若い男の声と馬の足音に気づき、ジュールはようやく我にかえった。
しかし、声の方向に視線を向け、さらに絶句する。
そこにいたのは全身は茶だが、鼻筋と四肢、腹の一部が白い駁毛の馬。
茶色の長いたてがみには、大きな三つ編みが編み込まれている。
ジュールの馬と比べて僅かに小さいが、二頭を並べても見劣りがしないほどの堂々とした体躯をしており、どこから見ても騎士馬だった。
こんな商家にいるはずのない馬だ。
「な……なんだ、その馬は。どこから連れてきた」
ジュールの驚愕した声に気づいて、レナエルは自分の愛馬に近づいた。
「どこから……って、ルカはあたしの馬よ」
それを証明するかのように、彼女は手綱を受け取ると、白い鼻面を愛おしそうに撫でた。
「ばかな! それはどう見ても、騎士馬だろう」
「そうよ。騎士馬になるはずだった馬よ。取引のときに気に入って、旦那様にお願いして、買っていただいたの。正真正銘、あ・た・し・の、馬よ! 王都まで、この子に乗って行くわ」
レナエルは自慢げに顎を上げた。
騎士馬になる馬は貴重な種であるため、購入するには莫大な金がかかる。
また、巨体ゆえに維持費も膨大だ。
女や子どもが遊びで乗れるような馬ではなく、ましてや馬主になることなどあり得ない。
だが、セナンクール家の財力と、彼女の事業への貢献度から考えれば、ありなのか。
騎士馬は戦場でこそ真価を発揮するというのに、これほど見事な馬を、金にあかせて小娘の玩具に買い与えたというのか。
ジュールは、騎士の矜持を、踏みにじられたような気がした。
レナエルと騎士馬になるはずだった馬を、代わる代わる睨みつける。
「その馬がお前のものだとしても、だいたい、どうやってそれに乗るというんだ。男でも難儀する高さだぞ。旅に出れば、いちいち踏み台など用意できんぞ」
騎士馬は体高があるために、他の馬よりもかなり高い位置に鐙がある。
鞍も彼女の頭の高さより上だ。
どう考えても、身長も筋力も足りない女が、一人で乗れるとは思えなかった。
ジュールの見下すような低い声に、彼女はふんと鼻を鳴らした。
「ルカ、いくよ」
愛馬の首を軽く叩いて囁くように声をかけると、地面を蹴って飛びつくように手綱を掴み、片足を高く振り上げて鐙にかけた。
身体がひらりと浮いたかと思うと、次の瞬間には鞍の上にすとんと跨がっていた。
「なんか、文句ある?」
背筋を真っすぐに伸ばし、どうだとばかりに見下ろしてくるレナエルに、ジュールはしばらく口がきけなかった。
「…………どういう身体能力だ。あんたは軽業師か」
吐き捨てるようにそう言うと、奥歯を噛み締めて視線を外した。
こんな小娘にやり込められたようで、はらわたが煮えくり返る。
だが……。
この馬を乗りこなせるのなら、王都まで早くたどり着ける。
馬車より目立たず、機動力があるから、逆に安全と言えるだろう。
こんな、生意気な娘と二人きりなのはごめん被りたいが、任務を全うすることが何よりも重要だ。
眉間にしわを寄せ考え込んでいたジュールは、しばらくすると決心したように、馬上の娘を見上げた。
「……分かった。馬で行こう」
そう言うとその場を離れ、自分が準備した馬車に近づいていった。
私服の警備兵達も呼び寄せ、何やら説明を始める。
兵たちはやけに真剣な表情で、頷きながら聞いていた。
しばらくすると、警備兵が前後を守るようにして、馬車が門から出て行った。
なぜか、港の詰所とは反対方向に曲がっていくのが、柵越しに見える。
「あの人たち、帰ったんじゃないの?」
「いや、空の馬車を王都に向かわせた。彼らには囮になってもらう。無事に王都にたどり着ければいいがな」
その説明に、レナエルが怪訝な顔をした。
「おまえは自分が狙われていることを、もっと自覚しろ!」
ジュールは不機嫌にそう言うと、近くにいた使用人の少年の頭に手を伸ばした。
「借りるぞ」
少年の頭に乗っていた帽子を奪い取り、無造作にレナエルにかぶせる。
「その髪は隠しておけ。遠目からなら、華奢な男に見えるだろう」
彼女は無言のまま、馬の尾のように揺れていた、明るい金の髪を帽子に押し込んだ。
「いいか。無事に王都にたどり着きたいなら、決して、俺から離れるな!」
脅すように強く言った言葉には、反抗的な眼が返ってきた。
まったく、先が思いやられる。
ジュールは出発前から、うんざりしていた。